第一章 『クトゥルフの呼び声』は聞こえるか?
第一章 『クトゥルフの呼び声』は聞こえるか?
JR須磨駅の南口は須磨海水浴場に直結している。だから、駅構内のコンビニには原色ビキニの女の子が、うろうろしていたりする。なんだかスゲエなぁと、ぼんやり見とれていたら、いきなり鼻を引っ張られた。
「オオタ君な、女の子のお尻ばっかり凝視しとったら、今に通報されんで。」
と、不機嫌そうなのは、大学で動物学講座にいるのに自称関西文化研究家のアマノさんだ。ただし、彼女が僕に対して不機嫌そうに見えるのは何時もの事なので、普段通りのアマノさん、と言えない事も無い。
「『あぶどるさん』の御縁日やるのんは、北口から出て山の方へ向こうたとこや。ちゃっちゃ行くで。」
アマノさんは北陸方面の出身のはずだが、変チクリンな関西弁もどきの言葉で会話をする。転勤族のご両親に付き合わされて、全国を転々としたところ、感染力の強い関西弁に侵食されて、こんなことになってしまったのだ、という。ザシキワラシ系和風美人なのに残念なことだ。
「カキ氷かアイスコーヒーで、一服してからにしませんか。」
「そんなん口実で、水着女子観たいだけやんか。顔出しが終わったら、海水浴場で、ウチのナイス・バディを、ぞんぶんに拝ませたるがな。」
「じゃあその時は、スク水かブルマで。」
「しばくど。」
JR須磨駅から北方面は、国道二号線を挟んだ山陽電鉄線を抜け、海岸線の狭い平地部分を過ぎると、急激にせり上がった山になっている。源平合戦の時代には、義経が鵯越の逆落としを決行したのも、この辺りだとされている。軽トラくらいしか入って来られないような山道をしばらく登ると、水浴びでもしたように、汗びっしょりになってしまった。だいたい、今日は山登りなんてしなくとも、十二分に暑いのに。
前を歩いていたアマノさんが、見かねたように声を掛けて来た。
「ひと息入れよか。ホンマ、ジブン体力無いな。」
ジブンというのは、関西弁では二人称代名詞で、他人に対する呼び掛けとなる。ただし一口に関西弁と言っても、大阪弁・神戸弁・河内弁・播州弁などなど様々なバリエーションが有るし、アマノさんはその時々の気分次第で『キミ』『アンタ』『オドレ』などと使い分けてくる。関西弁使いでない僕には、ニュアンスは今一つ判り難いが、ジブンと呼び掛けられる時は、割りとフラットな感情の時のようだ。とりあえず、オドレ呼ばわりされるほど、怒られてはいないらしい。
二人して、木陰に腰を下した。
「水産学では、あんまり山登りはしないんですよ。目的の神社は、まだ先ですか?」
「根黒神社は、もうちょっとやで。」
「あれ?『あぶどるさん』って、言ってませんでしたっけ?」
「ネグロノミコトという神さんが祀ってあるから、根黒神社や。で、神社を作ったのが『あぶどるさん』なんやな。」
「なんだか、変わった名前の人ですねぇ。」
「ほら、関西では蛭子神を訛って、『えべっさん』言うたりするやろぅ?だから、元は『アブドルさん』やのうて、安藤さんやら虻取さんだったりするのと違うか?ええかげんな推測やけど。だいたい、このネグロノミコトとか言う神さんも、延喜式にも出てこん、よう分らん神さんなんや。実体は九頭竜とか、大蛸とかいう噂もあるし。」
「何だかそれ、ヤバくないですか?よく分らない神様って、封じてあるタタリ神とか結構有りそうだし。だいたい、竜と蛸じゃ、全然別モノでしょうに。」
「だから、キミを御供に連れて来たんやないか。竜も蛸も水に関する生き物やん?なにかあったら、ウチが逃げる時間を稼ぐ殿軍部隊として、奮戦してほしい。」
と、邪悪なザシキワラシは笑みを浮かべた。
「冗談はさておき、アマノさんが反応したのは『九頭竜』って単語ですね?」
「それなん。北陸には九頭竜川あるやろ。」
サクラマス釣りで有名な河だ。アマノさんの生まれ故郷が、その辺りらしい。
「そして、山陰には出雲神話のヤマタノオロチな。多頭蛇やら多頭竜は、分岐の多い暴れ河の暗喩や、言われてんねん。」
そう言う説を聞いた事はある。
「せやけど、須磨周辺の摩耶山系には、大河と呼べるような河は無いやろぅ?」
「近隣で、強いて大きな川を上げるとすれば、明石川ですか。でも、多頭蛇伝説は聞きませんね。神戸周辺の川は、山頂から河口までの距離が激短だから、水害はしばしば有るけど、大蛇や竜に擬えるほど流域面積広くありませんし。」
アマノさんは、大きく頷くと、
「それやのに、『あぶどるさん』名物は“九頭竜焼”ってどういう事なん?!」
と、大げさに天を仰いで嘆息をついた。そして、何か発見したらしく、空を指差すと
「あ、タカ柱。」
と驚いた。忙しい人だ。
アマノさんの説明によれば、タカ柱というのは、渡りの時期に猛禽類の群れが上昇気流に乗って、柱状に天高く舞い上がる事らしい。渡りの時期は秋だから、摩耶山周辺で観察出来るのは、九月末になってからが普通で、盛夏の今頃に起きる現象ではないのだそうだ。
ピーヨロヨロヨロという聞きなれた鳴き声も聞こえる。
「トンビもいてるな。でも、トンビは留鳥やから、タカ柱とは別モンやな。時季外れのタカ柱出来とるから、テリトリー荒らされへんかと警戒しとるんかもしれへんな。」
「なんか、カラスも騒いでるみたいですねえ。」
「カアカア鳴くヤツと、ガアガア鳴くヤツといてるから、ハシブトとハシボソと混じっとるみたいやな。トンビがハッスルしとるから、混成軍の防衛隊を進出さしとるんと違うか?」
ときおり、根黒神社への参道と言うか山道を、登って来る人もいるにはいるのだが、縁日とかお祭りが有るのにしては閑散としている。海岸の喧騒が嘘の様だ。
ちょっと迷ったが、ストレートに質問してみることにした。
「アマノさん、どこまでがフェイクなんです?」
「お?気が付いとったんか。」
「だって、露骨過ぎるでしょう。『あぶどるさん』に『ネグロノミコト』、九頭竜に大蛸までなんて。」
『あぶどるさん』はアブドール・アル・ハザードのことだろう。H・P・ラグクラフトという、怪奇SFあるいは幻想文学作家が創造した、クトゥルフ神話と呼ばれる一連の作品群の登場人物だ。
その、アブドール・アル・ハザードが記したとされるのが、ネクロノミコンという架空の魔導書で、クトゥルフを始めとする古の邪神との交流のキーとなる書物、と位置づけられている。魔導書ネクロノミコンが、『ネグロノミコト』神に、差し替えられているわけだ。
ラグクラフト自身は、不遇な作家人生を送ったみたいだが、クトゥルフ神話にはコアなファンが付き、多彩な二次創作作品も世に出された。
日本では、字面とゴロ合わせから、九頭竜信仰とクトゥルフ神話と結び付ける、いわゆる『見立て』を行う人もいる。この場合には九頭竜は、クズリュウと読むのではなく、クトウリュウと読むのが正しいのかも。創作としては面白いが、念の為に言っておくと、九頭竜信仰とクトゥルフ神話は、まるっきり別のモノだ。だから、九頭竜信仰の神社に行って、「くとぅるふ ふたぐん!」「いあ!いあ!」とか叫びながら、変な踊りを踊るのは、止めた方が良い。兵庫県では、大阪府との県境に近い、県東部の川西市付近の猪名川水系に九頭竜信仰があり、九頭神社という神社も実在している。源満仲が、弓で竜の目を射て退治したという伝説がある神社だ。九頭竜だったら、眼玉は十八個あるはずなのだが、源満仲は連射性能の優れた人だったに違いない。
大蛸というのは、ラグクラフトの短編小説「クトゥルフの呼び声」で、クトゥルフの頭部が蛸みたいと描写された事から、まあ、クトゥルフの基本イメージの一つなのだろう。ラグクラフトは偏食家で、中でも海産物大嫌いのヒトだったから、顔がタコ!というだけで目茶目茶に不気味だと思っての設定だろうが、日本では田河水泡の「蛸の八っちゃん」が人気キャラであったように、蛸にあんまり怖いイメージが無い。だいたい葛飾北斎の大蛸と海女の絵からして、怪談絵ではなく春画だ。触手フェチは江戸時代から連綿と続く、本邦ヲタの伝統芸と言える。
余談になるが、蛸男をモチーフにした怪奇小説だったら、個人的にはM・R・ジェイムズ作の「マグナス伯爵」を押したい。ただし、蛸男は伯爵自身ではなく従者の方で、伯爵は悪魔的人物(もしくは吸血鬼)とされている。どこまで逃げても追いかけて来る黒マント怪人は、筒井康隆の「走る取的」を想起させるオッカナさで、逃げ場のない恐怖を味あわせてくれるが、黒マントをめくって蛸の八っちゃんが出てきたら、グーで殴っちゃうかもしれない。
「マグナス伯爵」の初出は一九〇四年で、日本では日露戦争が起こった年だ。「クトウルフの呼び声」の初出の一九二八年よりも早いから、マグナス伯爵とその従者は、クトゥルフ神話の系列には属していない。でも、ラグクラフトはジェイムズの作品に影響を受けていたと言うから、クトゥルフの義理の父親とか伯父・甥くらいの関係は主張して良いのかもしれない。
閑話休題
「ウチは、あんまり乗り気や無かってんけどな・・・。須磨発の新B級グルメを作る企画が、関西食文化研究同好会に持ち込まれてな。」
大仰な名前が付いているけれど、実体はアマノさんが、よく顔を出している飲み会だ。玄人裸足の腕自慢が包丁を握ったりするから、料理のレベルは高いらしい。下戸の僕が唯一参加した時は、アマノさんが料理当番に当たったので、下ごしらえ要員として彼女から動員されたためだが、アマノさんが作った料理は、商人の町大阪のトラディショナル椀 船場汁 だった。(船場汁とは、塩サバと大根のみ、のスピード吸い物だ。もしかするとアマノさんは、あまり料理が得意ではないのかもしれない。)
いかん、いかん。また、脱線してしまった。アマノさんの弁を、少し端折って説明すると・・・
須磨の山中の崖際に、江戸時代中期にハヤリ神となった湧き水の社があった。
その湧き水は眼病を治し、また流行していた野菜の根腐れ病に利くということで、根黒様と呼ばれ、大層評判になったが、ハヤリ神の例に漏れず、半年ばかりで廃れてしまった。
程なくして湧き水も枯れ、参拝者はほとんどいなくなってしまったが、社の世話は細々と続けられ、明治維新期の廃仏毀釈運動の時にも、特に影響を受けることなく生き延びた。
しかし、社周辺の土地は、第二次大戦末期に陸軍の高射砲陣地の予定地として接収され、民間人の立ち入りが禁止となった。
展望は良いが大口径高射砲の設置に不便という理由から、結局、高射砲陣地が建設されることはなかったが、終戦時の混乱と神戸大空襲の際に関係書類が焼失してしまったこともあって、土地所有者の権利関係が曖昧なまま、市有地として存在していた。
阪神大震災(兵庫県南部地震)の時に、社の後ろの崖が崩落し、社を押し潰した。そして社の後ろから、横穴式古墳の石室が発見された。社は、古墳の入口を隠す、もしくは塞ぐように建ててあったらしい。
古墳内部はかなり昔に盗掘されていたらしく、古墳時代の副葬品などの発見は無かったが、根黒様信仰が行われて以降の、記録とも反故ともつかない大量の書付が見つかった。書付の大部分は、痛みが酷くて解読不能の状態だったとの事。
「江戸時代のハヤリ神に、帝国陸軍、横穴式古墳と解読不能の文書って、いよいよ伝奇小説っぽくなってきましたが、まさか反故紙に『窓に、窓に!』って書いてあった訳じゃあないんでしょう?」
「そんな訳あるかい。書いてあったんは、根黒さんの効能やらやで。それと、お饅頭のレシピ。と言うか、読むことが出来たんが、そんな程度でしかなかったんやな。」
「お饅頭?」
「やから、新B級グルメの話や、て言うたやん。」
「そういえば、そうでしたね。」
「古墳が有った訳やし、ハヤリ神の根黒さんが祀られる前から、神域か忌み地やったのかは、今となっては分からへんねんけど、禁足地ではあったんやろなぁ。」
「お饅頭は、お供え物なんですかねぇ・・・」
「どおかなぁ。書いた人の単なるメモかも分らんし。ただ、草戸千軒がらみの蛸のお饅頭らしいんやな。」
「草戸千軒遺構ですか。日本のポンペイですね。一夜にして水底に沈んだと言われる。」
「そんな風に言うたら、クトゥルフの封じられとる海底都市ルルイエみたいでカッコええけどなぁ。」
草戸千軒とは、現在の広島県福山市の芦田川河口の中州に実在した町で、中世には近隣の鞆の浦とともに、たいそう栄えた町だ。しかし、次第に繁栄を失い、江戸時代の一六七三年に芦田川の洪水で水没した時には、人家数軒の寒村になっていたという。だから、日本のポンペイと称しても、全盛期に沈没したとされている大分県別府湾の瓜生島伝説のような派手さは無い。
瓜生島の方は、例の「えびす様の顔が赤くなったら」の伝説が有名だから、草戸千軒よりもメジャーかもしれないが、えびす様の顔(場所によっては、お地蔵様のことも)の話は結構あちこちに類話があって、海岸だけではなく、時に完璧な山岳地帯に残っていたりもする。「こんな山の中に津波が押し寄せて来るかよと、石像の顔を塗り潰したら、山津波(大規模土砂崩れ)が起きて、瓦礫の底に沈みました。残念。」みたいな。
「洪水で沈んだ町の、お饅頭レシピですか。ちょっと、そそられますね。それにしても、蛸の饅頭って。」
「せやろ。」
「でも、草戸千軒は広島の話ですよね。いくら根黒様文書に出て来たにしても。須磨名物にしちゃうのは、どうなのかな・・・」
「蛸漁は瀬戸内海全体で盛んやんか。明石の蛸いうたら、今でもブランドもんやん。大阪名物のタコ焼きのルーツは、明石の玉子焼きなんやで。草戸千軒のお饅頭をルーツにした須磨名物を作ったかて、罰は当たらへんやろ。」
「まあ、商標登録とか無かったら、罰の当たるような話ではないですね。だいたい明石のマダコは昭和三八年の異常低温で壊滅して、熊本天草産のヤツを大量放流したものの子孫らしいですからね。」
「それでな、草戸千軒ではと言うか、冷蔵技術の無かった時代に、蛸を保存やら長距離流通させるには、どないに加工しとった思う?」
「塩漬け、酢漬け、干物の三択ですかね。寒の時期には湯でダコも有りかも。輸送の便を考えたら、干物が一番なのかな。今でも明石とか播磨とかででは、干しダコ作りが盛んですよね。」
「その干しダコが入っとる、お饅頭なんやわ。」
「話の途中から、そうじゃないか、と気付きました。最初は鯛焼きみたいに、形が蛸の格好をしてるのかなと、勝手に想像してたんですけどね。広島は紅葉饅頭文化圏だから。」
「根黒さんの反故にはな『昔、草戸千軒栄し折に食されたと伝え聞く、草戸焼きなる干蛸饅頭の』ちゅう文章があってな。」
「はあ、干しダコの饅頭の名前が、草戸焼きだったんですか。それに、ちょいとヒネリを加えてクトウ焼き、九頭竜焼きと。なんだ、湧き水のハヤリ神だから、水神で竜神様という連想ゲームの産物かぁ。なんだかなぁ・・・。」
「ちょっと、無理矢理っぽいけどな。」
「じゃあ真水の部分は、根黒様というハヤリ神が有って、他所の干しダコ饅頭について述べた文書というか書付が出た、という所だけなんですか?」
「そう。」
「念の為に確認しますけど、根黒神社というのは?」
「話、膨らましとんのやな。実体は、壊れた名無しのお社。」
「ネグロノミコトというのは?」
「根黒さんを、ちょっとカッコ良くな。馬子にも衣装ってな。」
「あぶどるさん・・・も怪しそうですね?」
「これは完全創作。理由は、まあネクロノミコンの作者や、言う事で。」
「九頭竜焼きも・・・」
「復刻というより、ほぼ新作饅頭!」
「う~ん・・・・」
昔の記録を基にした新作饅頭を作ってみようというのは、面白そうな試みだし、出来が良ければ世に問うてみたいというのは解らなくもないが、由来だか謂われだかをクリエイトして、名物として売り出すというのは、詐欺とまでは言わないけれど、倫理的に問題が有りそうな気がする。何故普通に新作B級グルメとしないのだろう。
「そやから、乗り気や無かった言うてるやろ。話を持ちかけて来たんは、毎朝新聞関西版の記者やねん。」
「えええ?新聞記者がですか?」
「系列テレビ局の人に紹介された、言うてな。」
以前、関西食文化研究同好会は、午後のローカルニュースで、埋め草ネタ的な取材を受けた事がある。その時のVTRはお蔵入りになってしまったが、ディレクターが料理自慢の素人集団のことを覚えていて、新聞記者に紹介したのだそうだ。
「記者がクリスチャンセンさん言う、バイキングみたいなゴツいオッサンでな。震災前から日本におるらしいわ。」
「アマノさんって外国語はご堪能でしたっけ?」
「知っとるやろ。ウチは日本語と関西弁以外は不調法や。相手の方が日本語ペラペラやねん。毎朝新聞の記者やぞ。実はフランクフルトで独立系のラジオ局かなんかにおったんやけど、日本語が堪能やったんで、毎朝のヨーロッパ支局の記者と仲良ぅなって、引き抜かれたそうなんや。日本語が上手いだけやのぉて、日本文化にも造詣が深いみたいで、自分から京都や奈良のある、関西の文化部勤務を希望したゆう話みたいや。そんで、『神戸をもっと盛り上げるために、新しい名物を作りましょう。それもストーリー性が有って、イベント集客力が有る名物を!』って張り切っとるのや。」
「新作の菓子なり料理なりを、作るに至った動機は分りましたが、由来に、クトゥルフ神話風味の味付けをする意味が、分かりません。メジャーな話題という訳でもないし、知っている人だったら、逆に気味悪く感じる人も、多そうですよ。」
「ウチも、そう思う。面白がる人も居てるかも知れへんけどな。けど、なんやクリスチャンセンさん、圧倒的に感化力ちゅうか影響力の強い人やねん。話を聞いとったモンら、高揚するっちゅうか、だんだん熱に浮かされる様になって行ってな。」
「『クトゥルフの呼び声』でも、感受性が強い芸術家とかが、真先に影響受けてましたよね。料理上手の人たちがハイにさせられて、味噌っ滓のアマノさんが懐疑的とか・・・」
「おいおい、酷い言われ様やな。でも、ホント変な感じやってん。」
「関食同好会の方は、なんとなく状況が見えてきましたけど、イベントの運営とか会場設営とかは、どうなってるんですか?同好会の中に、イベントの具現化が得意な人って居ましたっけ。」
「ウチらは新名物のアイデアを、具体的な料理に落とし込んだだけや。クリスチャンセンさんの連れの、イベント・プロデューサーだかコーディネイターたらいう人が、えらい辣腕でな。なんか、色んな人ら巻き込んで、イベントのアイデアやら、場所の使用許可やら協賛やら、どんどん進めてるようなんや。ウラさん言う、パっと観には印象の薄い人やねんけど、人は見かけによらんモンやと、つくづく思たわ。もっとも、クリスチャンセンさんが、あの影響力を行使してるから、かも知れへんねんけど。それで、今日は根黒さん祭りの準備会というか、予行演習やねん。実際に予定地で、行ってみよういう。」
不意に、アマノさんが立ち上がって、僕の顔の前でお尻をはたくと、下に向かって手を振った。そちらに目をやると、若い女性が、参道を登って来ているところだった。
僕も立ち上がって、その女性を待った。アマノさんが、ここで小休止したのは、疲労困憊の僕を気遣ってくれた訳ではなく、彼女の到着を待っての事らしい。
登って来た女性はスレンダーな弥生顔の美人で、長袖のスポーツシャツに、短パン、ウォーキング・スパッツという山ガール風のファッションに、デイバッグを背負っている。
「アマノちゃん、こんにちは。こちらがオオタさん?」
涼やかな声音だ。
「御機嫌よう、キビッちゃん。彼が、ウチのアシスタントのオオタです。」
誰が、アシスタントだよ。
「初めまして、オオタさん。キビツ・ノアと申します。お噂はアマノさんから常々。」
「初めまして、キビツさん。がさつなアマノが、ご迷惑をかけて無ければ良いのですが。」
「誰が、がさつなコロポックルやねん!」
「コロポックルとも、ザシキワラシとも言って無いよ。ちびっ子。」
キビツさんは、鈴を転がすような声で笑ってから、ふう、と溜め息をつき
「少し休んでも良い?・・・よだきい・・・。」
と言った。
キビツという名字から、僕は彼女が岡山出身なのかなと思ったのだが、しんどいとか面倒だとかを意味する『よだきい』という方言を使う処をみると、大分の人だろう。
「実家はカボス農家なの。専攻は園芸化学。趣味で、言い伝えとか収集してます。漠然と民俗学とかやりたいなぁ、なんて思っていたけれど、食べて行けるかどうか、自信が持てなくて。」
三人で腰を下ろすと、キビツさんはデイバッグから、桃とカボスを取り出して、食べる?と聞いてきた。一つ下さい御供します、と素早く応じたのはアマノさんだ。桃太郎かよ。
キビツさんは、十徳ナイフで手早く桃の皮を剥くと、カボスを一搾りして、アマノさんと僕に手渡してくれた。
桃の甘味とカボスの酸味の、コントラストが心地良い。身体に籠った暑さと疲れが抜けて行くようだ。
「あー、リフレッシュした。元気出るぅ!」
とご満悦のアマノさんに
「よかった。」
と笑顔のキビツさん。
食べ終わると、キビツさんは皮と種をビニル袋に仕舞い、ウェットティッシュを手渡してくれた。用意の良い人だ。
「キビツさんも、関食研同好会に所属していらっしゃるんですか?」
「いえ、草戸千軒に関する古文書が出た、と耳にしたものですから。」
「それ読ませてもらいに、コピーでもないかて市役所の文化財保存部門に訪ねて行って、巻き込まれたクチやねん。」
「クリスチャンセンさんから?ウラさんかな?」
「どっちでもないんやな。市役所の担当者が不在やったんやけど、たまたま居合わせた、町内会かなんかの人が、ウチらの同好会がコピー持っとるやろて、教えてくてたんやそうや。ウチらはコピーもろてたんやけど、草書体やら誰も読めへん。頭抱えとったら、キビッちゃん来てくれて、渡りに船やと。でも、それはタテマエで、キビッちゃん美人さんやし、物腰も素敵やろ。男どものサガなんやなあ、なんとか繋がり保ちたい思て、なんやかんや引っ張り込んでん。」
「それは買い被りですよ。アマノちゃん。」
キビツさんは過分な褒め言葉だというように、アマノさんを軽くいなすと、僕の方を向いて
「だから、まだ私、クリスチャンセンさんにもウラさんにも、ご挨拶していないんです。」
「それじゃあ、クリスチャンセンさんやウラさんにとっても、『想定外の巻き込み』なんですね。実は僕も、今日アマノに連れて来られるまで、九頭竜焼きの話とか、全然知らなかったんですよ。」
「だって、キミ何時も、実験や~実習や~論文の読み合わせや~て忙しそうにしとるやんか。邪魔になったらいけん思て、気遣こぅてんやで。アイドルに気ぃ遣わすマネージャーて、どうかと思うわ。」
さっきはアシスタントって言われたんだけどな。
「でも、こういうイベント事って、動き始めて一反勢いついたら、雪ダルマ作る時みたいに、どんどん膨らんで行くんやなあて思うわ。近頃はウラさん忙しすぎて、どこで何をしとるんやら、なかなか捕まらへん。クリスチャンセンさんの方は、本業の新聞の仕事もあるやろうから、顔見んでも不思議もないけど。」
それでは、そろそろ行きますか、と僕らは立ち上がった。キビツさんは、日差しが強くて目が痛いから、とデイバッグから出した偏光グラスを装着した。
偏光グラスを掛けたキビツさんは、高校生の頃に世界史の教科書で見た、バラージ国立博物館所蔵のノアの神像によく似ている・・・・そんな気がした。
続く




