聖女の誕生
古びた教会の門の前で、男は一人石段に腰を掛けて神に祈りを捧げる。
角の欠けた石段はまるで氷のように冷たく、容赦なく男の体温を奪っていき、祈りを捧げる男の唇は腐敗した肉のような紫色になり、捧げる祈りの言葉はカチカチとなる歯によってもはや言語と言う領域を逸脱している。
しかし、その男は自らの体が凍傷寸前であることにも気づかずに、ひたすら愛する神の奇跡を望み訴え続けていた。
男は、この古びた教会にて、神に仕え貧しき人々に教えを説く神父である。
性格は温厚であり神父の鑑と称されるほどの聖人君子と名高く。
権力者や富める者のみが神の御加護を得ることができる時代には珍しく、貧しきものの為に神の加護と教えを分け隔てなく与えており。
その為、常に高い身分を与えられるべきである聖職者にも関わらず、身に着ける法衣はボロボロで、靴には大きな穴が二つ空いている。
聖なる場所である教会の壁はあちこちがひび割れ、屋根には何の植物とも分からぬ蔦が網のように絡み付いており、廃墟と見間違われてもおかしくない。
「神よ……我が妻と我が子の命をお守りください」
だがしかし、神父の握る白銀に輝く十字のみが、闇の中で曇り一つなく煌々と輝き。
彼の清らかな声は、か細くも天にまで届きそうなほど透き通っている。
「……妻に罪はなく、生まれ出でる子にも罪はありません……。どうか……神よ」
男の妻は難産だった。
出産予定日よりも二週間早い出産は、元々体の弱い彼の妻にとって相当の負担になったのだろう。
男はかれこれ六時間、この石段の上で妻の無事と子供の無事を神に祈り続けていた。
と。
「!!」
聞き間違える筈もない、待ち望んだ言語ではない音が耳に入る。
「あぁ!」
男は考えるよりも早く立ち上がり、教会のドアをこじ開ける。
ドアノブの外れる音が聞こえたが、そんなことは眼中に無いようで、我が子の誕生の喜びと、妻の無事を心配する心がかきまぜられるかのような感覚にさいなまれながら、赤子を取り上げた部屋へと走り、嬉々とした表情で舞い降りた天使の姿を拝む。
しかし。
そこに居たのは……悪魔だった。
「え?」
赤 赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤
部屋は赤色の絵の具がまき散らされ。 床は絵の具で水浸しになっている。
妻だった物は今は頭があった場所から血を噴き出す噴水のようになっており。
赤子を取り上げた二人組のうちの一人が、体を痙攣させながら口 鼻 眼 耳 肛門 全ての穴と言う穴から血を噴出させている。
「ひっ……!?」
男は困惑し、訳も分からず恐怖に駆られる。
其れもそうだ。 何が起こったらこんな惨劇が目の前に舞い降りるのか?
何をどうまかり間違えば、神に仕える人間の前にこれだけ凄惨な光景を作ることを神が許されるのか?
それほど、その部屋の光景は異常だった。
「ダん那さマぁあ~……」
その赤色の中、人影が動き、こちらへと一歩近づいてくる。
赤色に染め上げられていて気付かなかったが、それは町の医者だった。
「え……あ」
ふらふらとした足取りで医者は男の元へとある気より、赤色をぽたぽたと垂らしながら、立ち尽くす男へと何かを差し出す。
「……へ……あ?」
「オめデとうゴざいマす~………げンきな女ノ子でスよ~~」
差し出された者を見ると、確かにそれは産まれたばかりでへその緒もまだ取れていない小さな女の子であった。
男は血にまみれた赤子を受け取り、守るようにそっと医者から引き離す。
「い……一体……な……何があったんですか!?」
明らかにこの医者の様子は異常であり、状況から見るにこの惨劇を引き起こしたのはこの医者であるとみるのが妥当であり、男は恐怖で足が震えながらも医者を問いただす。
「……」
しかし、医者は子供を渡した状態で立ちつくしたまま応えようとはせずに、口からよだれを垂らしながら白い息を吐き続ける。
「説明してください!ここで……一体何が!」
「にオい」
「……へ?」
におい。 崩れ、到底人の言語とは思えない発音であったのにもかかわらず、男はしっかりとその単語を聞き取った。
「に……匂い……匂いってなんですか?何の匂いですか?」
「匂い……におい匂い匂い匂い匂いニオイにににんいににににににににににににににいいいいいいいいいいあああがあああくぁああああああああげあっだあああああああがあががががあああぎいぎぎぎぎぎぎいぎぎいいいいいいいいいいいいいああ! あぁ!?あああはっ あっははははっはははっはははっはあああああっははははははははははははああああはああはははっはひひひひひひっぐははひひひ」
「ひっ!?」
人が壊れる瞬間とはこういうものなのだろう。
医者は役目を終えた人形のように痙攣を起こし、壊れた様に発狂をし、全身から血を噴き出す。
その姿はまさに悪魔に魅入られたとしか考えられず。
神父は医者の血液を体に浴びながら、必死に銀の十字架を握って祈りを捧げていた。
と。
瞬間、自らの鼻に神父は甘い花のような香りを感じ。
「いぎっ……」
その悪魔は、神父にさえも牙を剥く。
「あああああああああああああああがあああああ!頭が!?あだまがあああああああ!割れる割れる割れる割れるああがああああああいいいいいいいだいいだいぢあぢあだああ」
目と鼻から赤いものが滴り落ちながらも、神父は必死に我が子を落とさないように抱きかかえて赤い部屋の中へと入りこみ、赤子を妻だった肉の塊の上へと置き……原因を探ろうと医者の元まで体を引きづり。
気づく。
鼻への刺激がほんの少し弱まり。
割れそうな頭の痛みが、唯の痛みへと変化したことに。
「……お前か!!」
そう、原因は赤子であった。
この惨劇を引き起こしたのも、この割れそうな痛みの原因も……子が悪魔に魅入られたことが原因だった。
「おうぇえええぇぇ!」
原因を脳が理解したと同時に、神父は胃の中のものを口から吐き出す。
この日神父は、神の寵愛も妻もそして愛すべき娘さえも失った。
彼はもはや神父ではなく。神を信じるものでは無い。
あるのは憎悪。
全てを奪った者への憎悪と悪魔への復讐心のみが心を支配し、悪魔を超える醜いその表情は、涙と嘔吐物と血液でぐちゃぐちゃになった肉の塊の様だった。
赤の中に落ちた白いものは、べちゃべちゃと音を立てて赤色の上に落ち、淡いピンク色となる。
「この……」
神父はその一言だけ漏らし、手術台に乗せられていた鋏を手に取る。
この赤子が、この世で呼吸をすることを許した鋏を。
「この……悪魔がああああああああああああああああああああああああああ!」
その日……古びた教会にはある聖女が誕生した。
赤色の血と、その血の匂いをすべて消し去るほどかぐわしい香りをまき散らしながら生まれたその少女はマリアと名付けられ、神の子として崇められたのだった。




