1.巻き込まれて異世界
「はい……はい、申し訳ございません。すぐに正確な資料の作成にとりかかります。はい、今日じゅうに送信いたしますので!」
受話器を握りしめたまま思わず頭を下げる私。
電話の向こうで激怒する本社のマネージャーには見えるわけないのに、叱られることに慣れた体は自然に動いてしまう。
ここは東京、銀座の大型商業ビルに入るセレクトショップ。
私、佐藤千花が務める職場のバックオフィスだ。
「どうしました、チーフ?」
近くで今日の売り上げを集計していた後輩社員が声をかけてくる。
「本社に提出したイベント売り上げ報告書の数字が、全部間違ってたんだって……」
「それって、袴田さんが担当した資料ですか? チーフも確認したんですよね」
「それが袴田さん、私を通さないで本社に送信しちゃったみたいなの。どうしてそんなことしたかなぁ……」
思わず額に手をやる私の背後を、別の後輩社員がスタスタと通り過ぎる。
「お先に失礼しまーす」
「あれ? 袴田さん?」
ピンクのワンピースの裾をなびかせ、茶色の髪を髪をふんわり巻いた女性社員。
まさに今、ミスをしたことが発覚した袴田みりあがオフィスの外へと出て行くところだった。
(お先に失礼しますって、いまは定時の一時間前ですよ?)
あわてて彼女の後を追う。
社長の姪でコネ入社、普段から我儘な振る舞いが目立つ袴田さん。遅刻も早退も日常茶飯事だし、仕事のミスも滅茶苦茶多い。
チーフなんて中途半端な立場の私は、彼女のフォローのため、毎日のように残業をしていた。この業界の悪しき風習で、もちろんサービス残業だ。店長は見て見ぬふりをしている。中間管理職はツラい。
「袴田さん、ちょっといいかな?」
エレベーターを待っているところを呼び止めた私を、袴田さんは余裕の笑顔で振り返った。
「なんですか、センパイ? みりあ、もう帰るところなんですけど。店長には早退の許可もらいましたー」
袴田さんの一人称は、自身のファーストネーム「みりあ」。お客様の前でも貫いているからすごい。
私のことは「センパイ」と呼ぶ。
名前でも、「チーフ」でも、何なら「先輩」でもなくて、センパイ。「おばさん」と揶揄する代わりに「センパイ」と言う単語を充てているのは、なんとなく伝わる。
「本社から連絡があって、袴田さんにお願いしてたイベントの報告書の数字が間違っていたそうなの。送信前に確認させてほしかったな」
「そうなんですか、スミマセーン。今日みりあ用事あるから早く帰りたいなーって、セルフチェックで提出しちゃいましたー」
おどおどと苦言を呈する情けない私に向かって棒読みの台詞を吐き、袴田さんはエレベーターの下りボタンを押す。
「ちょっと待って、急いで訂正して再提出しないといけないのよ。本社の人たちが待ってて」
「あー、それ、センパイがやっておいてくださーい」
きた。とうとう丸投げ。
店長からは、なるべく袴田さんを怒らせるなと言われている。社長に告げ口されて、店舗の覚えが悪くなるといけないからだ。
けど、今日はさすがに見逃せない、気がする。
「ねえ袴田さん、引き受けた仕事は最後までやろうよ。私も手伝うから……っ」
思わず言葉が途切れたのは、いきなり強い力で手首を掴まれたからだ。
「い、いたいよ、袴田さんっ……」
音を上げる私の手を捻りあげながら、袴田さんが威嚇するように睨みつけてくる。
「みりあが誰だかわかってます、センパイ? これ以上しつこくするならパワハラされたって社長に言いますよ? うちのショップは全国展開なんだから、遠方の支店に飛ばされても知りませんからね」
「パワハラって……」
これ、どっちがパワハラしてる側なんだろう。脅されてるのは私じゃないの?
もう泣きたい。泣いていいですか。
心が折れる音が聞こえそうになったとき。
私の足もとの床が、急に光り始めた。
(え……なに、この光?)
私の腕を掴んでいる袴田さんも、異変に気付いて顔をこわばらせる。
「何なのよ、これ!?」
袴田さんが叫ぶと同時に、体がフワリと宙に浮いた。
そして。
・
・
・
なに。目の前に広がる、この光景は。
これ、現実なの?
「せ……成功だ! 召喚が成功した!」
「聖女様の降臨だ!!」
「これで我々は助かるぞ!!」
沸きあがる歓声。
冷たい大理石の床に茫然とへたりこんでいる私の周囲を、遠巻きに大勢の人(ほとんどが中年男性)が取り囲んでいる。
しかもみなさん、なんだか変な格好してますけど。
白いトーガみたいな服に長い杖を持って……え、コスプレ? ギリシャとかローマ時代の。
しかも外国人ばっかり。何のイベントですか?
「召喚? 聖女? 何それ……」
思わず呟く私のすぐ隣で、
「いったあーい! ていうか、どこよ、ここ!?」
キレぎみの喚き声が聞こえた。
袴田さんが腰を摩りながら盛大に顔をしかめている。
そう。さっきまで私は、この後輩社員と一緒に、銀座の商業施設のエレベーターホールに居たはず。
なのに、どうして今、こんなだだっ広くて薄暗い神殿みたいな空間で尻餅をついてるんだろう?
ドーム型の高い天井。支える柱には、竜みたいな生き物や、翼の生えた女性像が刻まれている。
白い床には、私と袴田さんを中心に据えるように円が描かれていた。
不思議な服装のおじさんたちは、円陣の外側で歓声を上げたり、感動のあまりむせび泣くような仕草をしている。何をそんなに興奮してらっしゃるんでしょうか。
状況が把握できずにいる私達の前に、ギャラリーの中から、白く長い髭をたくわえた老人が進み出た。
目の前まで来ると、恭しく膝を折る。
「アスダール王国へようこそ、聖女様」
ひとまずは、明らかに西洋人の顔立ちのお爺さんの言葉が理解できることにホッとする。
けど――問題はそこじゃない。
このヒト、今なんておっしゃいました?
「は? 何言ってんの、おっさん」
ゆるふわな可愛い外見にそぐわない舌打ちとともに、袴田さんが喧嘩腰で問う。
やや面食らったように眉を上げ、髭の老人はますます頭を低くした。
「驚かれるのも無理はございません。聖女様には天を渡り、はるばる我々のもとへ来ていただいたのですから。私は神官長ヘルムート。聖女様、召喚の儀にお応えいただき、誠に有難うございます」
「召喚の儀?」
今度は私と袴田さん、二人の声が揃った。
「さようでございます。我々をお救いください、聖女様。アスダールはもう長いこと、邪悪な竜の呪いの下で苦しんでおります。かの者に対抗できるのは、天よりまいられし聖女様の祈りだけなのです」
邪悪な竜? 呪い?
アスダール王国って聞いたこともない国だし、召喚の儀、って……?
円陣を囲む人々の笑顔に、ぞっと鳥肌が立った。
みんな、何を期待しているの。気味が悪い。
「ばかばかしい! 帰る! ねえ、みりあのバッグどこ? あれ高かったんだから、汚れてたら弁償してもらうからね!」
袴田さんが勢いよく立ち上がった。
「袴田さん、いまそういう場合じゃ……」
「あー、イヤリングも片方ないじゃない! ちょっと、どうしてくれるのよ!」
「そんなもの、これからいくらでも与えてやる」
袴田さんの文句に被って、声がした。
神官長の後ろに若い男性が立つ。
三十歳前後かな? 背の高い、金髪の美青年だ。
西洋の王族が着るみたいな軍服風のデザインの衣装に白いマント。頭部にも王冠みたいなものが載っている。
漫画かアニメの王子様のコスプレですか? と尋ねたくなりそうな出で立ちだけど、非現実感の割にコスプレ風味は全くない。彼が身に着けた服の生地にはずっしりとした重量感と上質な艶があり、宝飾品は本格的な輝きを放っているからだ。
袴田さんに向かって、青年が甘く微笑みかけた。
「私はアスダール国王ラスティン。そなた、名前は?」
王子様どころか王様だった!?
「みりあ、です……袴田みりあ」
さっきまでの剣幕はどこへやら、袴田さんがうっとりと答える。
「ハカマ……難しい名前だな」
「みりあって呼んでください」
「ではミリア、よくぞ我がアスダールへ舞い降りてくれた。まずは美しいそなたを、いっそう美しく飾らせてもらうところから始めるとしよう。人々が聖女と崇め、ひれ伏す存在に相応しい装いをしてもらわねば」
「はい……!」
「それから」
ラスティン国王が、ようやく私を見る。
ただし明らかに「つまらないもの」を見る目で。
「そこの、みすぼらしい女。お前は何者だ?」