7.名前を呼んで
――ぽつり、ぽつり。
邪竜サマは話してくれた。
遥か昔。今となっては朧げな記憶でしかない光景の中のこと。
幼い彼はヒトの姿で、こんな大きな家で暮らしていた、という。
「その家には数えきれないほどの人間がいたよ。ときどき音楽が聴こえて、やたら客が集まるときもあったな」
「賑やかなお家で暮らしてたのね。家っていうか、お城レベルなんじゃない?」
私が言うと、彼はどこか悲しそうな顔で頷いた。
「ああ。でも、俺は人前に出るなって言われてたけど」
幼い彼は、大きなお城の敷地の片隅に閉じ込められていた。
石造りの高い塔の最上階。
外から鍵がかけられた薄暗い部屋で、朝も昼も夜も、彼は一人だった。
いつしか彼は、自分が姿を変えられることに気づく。
そして背中の翼で窓から抜け出し、お城の中を歩きまわるようになった。
けれど、誰も彼と目を合わせず、声もかけてこない。話しかけても返事をしてくれない。存在に気づいているのに無視をする。
ただし、たった一人の例外を除いて。
『戻りなさい、部屋から出ては駄目だと言ったでしょう!』
部屋を抜け出した彼を部屋に連れ戻すのは、いつも同じ女性。
彼は、彼女が恐ろしかった。常に不機嫌で、彼が何をしても怒り、毎晩のように泣いていたから。
それでも、彼に話しかけてくれるのは彼女だけ。
だから彼にとっては特別で、かけがえのない存在だった。
「その女の人って……もしかして、あなたのお母さん?」
「……さあ。顔も思い出せねえし。ただ、髪は金色だったなって」
そう言って、邪竜サマは自分の髪に手をやった。
黒く艶やかな髪には、幾筋かの金色が紛れている。彼の命がどこから来たかを物語るみたいに。
彼女の導きで、ほんの時々、彼は外に出ることができた。
但し、そんな時はいつも「やりたくないことをさせられた」という。
やりたくないこと。
それは――空を飛び、空から火の雨を降らせること。
「火の雨を、降らせる……?」
意味がわからない。でも、心がざわざわする。
いったい、何のこと……?
「いま思えば、あれは戦争の手伝いだ」
苦虫を噛みつぶしたような顔で邪竜サマは言った。
そして、小さく付け加えた。
「やったけどな、褒められたかったから」
炎と煙の臭いを纏って帰って来たときだけ、周りの大人たちは彼を誉めた。笑いかけてくれた。
「でも……あのひとだけは、誉めてくれなかった」
邪竜サマの声が、ちょっと掠れている。
金色の髪の女性。そのひとにこそ、彼は誉めてほしかっただろうに。
月日が流れたある日、金髪の女性は幼い彼を連れて長い長い距離を移動し、この森にやって来た。
そして、暗い木陰に彼を立たせ、冷たく背中を向けた。
『ここに居なさい。絶対に追いかけて来ないで』
そう言い残して。
彼女は二度と戻らなかった。
――以来、彼はここにいる。
「ずっと?」
「そうだ」
「一人で?」
「ああ」
話し終えて、彼は黙りこんだ。
かけるべき言葉を、すぐに見つけることはできなかった。
彼は幼い頃、人間として生きていたのだ。
しかも、お城に暮らしていた。どこかの貴族だったり、あるいは王族だったかも。
もしかしたら、竜と人間、両方の血を持って生まれたとか。
そして異形の姿でこの世に生を受けて、その能力を戦争に利用されて――
(そのあげくに、捨てられた……?)
人間を喰べたりなんかしない、誰も傷つけるつもりはない。
それなのに人々に恐れられ、「邪竜」と呼ばれながら、ひとりきりで過ぎていく時間を見送っている。
「寂しくなかったの?」
聞いてしまってから、ものすごく後悔した。
いちばん尋ねちゃいけないことだった気がした。
どんな評価をしたところで、過去は変えられないのに。
だけど、不躾な質問に気を悪くしたふうもなく、彼は答えた。
考えたこともねえよ、と。
(強いんだな、このひと)
母親が帰らないことなんか、とうの昔に理解しているのだ。
自分には帰る場所がない虚しさも、嫌というほど味わっているはずだ。
それなのに、迷いこんできた者は送り出し、行く場所のない私を受け入れてくれた。強いひとにしか、できないことだ。
「ねえ、邪竜サマ」
窓辺に腰掛けて外を見ている彼に呼びかける。
もうひとつだけ、尋ねてみたいことがあった。
「ん?」
「本当の名前は、なんていうの?」
遠いところを彷徨っていた彼の視線が、私へと戻ってくる。
「なんだ、今さら。名前なんかねえよ」
「でも、子供の頃に呼ばれてた名前があるんじゃない? ……忘れちゃった?」
「忘れるかよ、そんなもん」
やがて返ってきた言葉は、わずかに掠れて聞こえた。
「本当に、無いんだ」
「無い、って……名前? ないの?」
「だから、そうだって」
なんだか、私が泣きそうになった。
お母さんがいたことを覚えているのに、名前で呼びかけられたことさえ無いなんて。
それは、どれほど孤独な子供時代だっただろう?
少しの沈黙のあと。
邪竜サマは、急に言った。
「なあ。……名前、つけてくれよ」
「え? 私が?」
「嫌ならいいけど」
予防線を張る声が自信なさげに揺れている。
――きっと、今までも。こうやって色々なものを諦めてきたんだ、彼は。
それも強さでは、ある。でも。
(そんなの、嫌だ)
私を生かしてくれた彼に、もう諦めてほしくない。
何か、何か言わなくちゃ。
名前。彼に相応しい名前――
「ええと、ええとね……アイオライト」
透き通る紫色の目が驚いたようにこちらをみつめた。
ほんとうに、宝石のアイオライトみたいな。綺麗な瞳。
「私のいた世界にね、そういう名前の宝石があるの。あなたの目みたいな色。だから」
「アイオ、ライト……」
初めて聞く単語なんだろう、ちょっと不思議なアクセントで彼が反芻する。
「ちょ、ちょっと長いかな? そうね……イオ! これからはあなたのこと、イオって呼ぶのはどう?」
「……イオ」
彼の唇が音を刻む。
目を閉じて上を向き、ふたたび瞼を開けて空を見上げて――そして、心底嬉しそうに彼は微笑んだ。
悪くねえ名前だ、と。
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