第7話 漂う香りと、目の奥の視線
六月二十八日、土曜日。
午前中、いつものように掃除に来た職員さんに、僕は昨日から再び始まったストーキングの件を伝えた。だが、返ってきた言葉はあまりに意外だった。
「その話しは聞いたらアカンことになってる」
なるほど。現実から目を背けることで平穏を保とうとする、その潔さ。まるで組織的な集団記憶喪失だ。
いや、きっとこれは“一致団結した現実逃避”というやつだろう。某ブラック企業の社員たちにも見習ってほしいもんだ。ああ、でも3日で倒産するか(笑)。
夕方五時十分。
僕は共有スペースのソファに座っていた。そこへ、来た。奴が。
彼──赤城さんは、まるで猫のように音もなく僕の間近に立ち、息がかかるほどの距離でじっとこちらを見つめていた。
およそ十センチ。親しい間柄の恋人でもこの距離はためらうだろう。
「…」
無言の時間が数秒流れる。
このまま逃げると、例の“ドンドンバンバン”が始まりそうだったので、会話を切り出すことにした。
「近くのスーパー、リニューアルしたそうですね。行かれました?」
「…配置が代わっていてよう分からんかった」
「特売品とか、ありました?」
「なんに高くてよう買わん。ふりかけだけ安かった」
ふりかけか。
彼は1500円の散髪代すら惜しむ人間だ。バリカンは使えないらしく、15年間も自分でハサミを使って髪を切り続けているらしい。今日も午後に自分で切ったとのこと。
「…あと、白髪染めもしてみたんやけどな…奥まで染まらへんのや」
たしかに、近くで見ると黒く染まった表面の奥に、白いものがところどころ顔を出している。
洗面台で髪を洗ったらしく、周囲をびちゃびちゃにしたとも言っていた。
「大きい道渡るときも、横断歩道ないとこ渡ってな、車の運転手、睨んだったわ」
──それ、いつか事故りますよ。
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番外編:嗅覚の目覚め
六月某日。
どうやら職員の寺崎さんの嗅覚が覚醒したらしい。
僕はいつも昼食時にキムチを持参している。昨日、寺崎さんにこう言われた。
「キムチの匂いが共有スペースに充満してる。今後は自室で食べてください」
…なるほど、そんなにか?
今日は昼の二時ごろ、自室でコーヒーを淹れた。
ふと昨日の出来事を思い出し、念のためリセッシュを共有スペースに軽く撒いておいた。
そして午後四時すぎ、玄関を開けてやって来た寺崎さんは、第一声でこう言った。
「コーヒーの匂い、しますね」
…ドア、閉めてたんですが。
もしや、昨日鼻毛を抜いたのか? 感度アップ?
──そこで提案です。
彼女の鼻毛を、刈谷さんさんの天然スキンヘッドに移植してみてはどうでしょう?
新たな感覚と、毛根の復活が同時に得られるかもしれません(笑)
ブラックジョーク、たまにはいいでしょ?
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六月二十九日、日曜日。
今日は静かだった。
赤城さんと直接の接触はなかった。
午後四時ごろ、彼が「ふうっ」とため息をつきながら、ぶつぶつと独り言を漏らしながら共有スペースをうろついていた。
その姿はまるで、魂の抜けた機械のようだった。
滞在時間、およそ十分。
何も起こらないというのは、こんなにも安心できることなのかと、あらためて思った。




