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原初遭遇

 

 誰にも言わずにいつも頭の中で延々と考えていることだが、僕は半端者だ。感性とか、常識とか、そういった人として大切な一切合切が何枚も人とズレている社会不適応者だ。異常者と言ってもいいだろう。そんな僕にはどんな侮蔑も侮蔑にならない。

 どうしてこんな風に自分のことを言うのか、と言うとこれが僕の主義のようなもので、ライフワークでもあるからだ。こんな性格的に破滅した人間が自分を大切にしてはいけない。それは人類への冒涜というものだ。

 だから、いきなり“こんなもの”をもらってもただただ困惑するばかりで。

「まいったな……」

「おやぁ、これはこれはこれは」

「深沢……いたのか」

「いましたとも、それに不用心にこんなものを教室で広げるお前に非があるからして悪びれたりしませんよ、絶対」

 そういってにやにやと級友の深沢は人の悪い笑みを浮かべる。

 僕は再び深沢の興味対象に視線を落とした。

 青い封筒だ。中身は手紙だろう。安価ながらも凝ったイラストが添えられてある僕と同じ年頃の普通の女の子が好みそうなもので、僕も何度か似たようなものを見たことがある。表には“氷川紘くんへ”と僕宛の字が几帳面な字が緑色のインクで書き連ねてある。

 深沢がずっ、と僕に顔を寄せて囁く。

「紘様、これは俗に、ラブレターと言うものでして……」

「茶化すなよ。誰かに聞かれたら騒ぎになるだろ。面倒はごめんだ」

「つまんないやつだね、相も変わらず。たまには“人間らしい”リアクションでもしてみたらどうだい?」

 大きなお世話だ、とわずかに睨んでみせるが、どこ吹く風な様子で野球帽を目深に被り直して知らん振りを決め込んだ。やがて、僕をからかうことに飽きたのか、手をひらひらと振りながら僕から離れ、そのまま教室を出て行った。

 僕は大した感動もなく裏面を確認すると、そのままランドセルの中に手紙を押し込んだ。

 差出人は時野由麻。あまり話した記憶はないが、クラスメイトだ。

 僕と時野さんの席は現在ちょうど真反対の位置にあり、窓際最後尾に座り、そのまま一日中そこに置物のように座っている僕には、廊下側最前列に日本人形のように鎮座し、時折ちょこちょこと用事で出掛ける彼女とほとんど接点はない。

 クラス委員の女子代表でありながら、ひどくおとなしい感じの人で、騒がしいクラスの連中からは一歩引いている印象を受ける。しかし、性格が暗いというわけではなく、多弁ではないがどんな相手にも懇切丁寧な対応をするので皆に頼られている人でもある。

 と、そんなよもやまなことを考えていると、時野さんが彼女には少し大きめの花瓶を抱えて教室へと戻ってきた。すかさず他の女子がそれを手伝い、彼女は花が咲いたような笑みを零した。

 なんでこんな“いい人”が、とどうでもいい考えが頭をよぎる。

 ふと、彼女と目があった。すると、彼女は今度は見る見るうちに顔が真っ赤になり、目に見えて慌てだした。周りの女子が怪訝そうに彼女を見る。この様子からして、差出人は彼女で間違いないんだろう。

 彼女はそのまま下手な嘘を並べて教室を飛び出したので、僕は視線を窓の外へ移動させた。

 かわいそうに、と独りごちる。

 誰が?

 時野さんか。

 それとも、僕自身か。

 おそらく、両方。

 僕には彼女と話すべき言葉を持ち合わせていない。それに、この学校に深沢以外で僕の内面を知っている人間はいないだろう。そして、それを理解できる人間なんか一人もいやしない。

 僕には、なにもない。

 空っぽな器にほんの少しの日常と、思い出。そして腐った空気を吸って毎日生きてる。

 予鈴がなって、みなががやがやと席に戻り始める。

 真綿で首を絞められるような一日が今日も始まる。

 

 


 

 

 人間は魚で、世界は海だ、と今にも降ってきそうな曇り空を見ながら、ぼんやり考える。

 みな広大な海原に自分に適した場所を探しながら、泳ぐ。流れが緩やかな場所でのんびり生きる魚もいれば、冷たい激流に乗って身を削るように生き抜く魚もいる。

 仲間と群を為して寄り添いながら生きる魚もいれば、弱い魚を餌にする強い魚もいる。

 彼女は、時野さんはきっと穏やかな珊瑚礁の中で生きてきたんだろう。外敵も知らずに、みなに守られながらずっと、生きてきたんだろう。

 でなければ、あんな風には笑えない。

 だからこそ、彼女と自分は決して交わらないんだろうと思う。

「僕は深海魚だから」

 彼女とは住む世界が違う。真っ暗で澱んだ海底にいる僕があんな水圧の低い明るい水面に行けば、体が内側から破裂して死んでしまう。逆もまた、だ。

 うらやましいとは思わない。ただ、独りにしてほしい、構わないでほしい。

 それだけだ。

「……降ってきた」

 うだうだと思考に沈んでしまっている間に、空からポツポツと雨粒が降ってきた。

 傘を忘れたので走る。幸い、もう家のすぐそこまで来ていたので、全力で駆ける。児童公園を抜け、角を曲がる。そこには見慣れた灰色のマンションが空に向かって立っていた。

 全力疾走のままマンションのエントランスへと駆け込む。駆け込んだと同時にざぁ、と一斉に雨粒が地面へと押し寄せてきた。

「助かった……」

 誰もいないエントランスで、地面に叩きつけられては跳ね返る水滴を見つめて呟きを漏らす。

 肩に僅かに残る水滴を払いながら階段へと足を向けると、ちん、とエレベーターの到着を告げる古くさい電子音が響く。中から人が降りてくる足音を聞きながらも階段を登る。

「あ……おかえりなさい、ひーくん」

 肩越しに、甘く生温い声にぞわり、と冷えた肌が粟立つ。

 振り返ると、傘を一つ片手に持ち、頬に手を当てて微笑む女性がそこにいた。

「ただいま、母さん」

 薄く微笑みを作って母さんの言葉に応えると、母さんは嬉しそうに笑った。

 

 


 

 がちゃり、と鍵が閉まる音が静まりきった家に響き渡る。

「寒かったでしょ?本格的に降ってくる前に帰ってこれてよかったね」

 そう言って母さんは僕の頭を撫でる。その細長く白い指先が頭からだんだん滑り降りてきて、やがて頬に這わされ、親指が唇に触れる。

 子ども相手にする労り愛おしむ手つきではなく、どこか獣染みた雄を求める愛撫のようで、触れられたはずなのにどこか寒々しさを感じる。

「お風呂今沸かしてるから、沸いたら入って温まりなさいね。はい、ランドセル貸して?」

「うん」

 促されるままに肩からランドセルを外し、母さんに渡す。母さんはその水の浮いた革の表面をタオルで拭い、中身を改める。

「ふふ、ひーくんのよい子チェック〜」

 何がそんなに楽しいのか知れないが、鼻歌を歌いながら僕のノートや答案やらをぺらぺらと捲り目を通している。

 僕は靴下を脱ぎながら、それをぼんやりと見守る。

 僕と母さん以外誰もいない部屋には母さんの鼻歌と雨音だけが響く。

 父さんが死んでからこの家もずいぶん広くなった。愛煙家だった父さんのせいで家中に染み着いていた煙草の匂いもすっかり消え去り、ほこりっぽい空気がゆらゆらと澱んでいる。

「ねぇ……ひーくん」

 ふと、気づくと母さんの鼻歌が止んでいた。心なしか、声が強ばっている。

「これ、なに?」

 すっ、と僕に見せるように持ち上げられた母さんの手には、あの青い封筒があった。

 途中の公園で捨ててくるつもりだったのに、まったく失念していた。

 僕が何か口を開こうとしたときには、母さんの指はすでに封を切り、中身を検めていた。

 その顔に先ほどまでの微笑は消え失せ、彫刻のように表情がない顔にはただ二つの眼球だけが忙しなく左右を何度も往復する。

 じわり、と手に汗が滲むのを感じた。

 やがて母さんの目の動きが止まった。瞬きすることもなく手紙を読んでいた母さんは一度瞬きすると、ぎろり、とこちらへ視線を向ける。

 すると、次の刹那には時野さんの手紙を二つに引き裂き、破いた。

 破く、破く、破く。縦に、横に、何度も、何度も、破く、破く。

 やがて、それが一体なんであったのかも分からなくなるほど破き終えると、母さんは掌に残ったそれを床にバラまいた。もう二度と手紙は元には戻るまい。

 そのときほんの少しだけ時野さんの顔が思い浮かんだ。

「……こういうのは、ダメだと思う」

 母さんが、ようやく言葉を発した。その声は低く、震えている。

 さらに言葉は続く。

「まだ、ひーくんは小学六年生だよね。まだまだ子どもなんだよ。危なっかしくてまだまだ親が目を離せない頃なんだよ。ひーくん達は色んなことに興味を持つと思う。色んなことに挑戦したらいいと思う。だけどね、いくら興味があってもダメなことはあるんだよ。恋愛だってそう。まだ男の子と女の子の違いも分かってない内から恋愛なんて早すぎるわ。この子もきっと勘違いしてるんだと思う。ひーくんはお父さんに似てかっこいいし、優しいもんね。だから、ちょっと他の子とは違うひーくんに興味があるんでしょうね。テレビや本で読んでなんとなく分かった気になって、ひーくんのことを好きだって勘違いしちゃったんだね。でも、こんな勘違いで人に好き、なんて言っちゃダメ。絶対ダメ。お互いにお互いを傷つけるだけだわ。ひょっとしたらこの恋の失敗で彼女はもう恋出来なくなっちゃうかも知れないし。そうしたらお互いに辛い思いをするのよ。それだけはダメよ。もっと大人になってから、お互いを知ってからじゃなくちゃ――」

「母さん」

 熱に冒されたように焦点を結ばない目で、一心不乱に僕に言葉を投げ掛ける母さんの肩に手を置いてなるべく優しく母さんを呼ぶ。

 すると、息を荒げながらも母さんがゆっくりと僕の目を見つめる。

 僕はいつもの言葉を母さんに囁いた。

「大丈夫。僕は大丈夫だから、母さん」

 すると、憑き物に憑かれたような母さんの形相から険は抜け、その顔は涙で濡れる。

 その細い腕が僕の背に回され、僕を力強く抱き締めた。

「ごめんね、怒ってごめんね、ひーくん……」

 僕の耳元でぐすぐすと泣きながら、僕に謝り続ける母さん。

 僕はただ抱き締められながら、母さんの小さな背中を撫でる。

「大丈夫だよ……母さんは世界でたった一人の僕の家族なんだから。どこにもいかないよ」

 母さんは、そのまま一時間ほど僕を抱き締めたまま謝り続けた。

 

 


 

 母さんはあの後、疲れ果てて眠りに就いた。

 涙で腫れた目を見て、数年前の母さんを思い出す。

 今の母さんは、僕の二人目の母さんだ。最初の母さんが病気で亡くなった数年後、父さんが連れてきた。何でも父さんが大学院にいたとき一回生だった後輩らしく、前の母さんよりずっと若かった。

 二人目の母さん――砂川早紀さんとは、何度も一緒に食事をし、旅行にも一緒に行った。

 父さんが本当に好きで、その息子の僕もひーくんと言って可愛がってくれた。

 だから、父さんと早紀さんが再婚したときは純粋にすごく嬉しかったし、早紀さんが妊娠したと聞いたときはその場で小躍りするくらい喜んだものだ。

 だけど、幸せは長くは続かなかった。

 父さんが死んだ。トラックとの正面衝突、即死だったらしい。

 もはや歯形以外では本人と照合も出来ないほどぐちゃぐちゃになった父さんを見て、早紀さんは足場が急に崩れ去ったような衝撃を受けたのだろう。

 未亡人となって、まだ面識の浅い父の親族に囲まれた葬式を気丈に乗り越えた早紀さんも、やがてストレスで倒れた。

 その最中、僕の弟も日の光を見ることなく早紀さんのお腹の中で死んでしまった。

 母さんは一度に二人も家族を失い、心を閉ざしてしまった。

 そんな状態が三ヶ月も続いて、いよいよ僕を親戚の誰が引き取るか、といった状態になって、突然早紀さんは病状を抜け出し、僕を一人で育てると親戚一同に告げた。

 僕は安堵した。母さんと引き離されずに済んだ、と思ったからだ。

 しかし、僕の元に帰ってきた早紀さんは依然と別人であった。

 母さんが寝返りを打ち、僕の裾を掴む。夢を見ているのか、ずいぶんと穏やかな寝顔だった。

「秀明さん……」

 まただ。また夢の中で僕を父さんと間違えている。

 あれ以来、早紀さんは僕に父さんを姿を、氷川紘の向こう側にある氷川秀明の幻影を追い求めるようになった。

 もちろん僕は父さんにはなれやしない。しかし、早紀さんにとって僕はやはり氷川秀明の息子に過ぎないわけで、父さんが亡き今、僕は彼の代わりにしかなれなかったのだ。

「恨むよ、父さん……」

 母さんのために僕は父さんの代わりを務め続けないといけない。

 母さんの歪んだ独占欲に支配されながら、あらゆる自由を奪われて。

 これからも、ずっと。

 たぶん、一生。




 ぴぴぴ、と簡素な電子音が扉の向こう側で鳴った。家の固定電話の呼び出し音だ。

 思わず首を傾げる。

 母さんはあれ以来自身の一切の繋がりを断ち切って、僕に構うようになった。こんな夜中に電話を掛けてくるような人間なんていないはずだ。

 どうせ間違い電話だろう、そう結論づけ、無視を決め込む。しかし、二分以上経っても一向に音が鳴り止まない。

 いくらなんでもおかしい。それに、鳴り続ける音に煩わしさを感じたのか、母さんの眉間にしわが寄っている。このままじゃ母さんが起きてしまう。

 仕方なく僕は母さんの手を解き、すっとベッドから立ち上がる。裸足のままひんやり冷えたフローリングを歩き、電話の前に立つ。

 ディスプレイに表示された番号は非通知。一層怪訝に思ったが、受話器を持ち上げる。

「はい、氷川ですが」

『あぁもしもし、ご機嫌如何かな?』

 

 がちゃん。

 

『待つのである!我が輩、まだ名も名乗ってないのであるぞ!?』

 おかしい。受話器を下ろしたのに、まだ通話が繋がっている。

 がちゃん。がちゃん。

 何度も受話器を下ろし、通話を終了させようとするも、向こう側の変なじいさんの声は途切れない。

『無駄なのである。この電話は我が輩が切るまでは絶対に切れないようにしてあるのである』

 訳の分からないことを抜かしやがるじいさんだ。しかし、その言葉通りにそのまま電話線を引き抜いても、この妙に甲高い謎の老人の声はそのまま受話器の向こうから投げ掛けられた。

 仕方なく会話に応じることにする。

「……あんた、いったい何者だ?」

『ようやく話す気になってくれたであるな……』

 電話の向こうでじいさんがにやり、と笑うのがなんとなく分かった。

『我が輩の名はスノッブ。万人の願いを叶えるモノだ』

 あるいは、とじいさん――スノッブは勿体ぶった言葉を繋いだ。

『“悪魔”、とも呼ばれたりするがね』




 

――それが僕と悪魔との原初遭遇。僕が十二歳の時のことだった。




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