第六章 『青い世界の怪物』には
第六章 『青い世界の怪物』には
緊急事態だが、タケミ警部は動じなかった。
「報告しろ。」落ち着いた声だった。
「災害派遣部隊が中国自動車道を西進中に、民間のトラックが、阪神高速との合流点の西宮山口JCTで下り車線を塞ぎ、放火による炎上中です。トラックは西宮名塩SAに停車だった車両と思われます。トラックの乗務員は、トラックを先導していた白のバンに拾われて逃走中。」
「分かった。バンの動向を、引き続き頼む。」
狙撃班の指揮官が
「我々だけで、やるか?急所にピンポイントの命中は望めまいが、頭部に一斉射撃を加えれば、頭部を破壊出来るかもしれない。」
と提案する。
タケミ警部は、数秒間考えを巡らせているようだったが、
「目標が、鳥から目をガードするために、顔の上に乗せている腕が邪魔になります。害獣駆除の追加分隊の動きを確認しましょう。」
と、連絡を取り始めた。
「下道は、あちこちで渋滞が発生しているし。」消防隊員が悔しそうに言う。
「八尾のヘリ部隊は動けないのですか?」僕は誰にともなく聞いてみた。
「第三師団には、攻撃ヘリは居ないよ。偵察・輸送用だけだ。持って来るのなら九州からが、一番近い。」と、狙撃班の指揮官。
「一個分隊だったら、輸送ヘリで近くの学校の校庭に、空輸出来ないものでしょうか?」
「校庭の使用許可が必要な筈だよ。上の決断次第なのだろうが。」
「特設分隊は新大阪方面に向かっています。」連絡を終えたタケミ警部が言った。「JR線への通電停止をする前に、線路を一本開けさせています。新大阪から網干に『たまたま』走る事になった回送列車に、同乗する事に成りました。」
僕は、不思議に思って
「通電停止をすれば、電車は走れないでしょう?」
と聞いたが、タケミ警部はニヤリと笑って
「回送列車は『特急はまかぜ』だよ。ディーゼルだ。」
「西はともかく、よく労組が納得したな。」と指揮官が驚いたように言うが、警部は
「ここで走らんのは、大阪モンの名折れだ、と言う事らしいですよ。とにかくオールスター戦だ。騎兵隊の到着まで、ここを守り抜きましょう。『はまかぜ』なら通常運行でも、大阪-神戸間は20分、勝算は有る!」
『雉』は疲労困憊したらしく、ほぼ全羽が羽を休めている状態だ。飛んでいる数羽も上空で旋回して、襲撃に出る事が出来ないでいる。
ヒョウモンダコは前進して、顔の距離は須磨駅二階のテラスから100メートルを切った。腕をうんと伸ばせば、海の家の一番波打ち際に近い部分になら、届くかもしれない。
夏は昼間が長いと言っても、太陽はだいぶ西に傾いている。
蛸が、腕を一本砂浜に伸ばした。手がかりでも探すかのように、海水浴場の監視台に絡めると、一気に水中に引き込んだ。
「上がって来る気かな?」タケミ警部が唸った。「無反動砲が着くまで、あと10分は要る。」
「潮が満ちたし、日差しも和らいでいます。来そうですね。」僕は、消防隊員に尋ねた。「放水は、行けますか?」
「何時でも。しかし、水が届くのは、せいぜい30メートル先までだ。」
「直撃する必要はないのです。水が傾斜に沿って波打ち際に流れますから、真水嫌いの蛸は嫌がるでしょう。時間が稼げます。」
ヒョウモンダコは、巨体を引っ張り上げる事に失敗したので、今度は押し上げる事に方針を変更したようだ。身体の後ろ半分の脚に力を込めて、砂浜に小山の様な半身を強引に伸し上げた。
海棲生物が、通常の生息圏ではない陸上に移動を試みるのには、積極的な理由が無ければならない。朝の満潮時に大量の誘引物質が撒かれたのは、今、蛸が上陸しようとしている場所だろう。流れ残った誘引物質が、干潮の間に乾燥濃縮されて蛸を惹きつけているのだ。クリスチャンセンは、予行演習のつもりだったのだろうが、行方不明の雇われ店長が追加で誘引物質を散布するという暴走を起こさなければ、夜の引き潮で再接近したヒョウモンダコが、夜間遊泳禁止のルールを破って泳いでいる人間を、襲っていたかもしれない。
蛸が再び腕を伸ばすと、今度は海の家の柱の一本に届いた。
仮設の建造物は、海側に引きずられるようにして、簡単に崩壊した。
「放水、お願いします。」
タケミ警部の要請と同時に、放水が始まった。
消火ホースから噴出する水流は、破壊された海の家があった場所の砂を弾き上げ、泥流となって蛸へ向かった。
真水が蛸に達すると、腕の動きが激しくなったが、忌避している様には見えない。
「水が乾いた砂に吸い取られているんだ。ヤツまで到達する水の量が足りない。」
警部が舌打ちしたが、消防隊は構わず放水を続けた。
じきに砂の含水量が飽和し、流れ下る水の量が増え始めた。
警部の部下が、駆け込んできた。
「テロリスト、二名確保!」
「報告しろ!」警部は海に目を向けたまま、報告を促す。
「阪神高速を逃走中の犯人は、バンを捨てて、徒歩で六甲山中に逃げ込もうとしましたが、ヘリと連携していた地上班が、二名を拘束しました!」
「よし!」
カルト教団の動きが妙にチグハグしている。全く統制がとれていない。頭を失った手足とは、こんなモノなのだろうか。
「効いてきた!」狙撃班の指揮官が、弾んだ声を上げる。
浸透圧の低い真水の刺激に、蛸は動揺しているようだ。一度海中に引き返すつもりか、前脚に力を込めて、重い胴部を押し戻そうとし始めた。
しかし、脚は泥水のようになってしまった砂浜を、虚しく掻き回すばかりで、後進には成功しなかった。
だがヤツは諦めない。全部の脚を使って、時計回りに方向転換を試みている。
これ以上の被害は防げるかもしれないが、逃げられてしまうかもしれない。足止めしつつ、近寄らせない事は出来ないだろうか?あと5、6分、なんとかならないか?
僕はゴミ箱から、レジ袋に入ったゴミを一つ掴むと、結び目を解いて中身を出した。
空のレジ袋を持って、トイレに走る。
水道で、袋に水を入れる。大丈夫だ。破れていない。
引き返して、タケミ警部を呼んだ。
「警部、アンプルを!」
警部は一瞬で理解したようだ。ホーニヒ・ジェレオンのアンプルの中身を袋に投入した。
僕は袋の口を、固く結んでから
「投げるのには、自信が有りません。」と差し出した。
「私がやろう。」水袋を受け取ったのは、狙撃隊の指揮官だった。
彼は、袋の重さを確かめると、無造作に投擲した。
握り拳大の水袋が、放物線を描いて飛ぶ。
完璧!
水袋は、放水の到達点の直ぐ先に落下して、中身をぶちまけた。
ホーニヒ・ジェレオン溶液が、水流に希釈されながら、流れ下る。
誘引物質なんてppm単位で効果が有る訳だから、あの薬剤が本当に誘引物質であるならば、あの怪物は身の危険を感じていても、抗いようも無く惹き付けられる筈だ。
効いた!
ヒョウモンダコは、電激でも受けたかのように全身を震わせると、泥ねいの中で再びこちらに振り向こうと、のたうち始めた。
しかし地上では重力が邪魔をして、巨体を思うように動かせない。冷静さを失い苛立った怪物は、大量の墨を吐き出し、砂浜と泥水とを真っ黒に染めてゆく。
「カルトが使ったのは、あれで間違いないようだね。」
警部が呟く。
ヒョウモンダコは、八本の触手を出鱈目に伸縮させながら、遮二無二肉塊の方向を転換させると、満足したのか真っ黒の泥水の上で休止した。
「いいぞ!このまま、じっとしていろ!」
消防隊が放水を止める。
束の間、静かな睨み合い続いた。長い長い時間の様に感じたが、ほんの数分間のことだ。
聞こえるのは、ヘリのローター音、遠くのサイレン、そして波の音のみ。
そして、静寂を裂いて、列車の警笛が近づいて来た。
臨時の『はまかぜ』が到着したのだ。
「無反動砲は、発射時に後方にガスを吹き出します。安全のために消防隊の皆さんは、退避して下さい。」
タケミ警部が冷静な声で、要請する。そして、僕の方を向くと
「協力、ありがとう。君も退避していなさい。2号線側の出口の東側に、派出所が有る。頑丈な建物だから、その中が良い。」
最後の決着が付くまで、僕はここに居たかったが、一民間人を、銃砲撃の場に置いておく事は無理な相談だと言う事は解る。素直に要請に従う事にした。
北口に向かって走っている時に、ホームから自衛隊員が駆け上がって来る足音が聞こえた。『はまかぜ』は、怪物と対決する皆を鼓舞するかのように、短く警笛を鳴らすと、出発して行った。
派出所の中はひどく混雑していた。備品なのか、14型のテレビが置いてある。皆が真剣な眼つきで画面に見入っている。ヘリからの空撮中継だ。
カヅチ警部が僕に気付き、
「お疲れ。」と労ってくれた。
「生で見られないのは、悔しいだろうが、なに、野球だって大相撲だって、テレビで観た方が良く分る。放送は望遠カメラ映像だよ。」
「ええ、外野席で観ていてもストライク・ボールの区別も分りませんよね。」
「よし。始まるぞ。」
画面には、墨と砂で黒く変色した怪物が大写しになっている。体表の汚れのせいでヤツの自慢のヒョウモンも、所々隠されて、全体的には黒い小山のようだ。
カメラが引いて、駅と蛸の両方を画面に収める。
と、駅から信号弾が一発放たれた。
カラスとトビが一斉に離脱する。
次の瞬間、煙を後ろに引きながら、ロケット弾がバケモノに直進する。
爆発は予想していたよりも小さいものだった。
しかし、カール・グスタフの84mm弾は、ヒョウモンダコの顔面をあっけなく吹き飛ばし、胴体部分までもが飛散する。
怪物は、一個の生物としては確実に死んだが、八本の腕は己の死に抗う様に、少しの間動き続けていた・・・・・・。
「やれやれ、これから後始末か。あれやこれや、忙しくなりそうだ。」
カヅチ警部は、今思い出したというように、ポケットから煙草を取り出し、一本を咥えてから、僕にも勧めてくれた。
有難く頂戴し、火を着けてもらって、僕は盛大にむせた。
「なんだ、オオタ君、煙草吸わないのか?そうなら、断ってくれればよいのに。」
「いや、なんとなく、大事の後の一服って、今の気分にマッチした気がしたものですから。」
タケミ警部が、派出所の入口から顔を見せて、
「君の友人たちは、須磨署の方に降りて来るだろう。まあ、混雑してるから、時間はかかるかもしれないが。」
「ああ、警部、お疲れ様です。」
「ガールフレンドに、早く元気な顔を見せておいた方が良いだろうね。何だか、怒らせると怖いタイプみたいだったし。我々は、忙しくなりそうだから、合流出来たら帰って良いよ。後日連絡するから。」
「追って沙汰を待てって事ですか。取り調べは後日?」
「いや、そうじゃない。感謝状の贈呈だよ。金一封が付くかどうかは保障の限りでは無いけれど。」
僕は、気になっていた事を聞いてみる事にした。
「警部、今日の出来事は、どうすれば良いでしょう?『黙っていろ。全て忘れろ。』なら、そうしますが。」
「これだけの事が起きたんだ。隠蔽出来るわけはない。見た事はしゃべってもらって構わないよ。ただ、ホーニヒ・ジェレオンの事は、『何らかの薬剤』くらいにぼかしてもらえると有り難いが、・・・・・・まあ、それが知れるのも時間の問題だとは、思うけれどね。」