幕外 天使浸幸
私はあの日以来、毎日のように天使様のところに通うようになった。
はじめ天使様も私の呼び方に照れておいでだったけど、今ではすっかり馴染んでしまわれた。
山菜を摘みに行く振りをして山へと行き、天使様のところで一日天使様のお話相手となる。それが最近の私の日課になっていた。
天使様の口からいろいろな話を聞いた。
イエス様のこと、聖書に書かれたお話、天使様の故郷のこと、天使様自身のこと。
薄暗く底冷えのする洞窟の中でも、天使様の隣にいれば怖くもなんともなかった。
天使様の綺麗な白い手が私の頭を優しく撫でる。それだけで、私は日溜まりの中でまどろむ子猫のように満たされた気分になるのだった。
――今振り返れば、あれが、私の中で最も幸福な時期だったのかもしれない。
「どうして天使様は、私たちのところに来てくれたの?」
天使様と出会ってから半年を過ぎたある日、私はずっと前から気になっていたことを天使様に尋ねた。
今の日本はキリシタンを一切認めていない。
四郎様の乱の以後、侍のキリシタン弾圧はより一層激しくなり、破天連と呼ばれたキリシタンの宣教師は皆が揃って海外に追放、あるいは殺された。
もう天使様は外を自由に歩くことすら、叶わない。それどころか、もう故郷に戻れるかどうかもわからないのに。
私の表情がまずかったのか、天使様は困ったように笑顔を歪めた。
ぎゅ、と私が縋りつくように天使様の袖を掴んだ。そんな私の固く握った拳を天使様は優しく手のひらで包み込んだ。
あの二つの蒼い瞳が私の泣きそうになっている顔を覗き込んだ。
優しい言葉が私の耳に囁かれる。
「私は信仰を望む者が一人でもいるなら、行って教えてを説いてあげたいと思うんだよ。
信仰は何人にも奪うことはできない。先を歩く者がそのことを示してやらねばいけないんだ」
だから私はここに来たんだよ、と彼女はゆるやかに微笑む。
釣られたように私の強張った頬も緩んで笑みを形作った。
「……私も、天使様みたいになれるかな?」
「なれるさ。初が毎日いい子にしてたらね」
そうだ、と何か思い付いたように天使様は手を打ち、自分の首の後ろに手を回すと、私に手を差し出すように言う。
言われた手を差し出すと、天使様は私の手の上に何かを置いた。
「はい」
「これ……」
手のひらに置かれたそれは、いつも天使様が胸に下げていた銀のロザリオだった。
「それは初にあげよう。それを持っていれば、いつも天使が君を見守っていてくれるだろう」
私は恐る恐るそのロザリオを灯の光にかざしてみる。銀色の表面がきらきらと輝いている。
不思議と吸い寄せられていく。私の心を掴んで離さない優しい輝き。
天使様は他の誰よりも優しい目で、そんな私を見ていた。
「どうして……私に?」
「私より初が持つ方が相応しい気がしてね」
大事にするんだよ、と言った天使様の微笑みに死んだ母さんの顔が重なった。
「お嬢ちゃん、ご機嫌だねぇ?」
洞窟礼拝堂からの帰り、私は山を降りて谷間に流れる渓流に寄り道していた。気分が高揚して、真っ直ぐ村に帰る気がしなかったのだ。
そこで魚を取っていたおじいさんに声をかけられた。おじいさんが手に握る細い糸から滴る水が夕日の光を照り返し、きらきらと輝いている。
私は上機嫌で答えた。
「うん!私、今とっても幸せなの」
「そうかいそうかい。ところで、お嬢ちゃんが首から提げとる綺麗なもん、そいつはいったいなんだい?」
おじいさんは不思議そうに首からかけられたロザリオを見ていた。あまりに気分がよかったので、首から提げたままにしていたようだ。
私はそれを着物の内側にしまい込むとべぇ、と舌を出して見せた。
「天使様と私の秘密なの、おじいさんには教えてあげない!」
「はは、そりゃあひどいな」
私の様子が面白かったのか、おじいさんは愉快そうに笑った。私も一緒になって笑う。
「さぁ、もう日が暮れるよ。村へとお帰り」
ふと、山の方へと振り返るともう日が山の向こうへ半分も沈んでいた。
次第に辺りも暗闇に埋もれてしまうだろう。
「うん。おじいさんも早く帰ってね」
「あぁ、そうするとも」
そのままおじいさんに手を振って、私は村へと駆けていった。
――村に奉行所の侍が押し寄せたのはその翌日のことだった。