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ウィング

作者: 之

 天使は飛べた。軽やかな風をその身に纏って、大地をしっかり踏みしめ彼女はゆっくりと飛翔する。あの時確かに彼女には、天野(あまの) (うい)()には羽があった。

 その飛翔する姿は誰よりも空に手を伸ばせることを楽しんでいて、誰も彼女から目を逸らすことなんて出来ない。

 だからだろう、一メートル七十九という全中陸上・走高跳の部の中でも異例な歴史的記録を残したにも関わらず、誰も記録なんて目に入らなかった。彼女の美しく跳ぶ姿に魅入られることしか出来ずにただ呆然としているだけ。だから気付かなかったのだ。彼女がマットの上からいつまでも降りて来ずに蹲っていることに。

 運営委員が彼女に駆け寄っていく。私の場所からでは彼女の表情はどうやったって見えなくて、嫌な心臓の鼓動が、ただただ頭の奥から鳴り響いていた。

 あの時、担架に乗せられ運ばれていく彼女の目にはこの澄み渡る青空が何色に見えていたのだろう。

 どれだけ残酷な景色になっていたんだろうか。

 かつて蝋の羽で空を飛ぼうとした青年が神にその羽を焼かれたように、あの日、天使は羽を失った。

 彼女はもう、空に手を伸ばせない。


 景色は私たちに焼き付けられる。眼球という視覚的に美しいものを残そうとする人間の部位は、私からあの情景を離れなくさせる。

 痛いほどに焼き付けられた澄み切った青い空。私はこの空色の景色が嫌い。その中を自由に浮かぶ白い雲も、楽しそうに羽ばたく鳥たちも大嫌いだ。

 それなのにこうして、わざわざ夏休みの日にまで学校の屋上に来て眺めてしまうのは何故だろう。痛いほどに胸の内を掻きまわされるだけなのに。

 きっと私はこの、私が行ける空に一番近い場所に囚われている。

 この場所が好きな訳じゃなくて、私の心に残された依存のせい。あの空を諦められない私の醜い感情。

 そっと空に手を伸ばせば、手の平を撫でるように優しく風が吹いた。私はその風に誘われるままに結ばれた自分の髪をほどき、白い靴下を脱いで寝転がる。

 ゆっくりと足を伸ばせば、ほどかれた髪とさらけ出された足の指先の一本一本から全身に風が流れていくのを感じた。

 本当はこんなことをしたところでこの空を自由に飛び回ることなんて出来ないこと、ちゃんとわかってる。

 なんで人には羽が無いんだろう。あの小生意気に飛んでいる鳥みたいに私たちにも羽があれば、きっと彼らを好きになれるのに。

「バカみたい」

 口から零れた言葉は濡れていて、自分が泣いていることにその時初めて気づいた。

 本当に馬鹿みたいだ。こんな惨めな思いをするのに、いつもここに来て同じことをしてしまう。

「あーもう! 本当やだやだ!」

 そんな何に対してなのかも分からない愚痴を吐き出しながら起き上がり、涙を制服の袖で無理やり拭う。

 その時、がちゃりと突然屋上の扉が開いて思わず体をすくめた。

 恐る恐ると扉に目を向ければ、そこにいたのは学校の見回りに来た先生……ではなく、アスリート然とした女性で。

 華奢な今の私とは違った、スポーツマンの健康的な肉体に感情が騒つかせられる。

「羽花、やっぱりここにいたんだ」

「翼……ちゃん」

 彼女の口から溢れるアルトの声が耳に入った瞬間、私はさっきまでの感情の残滓から目を背け、気付かれないように、必死に笑う。

「もうっ、翼ちゃん! いきなり驚かさないでよ。部屋に入るときはノック。これ常識」

「ごめんごめん……ってなんで私が謝ってんの。別にここ部屋じゃないじゃん」

「それでも扉があればノックが常識なのっ」

 偽りの笑顔も、必死に張り付かせれば感情が私という存在に追いつく。無理にでも笑えば誰かも、自分でさえも騙せることを、私はこの二年で知った。

 そんな私に対して、私の親友である彼女、空知(そらち) (つばさ)は溜息をつきながら「はいはい」なんて適当な返事をして私の隣に来る。

 彼女とは中学の頃からの親友で陸上仲間……だった。私が二年前の怪我で陸上から離れて、かつての部員たちと疎遠になるなか、ずっと傍にいてくれた大切な人。だからこそ、私が持つ醜い感情を彼女に気付かれることだけは避けたかった。

「部活のミーティング、もう終わったの?」

 何気無い風を装って、彼女に問う。私が部活の話を持ち掛けられるのは彼女だけだ。殆どの人は私の過去を知っているからか、変に陸上の話から遠ざけようとするけど。

 腫れ物扱いされる過去があるのは自分でもわかってるし、あの日は今でも私の傷として残っているのも事実で。でも、他人にそこを触れないように気を使われることはされたくなかった。

 だってそれは、他人に私にとっての傷だと知られている証明だから。人間は誰だって全員が気付いていると頭でわかっていても傷を傷と知られていることを示されるのを嫌悪する。

 だから、ある意味では変わらないでいてくれているこの親友という存在は私にとって本当に特別だ。

「うん、ついさっき。羽花のことだからここにいるだろうなぁと思ったけどドンピシャ。よくバレないよね、ここ」

 特別だからこそ、私は私を騙して、彼女の前ではちゃんと笑える。

「ほんとね。いやー、鍵を壊したままにしてくれている先生方には感謝感謝ですよ」

 本当は私は、この場所嫌いだった。

 それでも来てしまうのは、やっぱりそれは依存で、そんなことを彼女に言えば悲しそうな顔をさせてしまうから決して言わない。

「そう言えば翼ちゃん。練習終わりだし、おなかすいてない?」

「今日は大会前だしそんなにキツイ練習してないけど、でも正直ぺこぺこ」

 少し恥ずかしそうに言う彼女に私は満足げに頷くと鞄の中から朝から準備してきたものを出す。

「じゃーん! そう言うと思ってお弁当作ってきました! 私の女子力に溺れなさい」

「おー、新妻みたいだ。羽花髪も伸びたし、本当に女の子って感じ」

 そう言って彼女は私の長い髪を優しく梳くように撫でた。子供の頃ならいざ知らず、あんまり頭を撫でられる経験が無い私は少しこそばゆくて照れ臭くなる。

「そう言う翼ちゃんは髪、短くなった」

「運動部だからね。どうせ私は男みたいな髪型ですよーだ」

「もうっ、そんなこと言ってないじゃん。翼ちゃんは髪短くても可愛いよ!」

 私が力強くそう言っても彼女はいつもみたいに「はいはい、ありがと」と流してしまう。

 そんな何気ない、それでいてどうしようもなく尊いいつもの会話が私からあの感情を離れさせてくれる。

 私を救ってくれるのは百の励ましの言葉なんかより、親友がくれる、たった一つの日常なのだと今は心からに思う。


 お弁当を広げて二人で食べ始める。私が自分の作ったおかずがどれだけ上手く作れたかをプレゼンしては、彼女が優しそうに笑って一つずつ美味しいと言ってくれる。

 それはとても安らかな時間だ。だから、そんな安らかな時間だから、あの言葉を純粋な気持ちで言える気がした。

「いやー、それにしてもついに行ったんだね。改めて、インターハイ出場おめでとう、翼ちゃん」

 私が何気ない風を装って彼女に賛辞の言葉を贈る。

 彼女は今も高跳を続けていた。私とは違って、あの空に手を伸ばし続けている。でも皮肉はない。私は純粋に彼女が走高跳を続けて、確かな結果を残していることが嬉しかった。それなのに

「うん……ありがと」

 そう言う彼女の視線はずっと下、というより一点に集中していて生返事が返ってきた。

「どうかした? 翼ちゃん」

 私がそう問うと、彼女はバツが悪そうに目を逸らした。

「あー……あんまり聞くのもあれだと思うんだけど……足、もう大丈夫なの?」

 それを聞いた瞬間「しまった」と自分の行動を嘆く。靴下を脱いだままであることを忘れていた。

 翼ちゃんの目には私の足首に刻まれた痛々しい手術痕が写っていたはずだ。気を使わせてしまった自分の無責任な行動に後悔が募る。

 アキレス腱断裂。スポーツをしている人にとってはあまりに身近で、誰にでも起こる可能性のある怪我だ。私はこの怪我で二年前、飛翔するための羽を失った。

「うん、大丈夫だよ。お医者さんにも軽い運動だけなら大丈夫って言われてるし」

 私は少しの嘘を混ぜて曖昧に笑う。

「そう……なんだ」

 そう言って、私たちの間に沈黙が流れる。一分一秒がずっと長くなるような居心地の悪い沈黙。風の音が、蝉の声が、遠くから聞こえる吹奏楽の演奏がやけに鮮明に聞こえる。

 私が曖昧な笑みを張り付かせている間、彼女は何かを告げようとしては項垂れるように下を向いてしまう。

「……翼ちゃん?」

 心配して、私が顔色を窺うと、彼女は意を決したように私の目を見る。

 あぁ、これは逃げられないなと直感で感じた。この目は私の嘘なんて簡単に見抜いている。彼女と私の共にいた時間を考えれば浅はかな嘘なんてきっと、道端に落ちている落とし物を見つけるより簡単なことだ。

「ねぇ、羽花。なんでリハビリやらないの? 簡単な運動『だけ』なら大丈夫って嘘だよね? 本当は……」

「やめて!!」

 その先はわかっている。わかっていて、私は彼女がそれ以上言うのを許さなかった。

 だって、その先を彼女に言われてしまえば、私はこれ以上、自分の失ったものから目を逸らせなくなる。

「翼ちゃんの……言う通りだよ。軽い運動だけしかできないのは嘘じゃないけど、本当でもない。本当はちゃんとリハビリすれば復帰も……出来るかもしれない」

「じゃあ……なんで」

 なんでと問われれば、答えは一つだ。私の脳裏にはまだ残されている。あの突然羽を奪われた時の絶望が、あれ程好きだった青空の情景を憎しみすら抱いてしまうようになったあの日のことが。

「怖いの……、怖くて堪らないの」

 そう私は怯えているだけだ。もしまた、あの瞬間を味わってしまったら、また羽を失ってしまったら私はもう立ち直れない。それほどまでに、あの日が私のトラウマとして刻み込まれてしまっている。だから私は__。

「跳ぶことが……何より怖いの」

「羽花……」

 私が捲し立てると彼女は今にも泣きだしそうな脆い表情をした。

 ごめん、そんな顔させたいわけじゃないの。

そう言いたいけど私の口は動けない。心臓の鼓動が五月蠅くて声を出すこともできなかった。

 あの日から私は羽だけじゃなく、勇気さえも失ってしまったんだろう。

 悔しかった。何も言えない自分が。彼女にそんな悲しい気持ちを与えてしまった自分がどうしたって許せない。

「でも、だめだよ」

 私が唇を強く噛んで項垂れている中、彼女の強い意志を感じる呟きが真っ直ぐに私のもとへとやってくる。

 彼女の瞳を見れば、そこには脆い表情の中にも一点の曇りも見せない輝きがあった。

「……え?」

「羽花は、跳ばなきゃダメ」

 彼女は爛々と光った目で確かな意志を持って私を見る。その瞳の強さに私は思わず立ち竦んでしまう。今の私に、強い人間の視線は思った以上に堪えた。それでも彼女はその強い視線をやめない。私を決して逃がしてはくれない。

「私、羽花の跳ぶ姿が好き。羽花は誰よりもあの空に手を伸ばしてて、綺麗だった。どんな羽花のことも好きだけど、やっぱり私が一番好きなのは跳んでるときの羽花なんだよ」

 強い瞳は変わらないけど、その言葉は柔らかくて私の心をそっと撫でていく。向けられた強さは鋭い刃物のような強さじゃなくて、どこまでも包み込むような優しいシルクの強さだった。そして彼女はとびきり甘く、優しく微笑んだ。

「だって羽花は、私の……天使だから」

 天使。その言葉を聞いた瞬間に身体中から沸騰しそうになるくらいに熱が迸った。

 私がかつて呼ばれていた名前。空に手を伸ばせていたころの愛称。惨めさとか、天使と呼ばれることへの気恥ずかしさよりも先に喜びの感情が溢れ出してくる。

 今の私を、空に手を伸ばすことを恐れ、情景を憎むことしか出来ない私を彼女はまだ、天使と呼んでくれた。

 そのことが嬉しいのと同時に罪悪感が込み上げてくる。彼女はまだ信じてくれているんだ。

 私に羽があることを。

 千切れた自分の羽を直そうともしない腐った私を、それでもまだ信じてくれている。

 気付けば涙が頬を伝っていた。この涙がどんな意味を持った涙なのかわからない。涙はずるいんだ。悲しい時にも嬉しい時にも流れてくるから、自分の感情を分からなくさせる。

「ごめん……翼ちゃん。私やっぱり、怖いよ」

 必死に絞りだした答えは怯えだった。そんな自分が本当に嫌になる。それでもこれは私の本心だ。彼女の強さをもらってもまだ、私は踏み出せない。

「大丈夫だよ、羽花。羽花はまた、絶対跳べる」

 そんな私に彼女はゆっくりと歩み寄る。私が踏み出せない一歩を、簡単に越えていってしまう。

 そして彼女はそっと寄り添い、強く抱きしめてくれた。私より少し背の高い彼女の胸の中は温かくて、柔らかくて、優しくて。

 どうしようもないほどに涙をあふれさせる。

「ねぇ羽花、私のことを見て」

「……え?」

 戸惑う私が彼女を見つめると、愛の深い微笑みを浮かべたまま私の頭を優しく撫でて、涙を拭う。彼女の強い瞳から、もう目を逸らせなくなった。そんなことをさせないほどに強く美しい瞳が私を捉える。

「インターハイ、見に来て。私のことちゃんと見てて。大丈夫だって証明して見せるから」

 真っ直ぐに言われて私は頷くことしか出来なかった。

 正直高跳を見ることは、怖い。過去の自分を思い出してしまうから。あの日の私が、見ないでと強く叫んでいる。

 それでもそんな自分よりも、私は今の彼女に逆らえない。今、空知翼という人間の言葉を絶対に無下にできない。

「わかっ……た。翼ちゃんのことちゃんと……見る」

「うん、約束ね」

 そう言って彼女は抱き寄せたまま、私の小指と自分の小指を絡ませる。二人の温度が重なるそれは、小さな羽のようで。

 透き通った青空から聞こえる蝉の声が、とても遠くに感じた。


 インターハイ当日は快晴だった。二年前を思わせるような澄み切った空。雲は自由に浮き上がり、鳥たちは楽しそうに羽ばたきあう。

 そんな青空を見えないようにするために帽子をより深く被り、目を逸らすように歩き出した。

 心臓の鼓動が嫌に五月蠅い。寒ささえ感じるのに、汗が止まらない。

 縺れる足を必死に前へと踏み出すけれど、今にも膝を着いてしまいそうだった。溢れかえる人の群れ、目の端々に写る健康的なアスリートたち、それは嫌でもあの日を私に思い出させる。

 今日ここへ来るのですらやっとだった。それでもここまで来れたのは翼ちゃんの言葉のおかげだ。あの約束だけは絶対、破っちゃいけない。

 自分にそう言い聞かせて、もう一度歩みだそうとしたその時、ガクンッと力が抜け落ちていくのが分かった。

 これはダメだと、考えるよりも先にわかる。

 ここで倒れたら私はもう約束を守れない。分かっているのに、私の体からは力がどうやったって湧いてこなくて、もう立ち上がることは出来ない……そう思っていた。

 倒れこむその瞬間、細くしなやかなそれでいて力強い腕が私の体を支えるまでは。

「大丈夫ですかっ!」

 私を支えてくれた人の方へ視線を向けると、どこかで見たことのあるジャージ姿の少女がいた。

「あ、ありがとう、ございます……」

 私がやっとのことでお礼の言葉を告げると彼女は心配そうにこちらを覗き込んだ後、怪訝そうな表情を浮かべた。

「あれ? あなたは……天野先輩、ですか?」

 そう聞いてくる彼女に私は戸惑いの表情を浮かべる。どこかで会ったことがあっただろうかと必死に記憶を巻き返すけれど、今の私ではその行動すら満足にできない。

「あ、あの私、翼先輩に言われて来たんです。親友が来るから迎えに行ってあげて欲しい……って」

 彼女から出てきた親友の名前に意識が少しだけ回復する。

 どこかで見たことのあるジャージだと思ったら、うちの陸上部の指定ジャージだった。

「そうなんだ……ありがとう」

 私は何とかそれだけ言うと、また倒れそうになる。多少意識は回復したけれど、頭に貼り付けられ続ける靄は簡単には拭えない。

「ほ、ほんとに大丈夫ですか先輩っ? そこの日陰にベンチがあるので少し休みましょう」

 そう言われて彼女に支えられながら何とかベンチに腰掛ける。涼やかな日陰に吹く風が火照った体に良く浸透して、気持ちいい。

「良かったら、これ飲んでください」

 差し出された凍ったスポーツドリンクを、短くお礼の言葉だけを告げて口を付ける。

 身体中を冷たい飲料水が満たして、貼り付けられ続けた靄がゆっくりと剥がれ落ちるのが分かった。

 思っていた以上に喉が渇いてたみたいだ。つい一気に煽ってしまってから、これが彼女の持参物であることを思い出して申し訳なさが溢れてくる。

「ご、ごめん。一気に飲んじゃってっ。思った以上に暑さにやられてたみたいで……」

 捲し立てるように謝ると彼女は安心したように微笑んだ。

「いえいえ、大丈夫です。この暑さですから仕方ないですよ」

「そう言ってもらえると助かる……えっと、ごめん名前何だっけ」

 そう言えば、彼女の名前をまだ聞いていなかったことを思い出した。

 ここまで良くしてくれたのに、名前の一つも聞いてないなんて無礼にも程がある。

「あ、自己紹介がまだでしたね。陸上部一年の小鳥(おとり) 恵美(えみ)と申します! よろしくお願いします天野先輩!」

 そう元気よく挨拶する彼女を見て、安心する子だなと思った。ひょこひょこと揺れる束ねられた後ろ髪や全体から滲み出る人懐っこさに癒されるというか。

「小鳥ちゃんね。色々良くしてくれてありがとう」

「良かったら先輩も、ことりって呼んでください! 部活の皆さんからもそう呼ばれてるので!」

 不思議な子だ。さっきまでこの場所が怖くて堪らなかったのに、今はそれが薄れている。

 多分この子の人を安心させる独特の雰囲気のおかげだろう。

 その感謝の思いも込めて微笑む。彼女には本当に助けられてばかりだ。

「うん、わかった。よろしくね、ことりちゃん。私のことも良かったら羽花って呼んで」

「はい、よろしくお願いします! ういか先輩!

 あっ、そろそろ控室行きましょうか。つばさ先輩が首をながーくして待っているので」

「え、私今日ただの観客なんだけど……そんな関係者だけの場所、入って大丈夫?」

「大丈夫です! つばさ先輩が大丈夫って言ってましたし、親友さんなんですから」

 そう言うが早いか、彼女は私の手を引いて歩き出す。少し強引だけれど今はそれがありがたかった。

 多分、今の私じゃ会場に入る前に立ち尽くしてしまう気がしたから。

「……だからきっと翼ちゃんは、この子を寄越してくれたんだろうなぁ」

「ん? 何か言いましたか先輩」

「ううん、何でもないよ。行こ、ことりちゃん」

「はい!」

(……本当にありがとう、翼ちゃん)

 心の中で、何度も親友にお礼を言って私たちは歩き出す。

 怯えるあの日の私の背中をそっと押して、私は二年ぶりに競技会場に足を踏み入れた。


「遅い!」

「い、いふぁい! いふぁいよ! 翼ちゃん!」

 私達が控室の扉を開けると、開口一番に翼ちゃんはそう言って私の頬をつねってきた。

 他の部員の前であることも気にしないで、私の頬をたっぷり十秒ほど弄んでからやっと離してくれる。

「うぅ……頬が輪ゴムになっちゃう……」

「羽花が遅すぎるから悪い。もう予選終わっちゃったじゃん」

「え……ごめん! そんなに時間が経ってるなんて思わなくて……」

 彼女のその言葉に心臓が騒ぎ出す。もしかしてもう終わってしまったんじゃ……そんな焦りが表情になって表れていたのか、彼女は安心させるように笑った。

「大丈夫。一位通過だったから」

 そう言って人差し指をピンっと高々に突き立てた。

 その仕草に安堵と共に喜色が溢れてくる。

「す、すごい! すごいよ翼ちゃん!」

 私が思わず抱き着くと、彼女は少し困った顔をしながら受け止めてくれる。

 そして、私の頭を優しく撫でてから、囁くように言った。

「まだまだだよ……私が羽花に見せたいのは、ここから」

 そう告げる彼女の瞳は、少し先にあるものに必死に手をかけようとするような、強い決意の瞳だった。その強さに、美しさに思わず目が奪われる。

「いやー、ほんとに仲良しですね先輩方!」

 私が思わず翼ちゃんを見つめてしまっていると、明るい声が響いた。

 そこにはニンマリと笑ったことりちゃんがいて。

 その瞬間、ここには私達だけじゃなく、他にも陸上部の部員がいたことを思い出して急いで離れる。

 控室を生温かい空気が満たしていて、居たたまれないような気恥ずかしい感情が私を埋めた。

 ていうか私、この子に格好悪い姿しか見せてない気がする……。

「あー……ことりもありがとう。羽花を連れてきてくれて」

「いえいえ! 与えられた任務は忠実にこなしますので! ……それに私も、憧れの人をエスコート出来て大満足です」

 翼ちゃんが気恥ずかしそうに頬をかきながら、ことりちゃんの頭を撫でると、彼女は嬉しそうな表情で応えた。

 それだけで室内を和やかな雰囲気へと変えていく。彼女の癒し能力には本当に目を見張るものがあると思う。

 そんな和やかな雰囲気を変えたのは、スピーカーから流れた無機質なアナウンスだった。

『まもなく午後の部、走高跳決勝を行います。選手の方はご準備ください』

「あ、やば。私もう行かないと。……じゃあまたね羽花。ちゃんと、見ててね」

 そう言って、慌ただしく去る翼ちゃんの背に私は心からのエールをひとり呟く。

「うん……ちゃんと見てるよ。頑張って、翼ちゃん」

 聞こえていないかもしれないけれど、でも彼女にはきっとちゃんと届いてる。何故かそう信じられる気がした。


「あの、ういか先輩」

 次々と控室を跡にする部員の後ろを追おうとすると、ことりちゃんが呼び止めてくる。

「どうしたの?」

「さっきの、憧れの人って言葉、本当です。本当はずっと前から、ういか先輩のこと知ってました」

 私が戸惑いの表情を浮かべていると、彼女は意を決して、瞳を潤ませながら言った。

「ていうか、私たちの世代で走高跳をやっている人間は憧れないわけ……ないです。あんなに綺麗に、楽しそうに跳ぶ先輩に、天使の姿に、憧れないわけないです。」

 そこまで言われて理解する。彼女もまた、天使に魅入られた一人なのだと。私ですら眩しくて見れなくなる、あの頃の私に。

「それなのになんで、なんで辞めちゃったんですか! そんなに酷い……怪我だったんですか?」

「そうじゃないよ」

 今にも泣きだしそうな彼女に私は出来るだけ真っ直ぐ目を見て応える。

「じゃあ……なんで……」

「それは……」

 これを伝えたら、幻滅されるかもしれない。ただでさえ今日は格好悪い姿しか見せてないのだ。本当のことを伝えたら失望されるだろう、でも。

「怖かったんだよ」

「……え?」

 それでも私は彼女に真摯に応える。今日の数時間という短い間でこの子という人間をを好きになったから、好きな人から目を逸らしたくないから。

「また跳べなくなることが怖かった。また羽を失うことが怖かったの。それで怯えて、ずっと高跳から逃げてた。でもね」


「翼ちゃんが私はもう大丈夫って証明してくれるって言ってくれたから、今日ここに来たの。私は、私のこと信じてあげられないけれど、翼ちゃんのことは信じられるから。怖いけど、見に来たの」


「……先輩」

 私がそう言って微笑むと、彼女は瞳を拭ってから、人を安心させる和やかなあの笑顔を浮かべてくれる。

「やっぱり先輩は、つばさ先輩のことが大好きなんですね!」

「もちろん! 大親友だもん」

 そんなことを言い合えば、二人で訳もなく笑いあう。出会ってまだ間もないのにこんなにも心を開かせ合えるのは、やっぱりこの子の人徳のおかげなんだろうと思えた。

「ねぇ、ことりちゃん」

「はい?」

「私、本当はまだ、高跳見るのですら怖いんだ。……だから、私が翼ちゃんから目を逸らさないよう、ちゃんと見張ってて欲しい」

 だからこそ、彼女には頼める。格好悪い先輩だと思われるかもしれないけれど、小鳥恵美という人間を信じられるから。

 恥を忍んでも彼女には、この願いを託せる。

「もちろんです先輩! 私がちゃんと先輩のこと見てるので、先輩はつばさ先輩から目を逸らさないでください」

「うん、約束」

 そう言って笑いあえば、怖いものなんて何もないように思えてくる。

 先を歩き始めたことりちゃんの背に、小さな羽が見えたような気がした。


 力強い助走とともに、柔らかかな風を纏いながら少女たちが跳ぶ。

 その表情は真剣そのもので、緊迫とした雰囲気がこちらまで伝わってくるようだ。

「流石インターハイ決勝ですね……どこもレベルが違う……」

 隣でことりちゃんが感嘆のままに呟く。それもそのはずだ。どの記録も、年代が違えば一位に手をかけてもおかしくない成績ばかりだった。

「うぅー……なんでつばさ先輩最後なんですかねぇ。もう見ててお腹痛くなってきちゃいました」

「そう……だね」

 かろうじて返せた言葉は震えていた。目に入る空に手を伸ばす少女たちの姿を前に、嫉妬や怯えが入り混じった醜い感情がせり出してくる。

 私も跳びたい。でも跳ぶのは怖くてたまらない。跳び続けられる人たちが憎い。そんな声が自分の内から幻聴となって聞こえてくるようで、目を逸らして耳を塞ぎたくなる。

 そんな時、ふわりと私の手の平を包み込んでくれる人がいた。

「先輩、大丈夫ですよ」

 ことりちゃんがそう言って私の手を握り微笑む。その瞬間、身体中に溢れかえっていた感情が潮が引くように消えていくのを感じた。

「ごめん、ありがとう」

 彼女の手を握り返して微笑めば、彼女も優しく微笑み返してくれる。

 この子にはいくら感謝しても足りない。私が呑まれそうになっても、こうして引っ張り上げてくれる人がいる。自分がどれだけ人に恵まれているのか、自分がどれだけ幸福な人間なのか、噛み締められる。

 その時、会場から突然歓声が湧きたった。翼ちゃんの前の選手、つまりは最後から二番目の選手が今大会のベスト記録を出したのだ。その記録は

「そんな……一メートル七十八……」

 隣でことりちゃんが項垂れるように呟いた。握る手の平が痛いほどに力が込められている。

「ことりちゃん、翼ちゃんの自己ベストって……今どれくらい?」

「……一メートル七十七、です」

 絞り出されるように紡がれた言葉は震えていた。

 翼ちゃんはこれから自分の自己ベストを超える記録の、さらにその先の記録を出さなければ、優勝は出来ない。

 そしてそれは最後という最も注目が集まる瞬間。今、翼ちゃんにはどれ程のプレッシャーが掛けられているのだろう。

 想像するだけで、体が震えてくる。

「翼ちゃん……」

 思わず叫ぶように言葉を吐き出してしまう。それでも目を逸らさないと決めたから。私は彼女を真っ直ぐに見つめる。

「……え?」

 会場中が私と同じように困惑の声を漏らしただろう。

 走高跳において最後の試技者は希望した数値で試技することが出来る。今大会のベスト記録は一メートル七十八。それを少しでも超えれば翼ちゃんは優勝なのだから、今回狙うべきは一メートル七十九のはずだ。それなのに、彼女が希望した記録は。

「……一メートル八十?」

 それは困惑しても仕方ない数値だった。けれど、私は気付いてしまったんだ。翼ちゃんの視線が真っ直ぐに私の方へ向いていることで。

 彼女が出そうとしている記録は自己ベストでも、今大会のベストでもない。

 あの日の私を、天使を超える記録。

「そういう……ことだったんだね。翼ちゃん」

 彼女が示した『証明』。それはあの日の私を塗り替えること。

 私はもう大丈夫だと証明するための、天使への挑戦。

 それならば、それならば。

「……私を超えて見せてよ。翼ちゃん」

 私がそう笑うと、彼女もまた力強い笑みで返してくる。

 まるで、これから跳ぶことが楽しみで仕方ないという無邪気な笑み。


 空知翼が、助走を開始する。軽やかな風をその身に纏って、大地をしっかり踏みしめ彼女はゆっくりと飛翔する。


 天野羽花は目を逸らさない。そこにもう醜い感情の波はない。ただ静かに、二人だけの世界が広がっていく。


 飛翔を、空へと手を伸ばすことを諦めた天使の手を新たな天使がその先へと飛翔して、今……掴んだ。


 マットに降り立った音だけが静寂の世界に響く。一切のバーのズレもなく鮮やかに跳ぶ彼女の姿は余りに美しかった。

 誰もがその美しさに魅入られることしか出来ない。

 それはまるで、あの日の天使を思わせるようで。

 ただ違うのは、彼女はそのマットの上から降り立ったこと。

 力強く、歩き出すその姿に観客は。


『オォォォォォーーーー!!!!』


 溢れんばかりの歓声で迎え入れた。


 気付けば、私の瞳からは大粒の涙が溢れ出ている。その涙に、もう感情の迷いはない。

 眼球という視覚的に美しいものを焼き付けようとする人の部位は、私にあの情景を離れさせなくする。あの美しい天使の姿を。

「先輩! つばさ先輩やりましたよ! 見てましたか!」

「うん、見てた。……ちゃんと、見てたよ」

 興奮と涙で目を腫らしながら、呼びかけてくることりちゃんに私はそっと微笑んで応える。

 今でも脳裏には彼女の証明が焼き付いている。

 翼ちゃんは約束を果たしてくれた。それなら、それなら私がやるべきことは、もう決まっている。

「先輩? どこ行くんですか?」

 突然背を向けて歩き出した私に、ことりちゃんが不思議そうに問いかけてくる。

 その言葉に私は羽が開くように、満面の笑みで応えた。

「ごめん、翼ちゃんに先に帰るって謝っておいて。……いま私、跳びたくて仕方ないの」

 私がそう言うと、彼女は口をぽかんと開けた後、吹き出した。

「ふふふっ、わかりました! つばさ先輩には私から謝っておくので存分にどうぞ!」

「ありがとう、ことりちゃん」

 力強く手を振る彼女に、優しく手を振り返して、私は歩き出す。

「……やっぱり先輩方、綺麗です」

 見上げれば澄み切った空が広がっている。自由に浮かぶ白い雲も、羽ばたきあう鳥たちも、この空が今は愛おしくて堪らなかった。


 徐々に助走を開始する。軽やかな風が頬を撫でて、踏みしめるたびに大地が力強く返してくる。

 天使は飛べる。取り戻した羽を広げて、ゆっくりと飛翔していく。

 降り立ったマットからはあの日から変わらない澄み切った青空が覗いていた。

「復帰して早々、何で簡単に私の記録塗り替えるかなー……」

 声のする方向へ視線を向ければ、拗ねたような顔をした大好きな親友の姿があった。

 彼女は私に近づくと、私の寝転がる場所の隣に来て同じように空を見上げる。

「まぁまぁ、もう一回超えて見せてよ。翼ちゃん」

「当たり前、羽花の記録なんて、いくらでも跳び越えて見せるよ」

 そう言いあって、私たちは笑いあう。誰よりも、跳べる幸せを胸に込めて。


 天使たちは、空に手を伸ばし続けている。

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