4.帰してくれると言うけれど
返事をしない私に焦れたのか、竜がまた深く息を吐いた。
「あいつら、何度同じことを繰り返せば理解するんだ。竜は人間を喰わない。生贄なんて意味ねえよ」
「同じ、こと? わ、私の前にも生贄がいたんですか……?」
「ああ、数えきれないくらい差し出されてきたぜ。全員、女だったな」
竜が片方の髭をピンと上げた。
その仕草といい、ぶっきらぼうな口調といい、妙に人間味がある。
「そ、その人たちは、どこに行っちゃったの?」
「決まってんだろ、送り返した。どいつもこいつもギャアギャア喚いてうるせーから。お前は珍しくおとなしいな。変なやつ」
そう言って、おもむろに片足を上げる。
鉤爪の足がドン、と石のステージを踏んだ。
「……!!」
その足元に、銀色に輝く渦が出現する。
呆気にとられて見つめていると、手足を戒めていた縄がブツリと勝手に切れた。
「……あ、れ?」
「お前も帰れ」
静かな声で竜が言った。
「え……」
「帰りたいんだろ? この渦は、お前の行きたい場所に通じる門だ。飛び込めば、異世界だろうがどこだろうが、もといた場所に戻れるぞ」
「うそ……!?」
上体を起こし、渦をみつめる。
(あの渦へ飛び込めば、帰れるっていうの?)
もといた世界。
いつも通りの日々に――帰る。
それはこの上なく喜ばしい、はず。だったけど。
思い浮かぶ、「いつも通りの景色」。
それは……
出勤の満員電車。
クレーム対応で怒鳴られ罵倒され、深夜まで残業して、疲れ果てた体で家路を辿る毎日。
誰も待っていない部屋。
会社からの呼び出し以外で鳴ることのないスマートフォン。
タスク満載のパソコン画面。
冷たかった両親。
帰る故郷のない自分。
――ぽろり。
気づいたら、頬を涙が伝っていた。
「そうか、泣くほど嬉しいか。そりゃよかった、さっさと帰れ……ん?」
邪竜が首を傾げた。
「おかしいな、渦に何も映らない。お前の頭の中に帰りたい場所が浮かんでいれば、そこに繋がるはずなんだが……」
「嫌だ」
短い拒絶の言葉が口をついた。
「帰りたく、ない」
「……何だって?」
「帰りたくない。帰りたい場所なんてないの」
「本気で言ってんのか、お前」
自分でも馬鹿なことを言ってると思う。
でも、本当に帰りたくない。あの日々には。
『嫌だ』。
その一言が言えない。言っても誰も聞いてくれなかった。
嫌だ、って、やっと言えたのに。
それが、こんなわけのわからない異世界の、わけのわからない巨大生物の前だなんて、もう本当にわけがわからなすぎ。
情けなくて、涙が止めどなく溢れてくる。
泣きじゃくる私を前にして、邪竜は黙りこくっていた。
蛇みたいな顔は、表情の変化なんて殆ど読み取れない。でも、何かを考えているのが伝わってくる。
そして。
信じられない事態が起こり始めた。
邪竜の体が、みるみる縮んでいくのだ。
体高が半分になり、四分の一になり、横幅も縮んで――
(ていうか、体ぜんぶが変化してる?)
やがて目の前の巨大生物は、完全に姿を変えた。
「……!?」
いま目の前に立っているのは、ひとりの青年。
漆黒に、ところどころ金色のラインが混じる頭髪は、邪竜の鬣の色そのままだ。宝石のような紫の瞳も。
人間の男性、に見える。
年齢も私とそう変わらないだろう。
ただ、頭部には二本の角が生えているし、袖のない上着から覗く腕の上部は、竜だったときと同じ黒い鱗に覆われている。
そして――その顔立ちは、おそろしいほど整っていた。
切れ長の大きな目、通った鼻筋。額には、小さな小さな紋様のようなものが青く浮かんでいる。
異形。だけど、美しい。
彼の容姿を表現するなら、ほかに言いようがなかった。
これは夢なんだ、と思った。
なんなら異世界召喚のあたりから全部、夢。
だって、こんなに綺麗な男の人が現実にいるわけないもの……。
「泣くのはやめろ。俺はうるさいのが嫌いなんだよ」
少し前まで竜だった青年が、困ったように言う。
そして、こちらに向かって腕を伸ばした。
「……っ」
何をされるのかと思わず身を固くした次の瞬間、彼が差し出した掌の上に、きらきらと輝く小さな光の球が出現した。
それは見る間に輪郭を持ち、艶々とした赤い林檎になった。
「とりあえず、これでも食え。腹の虫が喚いてるぞ」
「え?」
指摘されたとたん、私のお腹からグーッとすごい音がした。
自分で気づかなかっただけで、ずっとお腹が鳴ってたんだろう。
そういえば、しばらく何も食べてない。
気づいたとたん、「空腹」という感覚を思い出してしまった。
もう他に何も考えられなかった。
林檎を手に取り、かぶりつく。
「……美味しい……!」
ほんと、夢とは思えないくらい。
みずみずしい果肉の甘酸っぱい味が疲れた体に沁みていく。
「おい……泣くか食うか、どっちかにしろって」
私を見下ろし、青年が呆れたように言う。
そして、
「名前は?」
「ち……千花」
「チカ? 妙な名前だな。意味とかあるのか」
「千の花、って、意味です」
「へえ。……てかお前、いい食いっぷりだな。俺が怖くないのか?」
「ふぁい」
竜の姿だった時よりはね、というのが本音だったけど、食べるのに忙しくて返事がいい加減になる。
ふうん、と呟く青年。
彼の背後で、光の渦が音もなく消えていく。
どこにも繋がらなかった門が閉じるのを見ながら林檎を食べ終えて、私が次に思い出した感覚は……
信じられないことに「疲労」だった。
(眠い……)
だって、こっちの世界に来て以来、まともに寝てなかったもんね。
そもそも、ここは、きっと夢の中なんだ。
夢のなかで更に眠ったら、どうなっちゃうのかな。
周囲に広がる死の森も消えてなくなるのかな。
目の前にいる、口の悪い綺麗な人も。