第15話 寄り添う影
7月19日(土) 午前10時30分頃 彼は毎週土曜日、ほぼ決まって午前10時頃に外出し、昼食を外で済ませる習慣があった。しかし今日は遅れて10時30分に出たはずが、玄関脇の自動販売機前でひそかにこちらを見据えていた。
僕が部屋に戻ると、彼は理さんの部屋へ向かい「元気か? 今日はリハビリに行かないのか?」と問いかける。その問いかけの後、僕が散歩に出かけている間は姿を消していたが、帰宅すると再びソファに現れ、静かに共有スペースを徘徊し始めた。
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午前11時20分頃 昼食の配膳が始まると、僕はソファに腰掛け待つ。すると、彼はいつもより離れた左後方、約50センチの距離に椅子を持ち寄って座る。その微妙な距離感に気を取られながら食事を始めると、彼は椅子を元の位置に戻し、再びソファへ移動してなお視線を外さなかった。
食後、部屋に戻ると彼は少し徘徊した後、自室へ引き返していった。今日は認知症をご持病とする高齢の女性職員が担当していると聞くが、彼女もこの異常行動には手を出しづらい様子だった。
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午後4時30分頃 外出から帰ると、キャサリンさんが迎えの車を待っている。僕がテーブルで夕食を始めると、彼はカウンターに置かれた自分の夕食を手に取ったが、僕を見ると足を止めた。
次の瞬間、キャサリンさんがスマホをいじる姿を見つけると、彼はひるみながら彼女に近づき、ひそひそと話しかける。
彼「いつも土曜だけ来るの?」
彼女「そうです」
彼「また遊びに来て」
満足そうに頷くと夕食を受け取り、自室へ戻った。
しかし数分後、食器を片付けるために共有スペースへ出た彼は、なぜか乾燥室へ入り込み、僕の洗濯物の間を徘徊して再びソファへ座り込む。その沈黙の圧迫感には、僕も言葉を失った。
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7月20日(日) 午前6時40分頃 散歩の準備を始めると、彼はソファで無言のまま僕を見据えていた。戻ると杖を構えて幅寄せを仕掛け、僕が鍵をかけて部屋へ逃げ込むと、不満げに徘徊を続ける。
午前7時15分頃 バイタルチェックの刈谷さんが去ったとたん、彼はテレビをつけっぱなしにし、換気中の僕のドアを覗き込んでひと言襟を正した。
「フンッ」
続いて、低く毒づく声が廊下に響いた。
「そんな事しかようせん男、○△×」
「なんしてや 女みたい△◆○」
吐き捨てるように部屋へ戻る。
午前7時50分頃 ソファで朝食を待つ僕に、彼は再び約50センチの距離で迫り、「何か用ですか?」と尋ねると、「別に…ただいるだけだ」とそっけない返事。
刈谷さんが近づくと、「飯、食わなアカン」とつぶやきながら椅子を戻し、再び僕を見つめる。
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午前10時頃 手紙を書いていると、彼がソファから現れじっと見つめる。不要な封筒を捨てに行くと、テレビとテーブルの間に立ちはだかり、「歩いてるだけだ」と言い放った。
その後、
「行こか、こんな事しててもしゃない」
と呟き、自室を飛び出す。午前11時50分には足音とともに戻っていた。
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午後の変化:野球マジック 午後に入り、彼はふいに大人しくなった。テレビで高校野球中継を流すと③番席に腰を下ろし、終始落ち着いた表情を見せている。
薬の変更か、担当者の顔ぶれか、あるいは野球の鎮静効果か。
──認知症の症状を和らげる“野球マジック”。僕はぜひとも毎日中継を流してほしいと心から願った。