RAINY DEVIL 上
翌朝、雨はまだ激しく降り続いていた。
「おはよう、氷川。今日はずいぶんお早いね」
「おはよう、深沢。ちょっと用事があってな」
僕が教室に着くなり、深沢が僕の側に寄ってきた。なにがそんなに楽しいのか僕には見当もつかないが、今日もいつものように、にやにやと気色の悪い軽薄な笑みを浮かべている。
「へぇ、お前が用事?今日は合衆国の大統領でも暗殺される日か?」
「黙れ、僕を歴史的事件扱いするな」
こいつは、僕の険の籠もった声にもけらけらと愉快そうに笑ってみせる。相変わらず変わったやつだ。
しばらくの間そんなくだらないやり取りを続けていると、女子が五人ほど固まって教室へと入ってきた。
「そう言えば、もうすぐ修学旅行だねぇ」
「あ?あぁ、そうだな」
女子達の会話を盗み聞いていたらしい深沢が僕に話を振る。
「楽しみだねぇ」
「……そうだな」
僕の答えが次第にぞんざいになっていく。
どうせ僕の欠席は決まったようなものだ。母さんが三日間も僕と離れられるわけがない。
こいつはそれを分かった上でそんなことを宣いやがる。人の腹の虫を刺激するのが好きなのだろう。大そうご立派な趣味なことだ。
これ以上こいつと会話していても不毛なだけだ。僕は椅子から立ち上がった。
「今日は僕が屋上使うから。邪魔するなよ」
「ん〜、雨の中で昼寝なんてぞっとするね。喜んでお譲りするよ」
僕がそう言うと深沢はひらひらと手を振って机に突っ伏した。玩具がなくなって退屈らしい。
「あのさぁ、氷川」
「……なんだよ」
屋上へ行こうと背を向けた僕に深沢が気だるげに声をかける。その表情は野球帽に隠されて見えない。
「一時間目からサボるくらいなら学校休めばいいのにさぁ……の割に無欠席の皆勤生徒だよねぇ……なんでなの?」
「お前に言われたくないけど……」
こいつの表情は窺い知れないが、その目はじっとこちらを見ているようで、なんだか試されているような気がした。
居心地の悪さを感じながらも、僕はそっけなく答えてやる。
「ここは僕の唯一の聖域だから、だな」
今度こそ、振り返らずに屋上に向かう。
最後にちらと見えた深沢が、野球帽の下で、にやり、と口元を歪めたように見えた。
ぎぃ、と錆び付いたドアが軋んだ悲鳴を上げる。誰もいない屋上では六月の雨の日の独特の粘着いた湿気だけが僕を出迎えた。
僕は日差しの下を移動して、屋上にひっそりと建てられた機械室まで移動する。僕と深沢はここの鍵を持っている。去年辞めた用務員の老人から失敬したものだ。
ごおっ、と古い機械たちが蠢く音が辺り一面に反射してひどく耳障りだった。油の臭いがつん、と鼻につく。
暗闇の中、壁を手探りで電灯のスイッチを探す。探り当てたスイッチを押すとじじ、と蛍光灯が焼ける音がして辺りが白けた光で照らされた。
「まるで悪党のアジトのようであるなぁ、商談を取り仕切るにまさにうってつけなシチュエーションなのである。なかなかよいセンスをしているな、少年」
思わぬ不意打ちにびくり、と背が震え、弾かれたように侵入者の声の方向に振り返った。
そこにはいつの間に僕の背後に立ったのか、いや、どうやって音もなくこの小屋の中に入ったのか知れないが、一人の老人が立っていた。
背が僕より二回りも大きいが枯れ木のようにやせ衰えた身体で、異常に長い腕の先の細長い指は黒塗りの杖を握り締め、燕尾服とシルクハット、鼻眼鏡という徹底した礼装に身を包んでいる。とても人間らしくはなかったが、それがまた妙な整合性を持っている奇妙な存在だった。
そして、何より異常なのはその顔。皺だらけの顔の頬の肉はすっかり痩せこけ、まるで頭蓋骨に直接皮を貼り付けているようで不気味であった。
「まさに“悪魔”のようだ……とでも思ったかね?」
心の内を読まれ、思わずあっ、と声を上げそうになるが耐える。冷や汗が背を伝う。
「改めて自己紹介と行こうか……」
そう言うと、男はシルクハットを取ってそれを胸の前に当てると腰を軽く折り、頭を下げた。その仕草は演技がかっていて、誠意など欠片も感じれなかった。
甲高い声が朗々と口上を読み上げる。
「常の世の陰、邪悪な箱から零れ落ちた影、悪魔の幕臣。その末席を汚す低俗にして狡猾な我を同朋は俗物と蔑み、スノッブと呼ぶ。
願わくば……汝と我との魂の約定が相成らんことを」
喉が、からからに渇いていくのが分かる。
目の前のモノは間違いなく人間じゃない、きっと奴の言うとおりに“悪魔”なのだろう。
しかし。
臆してはいけない。
「……誰も話に乗るなんて一言も言ってない」
「あいや、我が輩としたことがまた先走ってしまったであるか! いやいや、面目ない」
良かった、僕は“悪魔”を相手にしても平静を装える。そう易々と飲み込まれたりしない。
「それで?僕の望みを叶える、ってのは本当なのか?」
「勿論である。我が輩とて契約師の端くれ、契約に嘘は吐かぬ」
契約師? 耳慣れない単語に首を傾げる。そんな僕の様子に気づいてか、スノッブはあぁ、と何度か頷き、ぽんと手を打った。
「まずはその説明をせねばな。そもそも我が輩の同朋である悪魔と、その対である天使は根本では同じ存在なのである」
スノッブはこの狭い室内で大仰な身振りで説明を始めた。
「我が輩たちは基本的には不老不死なのであるが、それにはやはりなにかしかの力が必要で、自らその力を産み出すことが出来ぬ我が輩たちは、その力の源の大部分を人間の魂に依存しているのである。
しかし、我が輩たちが闇雲に力を振りかざし人間の魂を搾取すれば世界の均衡が崩れる。故に世界は我が輩たちにルールを課した。それが“契約制度”なのである」
「……なるほど、契約という形で人間の望みを叶え、その代償に魂を得ようとしたんだな?」
「まぁ正確には魂だけに限定された訳ではないのであるが、概ねその通りなのである。
世界は、人間が魂の所有権を納得した上で我が輩たちに譲渡する形にすれば、世界の均衡を崩すような乱獲を防げると踏んだのである。
故に契約師。超常の異能でありながら、約定に縛られた我々を嘲り名付けられたものなのだ」
なるほど、なかなか合理的なシステムだ。悪魔なんて大仰な名前を名乗っているから、もっと乱暴な連中じゃないかと思っていた。
「それで、悪の契約師のことを悪魔って呼ぶわけか」
「ざっくばらんに言うとそうなるのである」
スノッブは僕の答えに満足げにかくかくと頭を縦に振り肯定する。
対して僕そこであたかも落胆したかのように首を横に振って、相手の反応を窺う。
「しかし、そうなると都合が悪いな。僕は魂を人様にやれるほど持ち合わせちゃいない」
「それはそうである。誰だって自分が一番かわいいのであるからな」
スノッブは役者のように腕を組み、もっともらしく頷いて見せた。
僕は一歩、スノッブに詰め寄り、下から奴の鼻眼鏡に隠された目を見上げ、恫喝するように尋ねた。
「そうなんだよ……だからさ、当然“抜け道”も用意されてあるんだろう?」
その瞬間、スノッブの作り物染みた笑顔が、獲物を眼前に差し出されたような獣のそれに擦り替わる。
奴はにぃ、と顔の肉が裂けたように口角を持ち上げ首肯した。
「……勿論である。そこが堅物の天使共と崇高なる自由人である我ら悪魔の唯一にして最大の違いなのである」
「聞こう、スノッブ。僕はどうしても望みを叶えたい。そのためならどんなに卑劣な手段でも、どんなに下劣な行為でも、たとえ神に背いたって一向に構わない。僕はもう壊れてしまった人間だ。恐れるものは何もない……幸いにも、ね」