5話
そして一か月が過ぎた七月の末、俺たちは温泉で有名な街に来た。
「わああぁぁぁぁぁぁぁ、すっごーいっ。ほらほら見て見てお兄ちゃん。あちこちから湯気が出ているよぉ」
綾女がとてもはしゃいでいる。普段は大人びているから余計に新鮮だ。
そんな綾女の姿にくすっと笑うと、
「な、なーにっ。お兄ちゃん、もしかして私のことを子供っぽいとか思ってるんでしょ」
綾女はムッと頬を膨らませる。
綾女は怒っているのだろうが、そんな表情もとても可愛らしいと思ってしまう。
「い、いや、全然そんなことは……」
顔を赤くして、たじたじになる俺。
別に子供っぽいとは思ってなかったけど、完全に綾女に見惚れてはいた。
すると、綾女はフッと笑って、
「まあいいや、今回は許してあげる。それよりも早く観光しに行こっ」
綾女が俺の手を引いて連れ出そうとする。
「あっ、でもちょっと待って」
しかし俺は綾女を引き留めた。
「ん、なに?」
「一回、今夜泊まる旅館に行って荷物置かないか。ほら、観光中に荷物持って歩くのって大変だし」
「うーん、そう言われればそうだね。じゃあ、一回、旅館に行こうか」
だがこの時の俺たちは一つ重大なことを忘れていた。そしてそれは旅館に着いたときに思い知らされる羽目になる。
◆◆◆
「……へ、部屋は一つなんですか?」
俺は目の前の女将さんに尋ねる。すると女将さんは困った表情で対応に応じる。
「はい、お客様がお持ちの旅行券はペア用なので、ご用意させていただけるお部屋はおひとつとなっています」
えっ、それじゃあ今晩は綾女と同室で寝るってこと?
いくら家族だからといって、年頃の男女が同じ部屋で寝るのはダメなんじゃ……
それに俺と一緒じゃ綾女も嫌がるだろうし……
そう思いチラっと綾女の方を見やる。
すると綾女は、
「あっ、私は一つの部屋でいいですよ」
…………えっ、いいの⁈
「お兄ちゃんはそれでもいい?」
綾女は首をかしげて俺に聞く。
「いや、俺はいいけど……」
「そういうことなので、女将さん今日はよろしくお願いします」
そう言って綾女はペコリとお辞儀をする。
「わかりました。では私たちも精いっぱいおもてなしをさせていただきます」
その後、俺たちは荷物を置いて旅館を出た。
◆◆◆
「綾女、にしても良かったのか?」
今日、最初に行く予定だった名所の滝に向かう途中、俺は綾女に尋ねた。
「え、何が?」
「何がって、さっきの旅館のこと。男女がおんなじ部屋というのはまずいんじゃ……」
「うーん、でも私、お兄ちゃんならあまり心配してないよ。それに部屋が一緒なら夜にもお話ができるでしょ。一人だと寂しいし」
あー、そうだったな。俺は何の心配をしていたんだろ。俺は綾女の兄なんだから変なことを考える必要はないんだった。
そこで俺の気持ちも吹っ切れる。
「それじゃあ、観光をめいいっぱい楽しもうか」
「うんっ」
少し歩いて目的地の滝に着く。この滝は日本の滝百選にも選ばれた有名どころだ。
橋の近くでは多くの人が記念撮影をしていた。
そこで、綾女が俺の袖をツイツイッと引っ張る。
「ねえ、お兄ちゃん、私たちもあそこで撮ろうよ」
「そうだな。でも結構人がいるから順番に並ぶか」
列に並ぶこと十数分、思いのほか早く俺たちの番が来た。
滝が背景となるように滝を背にして立つ。
さて、誰に撮ってもらおうかな……
俺はきょろきょろとあたりを見渡す。
すると、
「お兄ちゃん、何キョロキョロしてるの。早く撮るからこっちを向いて」
綾女が俺を小突く。
「えっ、でも誰かに撮ってもらわないと……」
だが俺はそう言いかけてやめた。綾女は自分のバッグから自撮り棒を取り出す。
あっ、さすが女子高生……
「お兄ちゃん、もうちょっとこっちによって」
綾女はそう言って俺の腕を抱えて引き寄せる。
「おいおい、これはいくら何でもくっつきすぎじゃあ」
「じゃないと入らないから」
綾女は完全に俺の腕をホールドし、モデルさんらしくビシッと決め顔する。だが俺はそれどころではない。
綾女の胸が……あ、当たっている……
それになんだか周りの視線が痛い。いや、怖い。特に男子からの殺気が
写真を二、三枚ほど撮り終えると綾女は俺の腕を離した。俺たちは次の人に場所を譲り、もと来た道を戻る。
綾女はその間先ほど撮った写真のチェックをしていた。
「あー、お兄ちゃん、全然笑ってないっ」
ムッと頬を膨らませる綾女。
いや、笑うなんて絶対無理。ふつう女の子に腕を組まれて平気な顔できないから。
しかも相手は超がつくほどの美少女ときている。そ、それに胸も当たっていたし……。
もちろん、本人に言ったら何を言われるのかわからないので言わないけど。
「で、今度はどこだっけ?」
スマホのチェックを終え、マップを見ていた綾女に尋ねる。
「うーんと今度は近くの工場でお菓子作りだね。なんでもこの地域の伝統お菓子なんだって」
「なるほど、それは楽しみだな」
「でしょー」
さっきからウキウキが止まらない様子の綾女。
ああ、本当に来てよかったな。
「あ、そうだ。綾女、喉乾いてない?」
「確かにちょっと乾いたかも」
「そこの自動販売機で何か買ってくるよ。何がいい?」
「じゃあ、アップルジュースで」
「わかった。ちょっと行ってくる」
「ありがとう」
綾女を残して俺は自動販売機に向かう。五百円玉を入れ綾女に頼まれたアップルジュース、そして自分の分としてオレンジジュースを買った。
自販機からペットボトルを二本取り出し、綾女の元へと戻ろうとする。
しかしそこで何かの異変に気付く。綾女がいるあたりに何やら人だかりができていた。
なんだろう……
不審に思いながらもその人だかりの方へと向かう。
「ねー君、女優の吉良綾女でしょ」
「ち、違いますっ」
「そんなこと言ってもわかるんだよねー、俺ってば君のファンだからさ」
「ねえねえ吉良さん、サインちょうだいよー」
「わぁ、生の吉良綾女だー。ツイート、ツイート」
「だ、だから違います。と、通してください」
えっ⁈
そこで俺は事態を察した。
そうか、みんなが綾女の存在に気づいて。
多くの人たちに囲まれ、綾女が困った表情をしている。
「っっ⁈」
それを見ると俺はあまり考えることなくとっさに動き出した。
「す、すいません通してください」
半ば人を押しやるようにして綾女のもとへ行く。
そして、
「綾女っ」
俺は素早く綾女の手をつかみ、人だかりから引っ張り出した。それから、すぐさまその場から立ち去る。
「あ、あいつ誰だ―」
「綾女ちゃーんっ」
後ろでさっきの人たちが何か言っていたような気がしたが俺の耳にはあまり入ってこなかった。
やがてさっきの人たちを振り切ると、俺はフーと息をついた。
「やっと振り切れたみたいだな」
にしても綾女が芸能人だということをすっかり忘れていた。下手するとさっきみたいに大騒ぎになってしまうな……
とそうこう考えていると、
「あ、あのお兄ちゃん……」
隣にいた綾女が呼びかける。
「ん、なに?」
なんか綾女の頬が赤く染まっている。それにいつもよりもじもじしているような……
「手、握ったままなんだけど……」
「っっ⁈」
そこで俺もようやく気付く。
そういえば、綾女のことに夢中で手を握っていたのを忘れていた。
「ご、ごめんっ」
慌てて手を離す俺。
綾女は赤くなったまま、
「う、ううん。べ、別に嫌じゃなかったよ。そ、それにさっきは助けてくれてありがとう」
やはり照れているのか顔は俯けている。
「う、うん」
その後に続く沈黙。お互いが恥ずかしさでいっぱいなため、一言もしゃべろうとしない。
「……」
「……」
「……あっ、そ、そうだ」
しばらくしてこの雰囲気に耐えられなくなった俺はあることを綾女に切り出す。
「や、やっぱり綾女は芸能人で目立っちゃうからさ、なんか変装できそうなものを買いに行かないか?」
すると綾女も俺と同じく沈黙に耐え切れなかったのか、
「い、いいね。じゃあ、さ、早速どこかのお店に行こうよ」
「お、おう」