犬と後輩ー3
◆◇◆
少し、時間を遡り。
十時四十五分。
駿介はふれあい西家を出発し、木澤さんの自宅前へやって来ていた。
外へ出るだけで気分が高揚する。そんな快晴だった。
周囲を見渡せば田んぼや畑が広がり、さらにその奥には、まだ雪が残る山々が見える。
田舎、と言って差し支えない。
一応、バスは通っているようなのだが、電車の駅までは歩いて一時間程はかかる。
駿介の自宅周辺とはまるで違う風景だった。同じ市内だというのに、格差があるというか、なんというか……。
それはともかく。
「すー……はー」
深呼吸をする。
駿介は「声が大きい」、「元気が良い」と言われることが多い。
実際、大きな声を出すことに抵抗はない。慣れてしまった部分もあるし、なにより、性分もあるのだろう。大きな声を出した方が気持ちが良いし、周囲からの受けも良い。
では、緊張はしないのか?
否である。
未経験のことに挑戦する時や、不慣れなことを行う時、人並みに緊張する。
今こうして、一つの仕事を任され、事業所の代表としてこの場にいることを思うと、背筋を伸ばさずにはいられない。
「あーあー」
発声練習をして、目の前の玄関を見る。
昔ながらの引き戸である。
曇りガラスに鉄製の補強材が施されている。濃い茶色を軸にした、家の外観に溶け込むような造りだ。こだわり――なのかは分からないが、そんな引き戸だった。
送迎業務自体は今回が初めてではない。
まだ不慣れではあるけれど、いつも通り行えば問題ないと自分に言い聞かせる。
「よし」
意を決して、呼び鈴を押す。
ほどなくして、家の中から「はーい」という言葉が聞こえる。
声を張り上げる。
「ふれあい西家の護人と申します! お迎えに上がりました!」
腹筋、肺、喉をフル活用した、大音量の挨拶である。
そのまま少し待っていると、ドアの向こうでばたばたと騒がしい音がする。
なんの音だろうと待ち構えていると、
「お待ちしてましたよ」
ドアが開く。
にこやかな笑顔で迎えてくださったのは、木澤えい子さんの娘である、美智子さん。
と、一匹の犬。
美智子さんは、リードに繋がれた犬を引っ張って玄関まで出てきた。
三角形の耳と短い手足が特徴的な犬だった。
犬種は……コーギーだろうか。
駿介も、決して犬は嫌いではない。
コーギーと思しき犬に軽く手を振ってみる。
不思議そうに、首を傾げられた。気がする。
「可愛いですね」
「はい。うちの大切な家族です」
美智子さんとそんな会話をする。
ご家族との何気ない会話も、介護職員の大切な仕事だ。
駿介は持ち前の爽やかさを存分に発揮し、美智子さんに笑顔を振りまいた。
その直後である。
「すみません、厚かましいお願いかとは思うのですが」
美智子さんは自身が持っていたリードを、駿介へ渡してくる。
「え、あの?」
反射的に受け取ってしまう。
戸惑っていると、美智子さんは、
「この子の散歩をお願いします」
そんなことを仰られた。
「え? いや、それは――」
「すみません、朝から母が行きたくないと渋っているんです。理由を聞いたら、『自分がいなくなったら犬の散歩はどうするのか』と……。適当に、その辺を散歩していただければ良いので、お願いします」
美智子さんは、駿介の戸惑いなどお構いなしで、自分の要件だけを突きつけて来る。
「明日からゴールデンウイークということもあって、今、親戚の者が集まって来ていまして……。私も対応が追い付かなくて困り果てているんです」
「あの、しかし――」
「一時間くらい、近所を歩いてきてもらえれば、母も納得すると思いますので」
「一時間!?」
「帰って来るまでには母を説得して、準備させておきますので!」
「いやその――」
「よろしくお願いします!」
駿介が言葉を発しようとする度、美智子さんは狙っているかのようなタイミングで言葉を被せ、遮って来る。
駿介の都合など知ったことではないと、態度で示していた。
「えっと! あのですね!」
駿介はなんとか流れを断ち切ろうと大きな声を出す。
犬の散歩など、介護士の仕事ではない。
そんなことは家族がやってくれなければ困る。
親戚が来ているというのなら、その人たちにしてもらえば良いではないか。
どう考えても、送迎でやってきた介護職員に頼むことではない。
「あの、申し訳ないですが、お断り――」
「ほら、ハナ子、行っておいで~!」
「うわっ!」
ハナ子と呼ばれたお犬様は、飼い主の言葉を受けて、勢いよく玄関を飛び出した。
飼い主に似ているのか、お犬様の方も、駿介の言葉は耳に入っていないようだった。
「ちょっ、ちょっと、待っ」
「では、よろしくお願いしますね!」
「あのっ!」
ピシャリ。
玄関のドアが締められる。




