41:夜の鍛錬場で
月光が降り注ぐ夜の鍛錬場。
昼間は大勢の騎士たちが厳しい訓練を行っていたが、真夜中を過ぎたいま、ここにいるのはフィルディス様ただ一人だけだった。
星々が瞬く空の下、青く輝く刃が宙に複雑な軌跡を描いている。
『精霊眼』を外し、通常の服装に戻ったフィルディス様の手に握られているのは水の精霊の加護を宿す《ミネアの魔剣》。
一心不乱に剣を振るうフィルディス様の動きは鋭く、しなやかで、まるで淀みなく流れる水のよう。
彼の全身から発せられる気迫は、闇夜に潜むどんな魔物でさえ寄せつけないように思えた。
「…………」
人知れず行われる努力は全て私のためだと思うと胸が温かくなる。
さきほど行われた晩餐会で、ラザード様は私に「悪魔王の封印を成し遂げた褒美を与える」と仰った。
私はフィルディス様を自分の専属護衛にしたいと答えた。
フィルディス様の帯剣の許可を願い出ると、ラザード様はそれを予期したかのように「では大聖女を守るに相応しい剣を与えねばならんな」と微笑み、ミネアという指折りの名工が作った魔剣をフィルディス様に与えた。
真面目なフィルディス様のことだから、晩餐会が終わったらすぐに剣の具合を確かめるのではないか……と思って鍛錬場に足を運んでみれば、予想通りの光景が目の前に広がっていた、というわけである。
剣の風切り音が夜の静寂を切り裂き、彼の汗が月光を反射して輝く。
鍛錬に集中するフィルディス様の横顔は、眩しささえ感じさせるものだった。
不意にフィルディス様が動きを止めて剣を下ろした。
腰の鞘に剣を収めた直後、まっすぐに私を見る。
「!!」
いきなり彼がこっちを見たので、私はびっくりしてしまった。
「終わったからもういいよ。遠慮せず出て来てくれ」
優しく微笑まれて、私は木陰から出た。
「いつから私に気づいていたのですか? 精霊たちは夜だと目立ってしまうので、一人でこっそり来ましたのに」
言ってから気づいた。
いまフィルディス様は『精霊眼』をかけていない。
ということは、精霊がいてもその存在には気づかなかったはずだ。
自分が当たり前に見えていると、フィルディス様には精霊が認識できないことを忘れてしまう。
「来たときからだよ。いまリーリエの周りに精霊たちはいないのか。『精霊眼』を外しているからわからなかった。眼鏡はどうしてもズレるから、激しい運動には不向きなんだよな」
フィルディス様はぼやいて、鍛錬場の隅を見た。
鍛錬場の隅には木の樽があり、その上には彼の『精霊眼』が置かれている。
私はフィルディス様に近づき、ハンカチで彼の額の汗を拭った。
「あ、ありがとう……」
照れたらしく、フィルディス様は視線をさまよわせた。
夜でもわかるほど赤くなった顔が可愛い。
「私のために頑張ってくださったのですから、これくらい当然ですよ。もし私ではない他人のための努力だというなら手を下ろしますけれど?」
悪戯っぽく笑ってみせる。
「まさか。全ての努力はリーリエのために決まってる。陛下にも認められ、名実ともにリーリエの騎士になれたんだ。気合も入るさ」
「ふふ。陛下に剣を与えられたとき、本当に嬉しそうでしたよね」
「そりゃあもう。リーリエのおかげでやっと王宮での帯剣が許されたんだ」
フィルディス様は腰の剣を見つめて笑った。
「凄いぞこの剣は。霊体さえ切り裂けるんだ。これがあれば精霊相手にも負けない」
その言葉が意味することを察して、私はハンカチを下ろした。
ルーク様たちが口添えしてくださったおかげで、ラザード様は私たち三人の《聖域》の立ち入りを許可してくれた。
明日の午後、私たちは《聖域》に行く。
フィルディス様は最悪の場合を覚悟しているのだろう。
すなわち、イリスフレーナの守護者たる四大精霊と戦闘になった場合のことを。
「……フィルディス様。たとえ何があろうと四大精霊を傷つけるのは許されないことです。そんなことをすれば厳しい罰を受けてしまいます。ご自身と私の身に危害が及ばない限り、決して剣は抜かないと約束してください」
夜風に髪を靡かせながら言う。
「ああ、約束するよ。もう二度と暴走したりはしない。いまのおれには泣かせたくない恋人がいるからな」
フィルディス様は私の頬にキスをした。
不意打ちに心臓が跳ねる。
どぎまぎしている私を楽しそうに眺めてから、フィルディス様は木の樽のほうへ向かった。
『精霊眼』をかけて戻ってくるなり、そっと私の手を掴む。
「夜も遅いし部屋まで送るよ。今日は色々あって疲れただろう」
「確かに、今日一日で色んなことがありましたね」
悪魔王を封印して、ルーク様に求婚され、フィルディス様と恋人になって、晩餐会に出席して……凄まじく濃度の濃い一日だった。
ふと、脳裏をよぎったのはエミリオ様の顔。
果たして本当に、エミリオ様はルミナスの国王の落とし子なのだろうか……という疑問が浮かんだけれど、私は疑問を胸の奥にしまった。
興味本位で聞くことが許される類の疑問ではない。
いつかエミリオ様が話してくれたら、そのときは耳を傾けよう。
彼が話さなければ話さないままで構わない。
エミリオ様が国王の落とし子であろうとなかろうと、彼が私にとって大事な人の一人であることには変わりないのだから。
私たちは兵士たちの目も気にせず、手を繋いで夜の王宮を歩いた。
くだらない話で笑い合うこの瞬間がとても幸せで、部屋に着かなければいいのに、とすら思う。
「あ」
フィルディス様が声を上げた理由は明白だった。
私の部屋がある『白の宮』の周りに精霊たちがいたのだ。
みんな私の帰りを待っていたのだろう。
大勢の精霊が放つ光は、太陽のように宮殿を明るく照らしていた。
《リーリエ、おかえりー》
《おかえりー。フィルディスも今日はここで泊まるの?》
「ままままさか!! フィルディス様はいつも通り、『緑の宮』に泊まられるわよ!?」
精霊たちには他意はないとわかっていても、頬の温度の上昇を止められない。
「泊まってもいいなら泊まりたいけどな」
「……!!」
さらっとフィルディス様がそんなことを言うので、私の顔はもはや発火してしまいそうだった。
「まあ、半分本気の冗談はともかく。やっと見つけた」
フィルディス様の視線の先にいるのは、大勢の精霊たちに混ざって宙を飛んでいるトカゲの形をした精霊だ。
そういえば、彼はルーク様が私を呼んでいると告げたきり姿を消していた。
いつからかはわからないけれど、フィルディス様は密かに彼を探していたらしい。
自分が見つめられていることに気づき、トカゲの形をした精霊はフィルディス様の目の前に移動した。
《なんだ。私に用事でもあるのか、フィルディス》
「ああ。お前と二人きりで話がしたい。少し付き合ってくれないか」




