プロローグ
連なる山々に雪が残る三月末日。
「来年度いっぱいで辞めさせていただきます」
浩司は淀みなく口を動かした。
「やはり、変わりませんか……」
浩司の正面に座る上司は、神妙な顔つきだった。
六畳ほどの、手狭な応接室。中央に置かれた赤茶色のソファに腰を掛け、浩司は緑茶をすする。
ほう、と一息つき、
「はい。もう決めたことですので」
きっぱりと答える。
何度問われても変わらない。
意志は固かった。
介護職員として就職し、この三月で四年が経過する。
大学を卒業し、初めて『仕事』というものを経験した。
上司や諸先輩方含め、職員の皆さんは本当に優しく、温かかった。初めての職場としては、理想と言って良かった。
社会人としての基本的な知識、マナーを教えてもらい、介護士としても大幅にスキルアップすることができた。
感謝してもし切れない。
それでも浩司は、辞めると決意した。
「給料、ですか……」
和田蓮水管理者は、特大のため息を吐く。
「はい」
やはり、きっぱりと答える。
和田管理者は恰幅の良い体を揺らし、自分で淹れたコーヒーに口をつける。
周囲へ視線を巡らすと、薄汚れたグレーの壁が目に入る。板張りの床は黒ずみ、天井にも染みが目立つ。年季の入ったエアコンがゴーと大きな音を立てていた。
和田管理者はごくりと喉を鳴らしてからカップを置き、「仕方ないわね」と言う。
「あなたには、できれば辞めて欲しくないのだけれど。給料のことを言われると……何も言えないわ」
丸眼鏡を太い指で押し上げ、もう一度、ため息を吐く。
浩司が辞めると言い出した理由はたた一つ。
給料が低い。
人間関係に不満はなく、介護という仕事自体にも特段、苦手意識はない。
ただ、仕事内容に反して、給料が低すぎるのだ。
浩司がもらっている一ヶ月分の給料は、手取りで十五万程だ。資格手当、通勤手当、その他もろもろ、全て込みで、だ。
実家暮らしだから良いようなもので、将来を考えると、あまりにも心もとない金額だった。
「そう、ね……そうよね~」
和田管理者はなにかを思案するように、数秒間ぎゅうっと瞼を閉じる。それから、「うん」と頷く。
「彩峰浩司さん」
「はい」
「できれば辞めないで欲しい、というのはわたし個人の希望です。引き止める権利はないし、あなたがそう決心したのであれば、あれこれ言うことはできません」
そう言う和田管理者の顔には、苦渋の表情が張り付いていた。
心中を察する。
ここ、『ふれあい西家』は単独の事業所ではなく、法人内の一事業所に過ぎない。事業所のトップである和田管理者も、法人全体で見れば中間管理職の一人なのだ。
自分が管理する事業所から、離職者を出したくないだろう。
和田管理者の顔には深いしわが刻まれ、パーマをかけた髪の毛にも白髪が混じっている。
「すみません」
謝る必要もないのに、浩司は謝罪の言葉を口にしていた。
お世話になったと思っているのは本心なのだ。
「ああ、いいのよ、謝らなくて!」
和田管理者は焦った様子で遮る。
「むしろ、将来のことを考えれば当たり前の決断だわ。今の給料じゃ厳しいわよね。気にすることはないわ」
「……」
早口に、笑顔で言う上司を見て、やっぱり良い人だなと思う。
小さな事業所のトップとはいえ、この人も管理者だ。
この四年間、何度も助けられてきた。
煩わしいと感じることもあったけれど、それは仕事上の話だ。人として嫌いなわけではない。
「和田さ――」
「それでね、一つ相談なのだけど」
「――」
返事をしようとして、固まる。
和田管理者はにこにこと、満面の笑みを浮かべていた。
「なんでしょうか?」
浩司は反射的に身構えた。
この表情をした時の和田管理者は、大抵、面倒くさいことを考えている。四年間、一緒に仕事をしてきたが、この表情には良い思い出がない。
「辞めると言っても、来年度、まだ一年あるでしょう?」
「はい。そうですけど……?」
頬が引きつるのを感じつつ、頷くと、
「四月から新卒の子が一人、うちに来るのよ。指導担当をあなたにするから、その子を一人前にすることが出来たら、辞めるっていうのはどうかしら?」
和田管理者は、そんなことを仰った。
やはり、面倒くさいことを考えていた。
「あ、勘違いしないでね。辞めるのは確定で構わないわ。法人本部にもきちんと伝えておきます。けどね、送り出す側として、下の子を育てる経験も積ませてあげたいなって思うのよ。どうかしら?」
「えーっと……」
答えに詰まる。
確かに、浩司には後輩を育てた経験がない。
慣れている場所にいるうちに、後進を育てる経験を積むのは悪くないかもしれない。和田管理者の提案にも一理ある。
少々押しつけがましい上に、あくまで『ポジティブに捉えれば』、の話ではあるけれど。
「どうかしら?」
笑みを崩さず、重ねて尋ねて来る。
浩司は湯のみを手に取り、残っていた緑茶を喉に流し込む。
日本茶独特の苦みが口内に広がった。
「和田さん」
「なにかしら?」
「来年度、最終的にどういう形になっても、自分は辞めたいと思っていますが……それでも良いですか?」
「ええ、構わないわ」
即答である。
余計に不安感が増した。
本当に、大丈夫だろうか。
例えば、浩司の力不足で一人前どころか、まるで戦力にならなくなってしまったり……例えば、戦力にはなっても、変な育ち方をして考え方が歪んでしまったり。
もしそうなった時、『一年経ったからバイバイ』と、簡単に去れるだろうか。
後腐れなく、事業所を後にできるだろうか。
――まあ、いいか。
浩司は考えた末に、思考を止めた。
元来、浩司は面倒くさいことを避ける傾向にある。
面倒事が起こらないように立ち回り、また、面倒事が起こっても、最小限の被害に抑えることが得意だった。
その思考からいけば、この提案、百パーセント断るべきだ。
それは重々承知していたが。
――なにかあったら、和田さんのせいにしよう。
そう思ったのだった。
我ながら、無責任だと思わなくもないが、そもそも辞めると言っている人間に任せる方が悪いのだ。
それよりも、ここで和田管理者と意見を違えて、後々、「やっぱりあの時~」なんて言われる方が嫌だった。
それこそ、円満退社とならないだろう。
浩司は、さも全てにおいて納得したかのような笑顔を浮かべ、
「分かりました。後進育成、引き受けます」
そう言ったのだった。
内心。
どんな後輩がやって来るのか、少しだけ楽しみだった。




