第三章 『海竜めざめる』お時間です
第三章 『海竜めざめる』お時間です
会長は、傍らに置いてある段ボールから、真珠色のゴムボールを一つ掴むと、弄びながらキビツさんの疑問に答えた。
「いや・・・、そう言われると、確かにそうだね。確かに、なんで気が付かなかったのかなぁ?」
「忙し過ぎたんじゃない。ウラさん、準備や手配を一手に引き受けてらしたから。盲点に入っていたのかも。」
そうフォローを入れたのは、ガールフレンドさんだ。
「ウラさんは、ボランティアでやってらしたの。会社は暫く共同経営者の方に任せて、この夏はこっちに専念するって、言ってらしたし。」
「そうだったね。手弁当で駆け回ってちゃ大変でしょうって心配したら、イベントが上手くいったら、今後商売として育つかもしれないし、投資だと思えばやる気が湧きますって笑っていたから。」
「そうなんやぁ。ちょっと胡散臭い人か、思ってたけど、話聞くとエエ人みたいやなぁ。」
アマノさんは、そう感想を漏らし、会長の手元に目をやった。
「会長ところで、さっきから弄っとる、ボール何なん?」
「これかい?これはお祭りの時の、縁起物候補なんだ。子供会のアイデアらしいよ。餅撒きや豆撒きの時みたいに、このボールを投げるのは、どうかってね。」
そうか。縁起物としての見立てなら
「竜の持つ宝珠ですね。」と答えたのがキビツさんで、ほぼ同時に
「蛸の餌ですね。」と、僕は答えた。
「宝珠いうのは分かるけど、蛸の餌って?」
と妙な顔をする、アマノさんに
「蛸は白いツルツルした物が好きなんですよ。カニの腹に見えるからとか、貝の殻に見えるからとか言われているけど。見つけると喜んで抱きついちゃう。だから蛸漁は、タコつぼかカゴ漁がメインなんだけど、蛸釣りの遊魚船だと、白いプラスチック玉やラッキョウを餌代わりに使ったりします。他にも、輪切りのダイコンや豚の脂身など白いものは何でも疑似餌になります。」
「ほんま?」
「僕がアマノさんに嘘をついた事がありましたか?農林省の研究室長だった西丸震哉の著作には、上陸して畑でダイコン泥棒する蛸の記述もありますよ。」
「まぁたキミは、ここで検証出来んような変な話を持ち出して・・・」
キビツさんがウフフと笑いながら
「会長さん、宝珠と蛸の餌、どっちが正解です?」
と、アマノさんと僕の論争をいなすように、会長に話を振った。
「いや、深く考えていなかったよ。ゴムボールだったら、投げても危険が無いと思っただけで、意味までは聞かなかったな。他に、こんな物も出来てきていたし。」
会長は、そう言うと、ゴムボールの入っていた段ボールの底の方から、布地を引っ張り出して広げてみせた。それは『根黒祭り』、『九頭竜焼き』と書いた一メートル半くらいの長さの手作りの幟だった。
「テントの後ろに寝かせてある竿に結んで、本番の時には立てておこうってね。この段ボールと竿は、町内会の人が持って来たんだよ。クリスチャンセンさんとウラさんに見てもらうつもりだったのだけれど、それどころじゃなくなったみたいでね。」
品の良いご老人が一人、僕たちが話し込んでいる所へやって来た。ご老人はキビツさんを見ると
「このあいだの嬢ちゃんやな。その分やったら、根黒さんの書付には行き当たったみたいやな。」
と話しかけて来た。
「先日は、ありがとうございました。おかげさまで、コピーを読むことが出来ました。」
「キビッちゃんのお知り合い?」
「市役所で、関食研同好会の事を教えて下さった方です。」
ご老人は、会長とガールフレンドさんに
「中華饅は、当時のモンとは別趣向やけど美味いわ。タコ焼きはなあ、関西人は皆自分の中に『タコ焼きはかくあるべし』いう信念を持っとるから、ええモン作ってもボロクソに批判するヤツが必ずおるやろ。焼き饅頭は、あれやな。郷愁を誘う味ではあるけど、なんや戦時中の代用食みたいやな。」
と、感想を言った。中華饅押しみたいだ。
そして、宴会場のほうを指差すと
「そろそろ酒のアテがのうなったみたいやな。まあ、酒が有ったらアテいらんのかもしれへんけど。」
「じゃあ、材料の残りで何か作りましょう。ひき肉と野菜と蛸があるから、味噌炒めで良いですか?」
「なんや、催促したみたいで悪いなぁ。重ね重ね図々しい話なんやが、なんか甘いモンあらへんかなぁ。」
「いやぁ、今日は、甘味は準備して無いです。」
「そやろうなあ。勝手言って悪かったな。せっかく寛いどる処に。」
いえ、味噌炒め早速取り掛かりますよ、と会長とガールフレンドさんが席を立って支度を始めた。
キビツさんがデイバッグから桃を取り出し、ご老人に
「桃だったら有ります。剥きましょう。」
と言うと、ご老人は
「ええ桃やなあ、美味そうや。でも、その桃は、お嬢ちゃんが持っとき。桃は魔除けになるからな。昔々国生みの時におった男神さんがな。」
「イザナギノミコトですか?」
「そや、そや。なんたら言う坂を逃げる時にな。」
「ヨモツヒラサカですね。ヨモツシコメとヨモツイクサに追われて。」
「よう知っとるな。そんときに桃を投げつけて、難を逃れることが出来たんや。やから、大事にしとき。」
ご忠告有難うございます、とキビツさんが真面目に返答すると、ご老人は満足そうに頷いた。
爺さん、酔っ払ってるな。
その時だった。
カラスが一斉に、大騒ぎを始めた。
そして、十羽ほどの群れが、塊になって、下の軽トラの方へ突っ込んでいった。
何が起こった?
「何か変やで!」
アマノさんとキビツさんが、下を見下ろせる場所へ走った。僕も直ぐ後を追った。
そこで見たものは、
カラスに襲われる背広の男だった。
「あれ、ウラさんじゃない?!」
僕の後ろで悲鳴を上げたのは、ガールフレンドさんか。
しかし、カラスはウラさんと思しき人物への攻撃を中止すると、軽トラの後ろの山腹へ向かって、警戒の声を上げ始めた。
ウラさんはその隙に仮設トイレに逃げ込むと、ドアを閉めた。
「防空壕か?防空壕に何かあるのか?!」
会長が叫んだ。
目を凝らすと、木製の扉がある。
そして、扉の下の隙間から、黄土色の触手の様なモノが滲み出して来る。
カラスが触手に、跳び掛った。
警察や、警察に電話せえ!誰か携帯持っとらんか?!警察に何て説明するんや?アホぅ怪物が暴れてる言うたらええんじゃ!そんなモン誰が信じるかい!とにかく何でもええから電話せい!火事が起きた言えばええんじゃ!アカン、圏外になっとる!電波拾える所探さんかい!
この場に居る若い男は、僕と会長だけだ。
武器に成りそうな物を探して、幟の竿を思い出した。
テントの後ろに、二本の竹竿が転がしてあった。地面に突き立てる為か、竿の下端部は、竹槍のように鋭く削いである。
二本とも引っ掴むと、一本を会長に差し出した。会長は頷いて受け取ると、幟を裂いて先端に縛り、タコ焼き作りに使った油を浸み込ませた。竹槍松明だ。
「油がもっと有ったら、モロトフ・カクテル作れるんだが。」
「火炎瓶には厳罰が付くはずですよ。酔っ払いがいなければ、とっとと逃げるのが、一番賢いのでしょうけど。」
すぐに着火器で火を着けようとする会長を、僕は止めた。
「竹に火が移ると爆ぜちゃいます。攻撃直前に着火しましょう。」
防空壕の扉が、内側から押し倒され、ゆっくりと触手本体が這い出してきた。
カラスが空中へ退避する。
蛸だ。でかい。
腕一本の長さが、二メートル近い。
これだけ大きな蛸はミズダコだけのはずだが、ミズダコは自重を持て余して地上では満足に動けない。ミズダコは危険な生物ではない、がコイツは、ミズダコではない。
そのとき、大蛸の胴体に、メタリック・ブルーの豹柄が浮かび上がった。
ヒョウモンダコだ。
唾液腺にテトロドトキシンを持っている殺し屋だ。
ヒョウモンダコは、本来はイイダコと同サイズの小さな蛸だ。コイツはミュータントか何かなのか?しかし、何故こんな陸上に?
今は詮索している場合ではなかった。とにかくパニックを収拾しないと。
「皆さん、あれはヒョウモンダコのようです。身体の裏側に嘴があって、毒を持っています。しかし、危険なヤツですが、噛まれない限り大丈夫です。」
落ち着いた声が出せただろうか?
「あれだけ大きなサイズだと、陸上では自重が邪魔して素早く動く事は出来ないでしょう。骨格が無いので、地上では引力に逆らって腕を持ち上げる事も出来ません。巻き付かれたら厄介ですが、ヤツの腕が届く範囲に入らなければ大丈夫です。安心して下さい。水の中の生き物です。じきに弱ります。」
「まるで『クラーケン ウェイクス』の『海の戦車』みたいやけど、見た目より弱っちそうやん。」
アマノさんも、楽観的な発言でフォローしてくれる。
「その通り。攻撃の間合いが全然短いですから。こっちに迫って来たら、藪漕ぎしながら山に逃げてもいい。山を越えたらニュータウンです。別に人里離れた場所に居る訳じゃないし。」
ホンマ?それなら一安心やな。そう言われたらただの蛸やん。でかいけどな。なんであんなモンが出て来たんやろ?防空壕に住み付いとったんか?誰か飼うとったん違う?誰があんなモン飼うんや!水無いやろ。雨水か地下水でも溜まっとったんと違うか?アホか真水に入れたら蛸は死ぬわい!実は岩塩鉱脈があって丁度良い塩水になっとったとか。都合良過ぎるわ!
「僕たちは大丈夫そうだけど、ウラさんをどうする?」
会長が、僕の目を見ながら聞いてきた。
「トイレの中は灼熱地獄だよ。脱水症状になってしまうかもしれない。それにアイツが、トイレに絡み付いて、押し倒しでもしようものなら、救出出来なくなる。」
「下りるんは、危険やで!こっから叫んで、出て来てもろたらええ!」
アマノさんが会長を叱り付け、キビツさんと一緒に、あらん限りの大声でウラさんを呼ぶ。
しかし、トイレからは何の反応も無い。
「ウラさんは、蛸は見たのかしら?カラスに怯えているのでは?」
「でもキビッちゃん、カラスはウチらの事は、全然警戒しとらへんよ?」
大きく深呼吸を一つする。冷静に素早くやれば危険はないだろう、僕はそう判断した。唯一気懸りなのは、パニックになったウラさんが、どうやってもトイレから出て来ない場合だが。
「行きましょうか。」
会長が頷く。
「蛸の急所は、目と目の間です。神経中枢が有ります。槍で狙うなら、この場所しかありません。腕を刺したりするのは無駄です。イカと違って、身体がぐにゃぐにゃ柔らかい蛸は急所を刺すのが難しいし、刺した後でも暫く暴れます。ウラさんを連れて逃げるだけで良いのだから、出来るだけ戦闘には持ち込みたくないですが、何かあった時の為に覚えておいて下さい。」
「分かった。」
「僕が蛸を挑発しますから、会長はウラさんをお願いします。」
「挑発役の方が危険だろう。俺がやる。」
「蛸に詳しいのは、僕の方ですよ。危ない橋は渡りませんから大丈夫。それより、気懸りなのは、どうしてもウラさんが出て来ない場合です。出て来ないんだったら、見捨てて逃げましょう。シェルターに籠っているんだから、生身を曝す僕らよりも、少しは安全です。」
僕と会長が、坂道を下りはじめると、
「ウチも行く!」
アマノさんが中華鍋を振り回しながらやってきた。十徳ナイフを持ったキビツさんと、包丁を装備したガールフレンドさんも続いている。
ワシも行くでぇ、タコ坊主がなんぼのモンじゃい!とご老人達も生木の枝を振り上げる。
こんな状況を避けたかったんだよなぁ・・・。全員で下に降りたりしたら不測の事態が起こりかねない。
「戦いに行くのじゃありません!二人で充分です。アマノ、キビツさん!酔っ払い共を止めておけ!」
会長に竹槍松明を着火してもらってから、僕は一気に駆け下りた。距離を保って蛸の側面に回り込むと、松明を腕の一本に押し付けた。
尺取り虫が収縮するように、腕が胴の方に引かれ、蛸がこちらに向き直る。予想よりも動きがいい。
蛸は別の腕で竹槍を掴もうとするが、火が付いているので掴む事は出来ない。
僕は左右に炎を動かしながら、じわりと間合いを詰める。
会長がトイレに到達し、ドアを叩いてウラさんを呼ぶ。返事が無い。
ウラさん今がチャンスなんだ、開けてくれ!逃げよう!叫ぶ会長に、トイレの中から、嫌だ嫌だ嫌だと拒絶の叫びが返ってくる。今なら大丈夫だ、出て来てくれるだけでいい、担いで走ってやる!嫌だ嫌だ嫌だ!
「会長、諦めよう。そいつは出て来ない!」
しかし、会長は着火していない竹槍を地面に置くと、ドアに手を掛けて抉じ開けようとしはじめた。
僕は牽制を続けていたが、持っている竹槍松明は先端から激しく煙を上げ始めている。そして、破裂音とともに松明部分が弾け飛んでしまった。
蛸はこれを待ってでもいたかのように、腕をぐにゅりと捩るようにして、最先端の細い部分を、ただの竹竿になってしまったものに巻き付けた。僕は手離すまいとがんばったが、簡単に竿を取り上げられてしまった。
逃げて!逃げて!アマノさんの悲鳴が聞こえる。
その時、白いモノが投げ込まれて、蛸の前に落ちた。
キビツさんの桃だ。
蛸が興奮したように、桃に腕を伸ばす。
僕はトイレの横まで移動し、会長の竹槍を拾い上げた。
蛸は桃を掴むと、身体の下に抱え込んだ。下面にある口で喰うつもりだろう。
缶ビールが何本も、蛸めがけて投げ落された。キラキラ輝く缶が、自分の周囲に急に出現して混乱したのか幻惑されたのか、蛸の動きが緩慢になった。
僕は正面から突進して、蛸の目と目の間に竹槍を突き込むと、一旦体重を掛けてから、後ろに逃げた。
槍が刺さったまま、蛸は全身を激しく捩くらせながら暴れている。しかし、大勢は決したのだ、と思う。映画なんかだと、モンスターは復活して、もうひと暴れするところだけど。
会長もウラさんも放っておいて、僕は坂を登った。カラスの群れも飛び去っていった。
パニック映画で、事態をややこしくする為に登場する役というのがあるけれど、そんな風な二人にウンザリしていた。会長は正義漢だし、ウラさんはカラスか蛸かにトラウマでもあるのかもしれないし、不当な評価なのだろうとは思うけれど。
とにかく、疲れた。
坂を登り切った所で、跳び込んできたアマノさんに、がっちりハグされてしまった。アマノさんとは、そこそこ長い付き合いなのだけれど、こういう接触は初めてなので、アドレナリンが放出されたらしく、疲れが何処かに行ってしまった。
疲れは何処かに行ってしまったのだけれど、アマノさんの感触が心地良いので、疲れている風を装ってボーっとしていると、アマノさんの右フックが炸裂した。
「何みんなに心配かけてるねん!謝り!」
いやいや、兄ちゃん良うやったで!竹槍取られた時には、どうなるか思たけどな。しぶといヤツっちゃで、まぁだバタ狂いしとるわ。
おう、あのアホやっと便所から出てきよった。会長さんも大変やったな。公衆電話ある所まで降りよか?それやったら、駅の警察まで行ったらええやろ。ここほったらかして下行ってええんか?まだ、おるかも分らんしな。
電話通じたで!はよぅ警察呼べや!ちょっと待って今説明しとるとこや。どうせ信じてもらわれへんって!いや話通じたで。須磨署から人出すて。なんて説明したんや?見たまんまや、大蛸暴れて軽傷一人て。怪我さしたんは蛸やないやん。信じたんか警察は?それはそれで問題があるような気ぃするなぁ。ハゲのオッサンが暴れてる思たんと違う?それや!誰がハゲやねん!
僕の周囲では、色々な事が同時進行していて、目が回りそうだったが、とりあえず最優先課題を片付ける事にした。
「アマノさん、ごめん。」
目の前でカンカンに怒っているザシキワラシに、僕は深く頭を下げた。
続く