5.千の花
薄く差しこむ光に瞼をくすぐられる感覚で、目を開けた。
柔らかい毛布にくるまって、私は横たわっていた。
(ああ、やっぱり夢だった……ん?)
てっきり一人暮らしの自分の部屋で、夢から醒めたと思ったのに。
肌にあたる寝具の手触りが、いつもと違う。
まさかこのシーツ、絹じゃないよね?
すごく高価そうな生地。しかも、やたらと豪華な刺繍が施されてるし……
体を起こして見まわしてみた。
私がいたのは、見知らぬ部屋のベッドの上だった。
部屋といっても、普通の部屋じゃない。
天井の高い、綺麗で清潔で広い部屋。
ベッドは天蓋つき。天鵞絨とレースのカーテンに飾られた大きな窓から陽の光が射している。
どこぞの貴族のお城ですか?
やっぱり私、まだ夢を見てるんじゃ……?
と、枕の陰で、何かが動いた気がした。
そーっと枕を持ち上げてみる。
「?」
一瞬、何を見たのか理解できなかった。
そこには、掌に載るくらいの小さな子供――ヨーロッパの絵画に出てくる天使みたいに、金色の巻き毛で、裸の体に翼が生えてる――が四人、上目遣いでこちらを見上げて蹲っていたから。
「……きゃあ!」
『キャー!』
『キャー!』
私が悲鳴を上げると同時に、小さな人たちも叫ぶ。
そして、
『ドラゴン!』
『ドラゴンニ知ラセナキャ!』
『オンナノコ、目ヲ覚マシタヨー』
『ハヤク来テー、ドラゴンー!』
口々に囀りながら、背中の翼で羽ばたいて部屋から出て行ってしまった。
(可愛い……)
やっぱり夢の中だな、ここ。
だってアレ、天使でしょ? それとも妖精ちゃんかな? 現実にいるわけないよね?
とりあえず、妖精ちゃんたちに続いて部屋を出てみる。
廊下に出たあとも、貴族のお城、という第一印象を裏切らない景色が続いた。
高い天井。シャンデリア。階下へ続く螺旋階段。そして、誰もいない。
妖精ちゃんたちが二人、螺旋階段の手摺に腰掛けて待っていた。
私を見ると空中へ舞い上がり、手招きしながら下へと向かう。
階段の下は広いホールだった。
少し行ったところに大きな扉がある。
「目が覚めたか」
「ひゃっ」
背後から急に話しかけられて、思わず変な声が出た。
振り向くと、あの青年が腕を組み、紫色に輝く瞳でじっとこちらを見ていた。
『オンナノコ、生キテタヨ!』
『ヨカッタネ、ドラゴン!』
『トッテモ心配シテタモンネ、ドラゴン!』
「おい、余計なこと言うなって」
周りを飛びまわりながらはしゃぐ妖精ちゃんたちを、青年が耳を真っ赤にして叱りつける。
竜?
「じゃあ、やっぱりあなた、あの邪竜……サマ、なの……?」
「ああ。その呼び方、あんまり好きじゃねえけど」
ぶっきらぼうな口調で青年が言葉を返す。
「てっきり夢かと……竜が人になるとか……」
「夢? ああ、お前、林檎食ったら即眠っちまったもんな。残念ながら夢はおしまいだ。お前が今いるのは現実の世界だぜ」
(そ、そういえば!)
林檎を完食したあと、あの石のステージの上で私、すぐに意識がなくなっちゃったんだった。
どうやら気絶したっぽい。我ながらヒドイ有りさま。
「あの……ここ、どこですか?」
「俺の棲処だ」
「もしかして、わざわざベッドに運んでくれたの?」
「仕方なかったんだよ、お前がいた世界に返そうにも『門』がどこにも繋がらなかったし。……そんなやつ、はじめて見た」
「ああ……」
彼がいう「門」とは、あの渦のことだ。
何も映し出さなかった、空虚な光の輪。
帰りたい場所がない私には、転移の門とやらも無意味だったってわけね。
自分で思ってる以上に世界と縁の薄い人間だったんだな、私。
二十八年も生きて、帰る場所も作れなかった。
たぶん、これからも同じ。
私は、一人だ。
「どこへ行く?」
「お世話になりました。出ていきます」
いずれ邪魔にされる。そう思った。
ここは知らない人の家。私が居ていい場所じゃない。相手が不機嫌になる前に出て行かなくちゃ。
「おい、ふらついてるぞ」
「大丈夫です。……わっ!?」
つんのめったところを、青年に抱き止められた。
「言わんこっちゃない、無理すんなって。だいたい行くあてなんてあるのか?」
「……」
「ないよな。帰る場所もないんだから」
――青年の言葉は真実そのもので。
だからこそ、棘のように刺さった。
振り払うように彼の体を遠ざける。
「でも、私がここにいたら迷惑でしょ」
言ってしまってから、あ、と思った。
(こんなにキツい言い方しなくてもよかったのに……)
ちっぽけな自尊心を傷つけられて、態度が硬くなるのが私の悪い癖だ。
彼は悪くないのに、本当のことを言っただけなのに。
邪竜サマが、ちょっと怯んだ顔をした。
「誰がそんなこと言ったよ。可愛くねえな」
「よく言われます。……ごめんなさい」
頭を下げて、ふたたび扉へと向かう。
「おい待てって、俺が言いたかったのは」
『オンナノコ、ドコ行クノー?』
『行カナイデー? アブナイヨー!』
追いすがるような邪竜サマと妖精ちゃんたちの声を無視して、お城の出口へと走った。
大きな扉に体重をかけて押す。
重い扉の外には、鉄の門と、あの立ち枯れの森が広がっていた。
こんな世界で一人、どうやって生きていけばいいのかわからない。
でも、やるしかない。
誰も頼っちゃいけない。今までだってそうしてきたんだから――
唇を噛みしめて外へと踏み出す。
靴の下で枯れ枝が折れる感覚に怯むのと同時に、背後から青年の声がした。
「待てよ……チカ!」
その瞬間。
視界に入る色彩が、一気に変わった。
「……え?」
爪先で、緑色が弾ける。
地面から草が芽吹き、枯れ枝を覆う。まるで若草の絨毯みたいに。
それだけじゃない。
白骨のように立ち枯れていた木々に生気が戻り、瞬く間に緑の葉を茂らせていく。
足元の草に、木々の枝先に、次々と花が開いていった。
あっというまに、いちめんの花々が視界を埋めた。
空を覆っていた雲は吹き払われ、陽射しが景色をよりいっそう明るく彩る――。
「……まあ聞けよ」
邪竜サマが私の前に立った。
乱暴な口調に似つかわしくない、どこか気弱そうな表情が、整った顔に浮かんでいる。
「俺が言いたかったのはさ。行くところがないなら、居ればって話」
「居れば、って……ここに?」
「ああ。さっきよりは少しマシになっただろ」
『オ花、キレイダネー』
『ヤッタネ、ドラゴン! ヤレバデキルネー!』
妖精ちゃんたちが空中で抱き合ってはしゃいでる。
「あなたが花を咲かせたの? こんなことができるの!? こんな……こんな、すごいことが」
「お、おう。こんなの簡単だ」
「どうして……」
「どうしてって、そりゃあ……俺ひとりなら、こんなもんいらねーけど」
足もとの花を見下ろして、青年が恥ずかしそうに言う。
「花でも見たら元気出るんじゃねえのと思ってさ。お前の名前、チカっていうんだろ。千の花って意味って言ってたから……うわ、なんでまた泣く!?」
……本当に。
どうして泣いてるんだろう、私。
情けないのか嬉しいのか、もうわからない。
しゃがみこんだ私の上に、妖精ちゃんたちと邪竜サマの声が降りそそぐ。
『オンナノコ、泣イター!』
『ドラゴン、泣カシター!』
『ドラゴン、ワルイネー』
「俺やらかした? 間違えた? こんなもん見ても嬉しくないのか。人間の女わかんねー……」
「ちがう……」
膝に顔を埋めたまま、首を横に振った。
「違う。間違えてない。……嬉しい」
「そ、そうか?」
「うん」
今の今まで、どうして気づけなかったんだろう。
誰も話を聞いてくれないなんて思ってた私こそ、いつのまにか他人の言葉に耳を塞いでた。
自分の気持ちを伝えることを諦め、人を遠ざけてた。
心を閉ざしてたんだから、誰ともわかりあえるわけなかったんだ。
そんな私と、邪竜サマは話そうとしてくれた。
振り切って逃げようとした私に、聞けよ、って言ってくれた。喜ばせようとしてくれた。
その気持ちを、この景色で伝えてくれた。
――私も、伝えなくちゃ。素直な自分の想いを。
「……ありがとう。はじめて見た。こんな綺麗な景色」
「そ、そうか。嬉しいのか、チカ。そりゃ、よかった」
邪竜サマが、ほっとしたように顔を綻ばせた。
そういえば、「チカ」って名前を呼ばれたのも久しぶりな気がする。
職場で上司から呼ばれるときは、苗字か「チーフ」だし。袴田さんは「センパイ」呼び。
慌しい生活の中に埋没して、単なる記号に成り果てた私の名前。
心のどこかで、本当の自分まで消えていくような気がしてた。
いつもいつも息苦しくて、居場所がないと感じてた。
だけど目の前にいるひとは、いちめんの花の中で私の名前を呼んでくれた。自分でも忘れそうだった、音の響きの意味と一緒に。
邪竜サマが膝を折り、私と視線の高さを合わせる。
そして真剣な表情になって、続けた。
「なあ。ここに、いろよ。チカ」
「……うん。いる」
頷いてみせると、青年はまた嬉しそうに笑った。
「ああ、それがいい」
その顔が、無邪気な子供みたいで。
なんだか可愛くて。
――初めて、思えた。
ここにいても、いいのかな、と。