平和の終わりと王の最後
「ヨハーン」
ゴミ処理施設。
依然変わらずそこにあり続け、陰ながら人々の生活を守り続けているその場所は、黒い煙にまみれており、その場所で相変わらず動物の死体を相手にしている少年に向かって、マリアはかけて行き手を振る。
「……マリア……と、もうそんな時間か」
ヨハンはこの二年で背が伸び、その整った顔立ちは正装をすれば貴族の息子と言えば誰一人として疑わない程精悍な顔つきになった。
泥でまみれた額を拭いながらヨハンは作業を中断し、らせん状の塔から飛び降りる。
「おっと。なんだ、騎士のおっさんも来やがっちまったのか、まったく物好きだな~てめーらも」
「へへへ!なんとエレノアちゃんもいるのです!おっす汚い奴!」
「うるせぇノータリン」
途中から参加したエレノアが騎士の後ろからひょっこりと顔を出す。
二年たっても変わらないその容貌は、まるで時が止まったように不気味にも思えるがどうやらマリアもヨハンもまったくもって気にしていないようで、いつものように三人仲良く軽口を叩きあう。
マリアにとってこの二人は、いつしかかけがえのない大切なものとなっていた。
「さぁさぁ!今日のお弁当は~!じゃじゃーん」
マリアがそう言ってメルヴィルの持って来たバスケットの布を取り払うと、ふっくらと焼きあがったパンの甘い香りがメルヴィルとエレノアの鼻をくすぐる。
「……うわああ、おいしそう~!」
「流石です。マリア様」
「まぁ、どうせ味も臭いもわかんねーからよーなんでもいいから早く食おうぜ?」
各々マリアの手作りの昼食に感想を漏らし、マリアは少し照れたように頬を赤らめてから一つ咳払いをする。
「はいはい。じゃあみんな神様にお祈りを……」
マリアはバスケットを置き、神の子らしく両手を合わせて神に感謝を捧げようとするが。
「おいしーーー!」
すでに十年近く教会に出入りしているはずのエレノアが真っ先にパンを頬張った。
「あ、こらエレノアダメでしょ!?食物の恵みを与えてくださった神様に感謝しながら、この日を平穏に生きられる喜びを……」
「おー、すげーこれは綺麗な形してやがら~」
「あー!それ私が取ろうとしていた奴だよ。どうせ味が分からないんだったらもっとまずそうなの食べなよヨハン!ほら、これ焦げててまずそうだからさ!」
「うるせー!味も臭いも分からないから見た目がきれいなのを選んでんだろ!?」
聞いちゃいなかった。
「……もう。せめてメルヴィルはお祈りをしてね?」
「……はい?……あぁ、とってもおいしいですマリア様」
「……」
◆
「いや~食った食った」
お腹をさすりながらヨハンはごろりと横になり、大きく空に向けて息を吐く。
「味覚無いのにマリアちゃんのパンよくそんなに食べられるよね~ヨハン、そういうのを豚に真珠っていうんだよ?」
「そういうお前こそ、味覚があるのになんだってそんなに詰め込んで食うんだよ。おめーの方こそ豚に真珠だっつーの」
下らないことで突っかかりあう二人はまるで兄弟の様で、お互いの頬をつねりあっている姿を見守っていたマリアは、思わず口元に手を当てて笑いを零す。
「何がおかしいんだよマリア」
それにむっとした表情でヨハンはマリアに食い掛かると。
「ふふ……本当に二人は仲がいいのね」
マリアは愉快そうにカラカラと笑う。
「……たく」
そんなマリアの笑い声にバツが悪そうな表情をして、つねっていたエレノアの頬を離す。
スラム街の瓦礫だらけの廃墟。
風景だけでは、決して食事が楽しくなりそうな場所ではないが、マリアたちにとってここで食べる食事こそが、至福の時となっていた。
いつもと同じ午後の昼下がり。
しかし、今日は少しだけ、違っていた。
「……む?」
「?どうしたの、ヨハン」
昼寝をした体勢から飛び起きたヨハンは、そのまま城下町の方を見つめる。
「……なんか、町の方が騒がしい」
マリアの質問に、見える筈もない黒い煙の無効にある城下町を見つめ続けながらヨハンはそう答え。
「……その方角は……王城の方だ」
メルヴィルは目を細めながら、正確な方角を伝える。
「……」
一瞬の沈黙の後、互いの顔を見合わせた四人は静かにうなずき、一斉に立ち上がり、王城へと向かっていった。
◆
王は……正気に戻った。
今まで見ていた夢のような日々。
幻想のような香りに誘われ、気が付けば目の前には霧がかかり、そしてまるで聖書が定める天に召されたかのような場所を唯々ひたすら歩んでいた。
王は、誠実で賢明。
幾度となく行われた侵略戦争に打ち勝ち、神の声に従い……神の意志に従って国を治めた。
その全ては正しく、その全ては民を幸福にし、その全てを人は称え、その全てに人々は期待をした。
故に、彼が望んだ世界は虚空。
重圧、期待、画策、謀略、侵略、防衛、政治。
その全てがなく、すべてが霧の向こうへと隠れ、見えなくなる世界。
あるのは甘い香りと、愛でるべき花のみ。
皮肉にも、賢王の望んだものは、考えない事だった。
◆
「……王子、王の意識が戻りました」
王座に座し、淡々と業務をこなす王子の元に、一人の兵士が現れる。
レオ十世の親衛隊、獅子王騎士団の騎士団長だ。
「……ベアードか」
「はっ」
赤いマントを揺らして目前に跪く騎士は、少し落ち着かない様子で幾度も視線を飛ばしてくる。
いつも冷静なこの男が、今日と言うばかりはどこか落ち着きがない。
情に厚く、快活で豪快な性格であると知られる彼ではあるが、それはあくまで仲間内での話。
その忠誠心は、いざ王族の前に跪けばたとえ大地が揺れようが天がわめこうがその身を揺らす事なく、鋼鉄折り重なる鎧が音を立てることもないと称えられるほど。
その男が今は年老いた老人の如く体を震わせて鎧をカラカラと揺らし、まるで初めて外に出る稚児かの如く視線をあちらこちらに飛ばし、その肌は滝の如く汗が流れている。
その様子は明らかに異常であり、王子はその姿を見て全てを悟った。
「死期が……近いか」
「はっ……医師の見立てでは……すでに感覚のほとんどが無く、意識が戻ったことが奇跡とのこと……故に、いつまた深き眠りに陥られてもおかしくない……そうです……」
王子は一度、瞳を閉じてペンを置く。
何を思い、何を覚悟したのかは定かではない。
そこにあるものを書き表すことなどできなければ、読み取ることなど尚不可能。
ただ、その時の表情は王子ではなく……ただ一人の息子であった。
「行くぞ」
「はっ」
ベアードを引き連れ、王子は何も語ることなく王の眠る寝室へとかけて行った。
◆
誰かが言った。
人の価値は、死ぬ間際に集まる人の数によって決まると。
その通りならば恐らく、この王は他に比べる者なきほど徳にあふれ、民に愛された王であったことだろう。
「父上!」
王室にて、王の姿を看取る臣下を押しのけ、王子は王の元へと参上する。
広い王城を駆けたせいか、その掌は汗にまみれていたが、構わずに王子は王の手を取る。
「……」
そのおかげか……はたまた単なる偶然か……光も音も匂いさえも失った王は、息子の惨状に合わせて重い瞼を開く。
「……せがれ……か?」
弱々しくも、しかしはっきりとした言葉に、王子は返事の代わりに力強く王の手を握る。
「……おぉ……おぉ……よく来た……よく、きたのぉ」
大粒の涙が頬を伝う。
まるで、数年ぶりの再会のような……其れはとてもうれしそうな声を上げながら。
「父上!お気を確かに!」
聞こえないと分かっていながら、王子は父親に語りかける。
「長い……夢、を見ていた。真っ白な……霧の中を歩く夢だ」
「……父上?」
「……久しく考えつづけ……悩み続け……それから解放されたこの数年は……まさに至福の時であった……」
「……何の話ですか?父上?」
王のこの言葉に、背後の臣下たちはとうとう正気を失われたと泣き崩れ、神官たちは皆そろって王の命を天に召すことを考え直すように偉大なる神に向かい祈りを捧げる。
「……だが、あれは神の力ではない……失われていた本当の己……それを現実へと引き出すだけ……悪魔の誘い香だ……」
「香り? 父上! 何を……何をおっしゃられているのか、私には理解できません!国を憂いておいでなのですか? それとも……民を思っておいでですか!?」
泣き崩れる臣下の中、王子はひたすらに父の最後の言葉を、胸に刻み込む……。
「……これは、私の最後の言葉であり……命令だ」
言葉は重く……その部屋を震わせた後、王は病人とは思えない力で息子を引き寄せ、語る。
沈黙。
誰一人として盗み聞くことを許されず、王の最後の言葉を妨げまいと、泣き伏せる臣下たちは己の唇から血を流すほど強くその口を閉じて漏れ出す声を閉じた。
そして。
「……………」
王子の手からこぼれた王の手は、力なく音もなくベッドへと落ちる。
レオ十世は、息絶えた。
「王子……」
その場はどよめき、人々は皆王子へと視線を送る。
「……王子……王の、最後の言葉をお伝えください」
「あぁ」
臣下の視線を浴びながら、王の亡骸を前に王子は立ち上がり……視線を巡らし。
「……聖テレジア」
その中に居た……神父の名前を呼んだ。
◆