犬と後輩-1
明日からゴールデンウイークである。
今年のゴールデンウイークは最大で十日間もあり、ここ数年では最も長い連休となる。
毎日のように各地のイベント情報が報道され、ゴールデンウイークに入る前から、浮かれた雰囲気が漂っていた。
そんな中、介護施設は、というと……。
「排泄入ってきますね」
「了解。お願いします」
普段と全く変わらない空気が流れていた。
ゴールデンウイークだからと言って、御利用者がいなくなるわけではない。むしろ、旅行に行ったり親戚が来たりと、普段とは違う意味で忙しくなる家庭が多く、利用者が増えるくらいである。
「コージ、俺は?」
「あ、主任は食事の準備をお願いしてもいいですか?」
「分かった。フロア頼むな」
「はい」
職員同士で声を掛け合い、仕事を進めていく。
本日、浩司の役割は『フロアリーダー』だ。
その日の責任者、と言えば分かりやすいか。
介護現場は夜勤ありのシフト制であるため、毎日、自分よりも上役がいるとは限らない。主任がいない日も多くあるのだ。
三年以上の勤務経験がある中堅職員から、毎日一人ずつ、月に四、五回のペースで回って来る。
今日は浩司の番だった。
「彩峰さん、排泄終わりました。次はなにをすれば良いですか?」
オムツ交換やトイレ誘導といった、排泄業務をほんの十数分で終わらせ、フロアに戻ってきた彼女、硯冴香は、浩司の一つ下の後輩である。
「え、もう終わったの?」
「え、終わらせない方が良かったですか?」
彼女は小首を傾げる。
「いや、そういう意味じゃないよ。早いなと思っただけだよ」
「……褒められてます?」
「……褒めてない」
ぶっきらぼうに返すと、冴香はクスっと笑う。
後頭部にある尻尾が揺れた。
硯冴香という人物を、一言で表すなら、『犬』だ。
基本的には優しく従順で、組織の和を乱すようなことはしない。職員の誰とでも仲良く話すことができ、それでいて、外部の人に対してはピシッとした姿勢で対応できる。
気を許した相手にお茶目な言動を見せるところも、飼い主にいたずらする犬っぽさがある。
くりっとした目とミドルショートのポニーテールは、そのまま、犬の目と尻尾を連想させる。
「特にすることがなければ、主任の手伝いに入りますよ」
「そうだな。頼む」
「はーい」
間延びした返事をして、冴香はキッチンへと向かう。
浩司と冴香の会話は、くだけた雰囲気がありつつも、簡素で明快。
二人は年の差一つということもあり、互いのことを近しい存在として認識していた。
浩司にとっては、最も話しやすい相手だ。
「彩峰さん、休憩はどうしますか?」
冴香がキッチンから顔を覗かせ、尋ねて来る。
その間も、食器を出したりお茶を汲んだりと、手を動かすスピードは落ちない。
浩司も、記録物を整理する手は止めずに答える。
「とりあえず、駿介が帰って来てからだな」
「分かりました」
頷き、冴香は再びキッチンへ引っ込む。
「……ふむ」
冴香とのやり取りを終えて。
浩司はふと、思う。
――やっぱ、やりやすい、な。
最近、駿介と一緒にいることが多く、他の職員との関わりが以前より減っていた。
指示を出すにしても出されるにしても、常に駿介が隣にいるため、どうしても、注意はそちらに向いてしまう。周囲の視線も同様だ。
こんな風に、慣れた職員同士で連携を取り合う安定感が、一ヶ月ほど、なくなっていた。
まだ入って一ヶ月の新人と、四、五年も一緒に過ごしてきた仲間では、比較対象にならないことは分かっている。けれど、分かった上でも、なんとなく、やりやすいな、と感じてしまう。
「コージ」
「はい?」
今度は、キッチンからもしゃもしゃ頭が顔を覗かせる
「護人君が帰って来てから、ていうのは良いけど、その彼は、いつになったら帰って来るんだ?」
「木澤さんの家に行っているだけですから、そろそろ戻って来ると思いますよ」
「分かった」
川瀬主任は頷き、キッチンへと姿を消す。
「言われてみれば……?」
浩司は、フロアの畳場側にある特大テレビへと目を向ける。
壁に掛けられたテレビには、可愛い犬猫が映し出されていた。自慢のペットを紹介する番組のようだった。
そう言えば、冴香が犬を飼っていたな、なんて思い出すが、そんなことのためにテレビに視線を向けたのではない。
画面の左上、表示されている時刻を確認する。
十一時二十分。
あと三十分少々で十二時、お昼の時間になる。
「遅いな」
眉をひそめる。
駿介は今、送迎業務のため、外へ出ている。
御利用者の一人である木澤さんを迎えに行くためだ。
木澤さんの家までは、車で十五分ほどの距離だ。
十時半には事業所を出発していたはずなので、行き来するのに三十分。今が十一時二十分ということは、今すぐ戻ってきたとしても――二十分近く、どこかで時間をロスしている計算となる。
――木澤さんが渋っているのか……?
浩司は不思議に思いつつ、そんな想像をする。
送迎時、御利用者当人が嫌がる場合があるのだ。
ご家族が本人に話していなかったり、話していても忘れてしまっていたり、その理由は様々だが、送迎が遅れるパターンの一つとして、『来所拒否』は十分考えられた。
「ま、いいか」
浩司は深く考えず、自身の仕事へ戻る。
木澤さんの家庭は、いつもご家族が待っていてくれる。
もし、なにかあったのなら、ご家族から電話がかかって来るだろう。
なにより、駿介に対しても、滝野さんの一件以降、幾度となく「困ったら先輩に聞け」と指導してきた。困ったことが起こっているのなら、電話の一本くらいかけて来るだろう。
気にならないわけではないが、気にし過ぎでも仕方がない。
「主任、硯さん、あとなにが残ってますか? 盛り付けは?」
浩司は書類整理を終えると、自身もキッチンへと向かう。
こっちはこっちで仕事があるのだ。
「テーブルの消毒お願いしていいですか?」
「はいよ」
浩司は消毒液と台ふきを受け取り、昼食準備を開始した。




