第一章「イオとシム」
西暦26XX年。
人類が間違いを犯してから600年余りが過ぎ、この世界には人間と呼ばれる生物は居なくなった。
俺を除いて…。
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「ふあぁ~」
大きな欠伸をして、力いっぱいに上半身を起こす。
ひゅうと吹く風が全身に伝わり、目を覚ますにはちょうど良かった。
埃っぽいベッドから降りて、そのまま洗面台へと歩き鏡を見る。
割れた鏡に映るのは、当然だが自分の顔。
寝癖のついた黒髪は手入れ不足のせいか少しだけボサついていて、寝起きの表情はなんだかやる気が感じられず、頬に刻まれた呪いの文字は未だに健在で元気に育っていた。
眠気を覚ますためにパンッと両頬を叩いて、顔を洗って服を着る。
立て付けの悪い玄関の扉を開けて外に出れば、そこには何百年も前に滅んだ街の風景が拡がっていた。
少なくとも、俺の目にはそう見えている。
「わあああ!!遅刻しちゃううう!!」
歩き始めてすぐ、前方から学校の制服を着た何かが走ってきた。
トカゲと人間を合成させたような見た目のそれは、パタパタと靴の音を鳴らして俺の横を通り過ぎたそれは曲がり角を勢いよく曲がっていく。
それが通り過ぎた瞬間、鼻の周りには異臭が漂い、俺は表情を歪ませながら首に巻き付けていた布で口を覆う。
「[おいおい。失礼じゃねーか、今の]」
「!」
唇が勝手に動き、口から言葉が勝手に出てくる。
その声を聞いて俺は足を止めて、"はぁ"と溜め息を吐いた。
「…勝手に喋るな。ビックリするだろ」
「[何だよ、いいじゃねーか別に。それよりも、さっきの女が通過してった時。いくら臭かったからってその反応はどうよ]」
「女…?お前あれが女に見えたのか?」
「[おお。なかなか旨そうな女だったぜ]」
「…それはまずいことをしたな」
勝手に動く口に反応して、声を出す。
傍目から見たら独り言を言っているただの変な奴だが、これは独り言ではなく、俺は俺の中から発せられている声に答えているだけだ。
俺の中から出てくる声は俺の唇を支配して好き勝手に喋り出す。
寝てる時だって、近くに誰かが居たとしてもお構い無しだ。
勘弁してもらいたい。
「[…で、お前今何処行こうとしてんの?]」
「とりあえず、まずはこの街のランドマークに。それからは気まぐれに、散歩かな」
うーん、と悩んで答える。
街に到着してから最初にやる事は決まっている。
街のシンボルであるランドマークを見つけて、それからはそこを軸にぐるぐると散歩。
効率が良いやり方とは言えないけど、この方がなんとなくやり易いような気がしている。
「[ふーん。いつもと変わらんってか。つまらん奴だ]」
「つまらんくて結構だよ。もう喋んな」
言うと、唇が勝手に動かなくなった。
喋らなくなったのを確認して、俺は再び足を動かし目的地であるランドマークへ向かう。
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始まりは、5年前。
買い物をするために家から街に出てランドマークである街の中心部へとやって来た俺は、そこで突然の痛みと共に激しいめまいに苦しめられた。
めまいはすぐに回復し、再び歩きだそうとしたが、その時ふと俺の周りにある景色が変化している事に気が付く。先程まではいつもと変わらない平和な景色だった。
しかし今見えているのはゲーム等でよくある荒廃した景色。
声が勝手に口から出るようになったのもその時。
周りの景色がガラリと変わり、それまでそこで何気なく歩いていた人たちも何がなんだかわからない異形の姿でその場に佇んでいて、俺は頭でもおかしくなったのかと思った。
声によると、俺は人類で唯一生き残った女の子孫なんだとか。
600年程遠い昔、人類はとある実験に失敗し、そのせいで人間はおろか数多の動物や生き物のほとんどが死滅。
地球はとてつもない速さで破壊され、残ったのは、空全体を覆う大量の毒素のみとなった。
空を覆った毒素は次第に降下していき、大地に降り立ち、生い茂った草花をも枯れされていく。
その光景を地下深くのシェルターで見ていたのが、俺の先祖と言われた女。
偶然なのか、名前は俺と同じ"イオ"というらしい。
イオは滅んだ世界を間近で眺め、何を思ったのだろう。
その後、イオは世界を蘇生させていくべく奮闘した。
どうすれば自分は生きられるのかを先に考え、それから世界の事について色々。
だが、ここで予想だにしない事が起きた。
異形の姿をした生物の存在。
今、俺の周りを歩いている者の存在だった。
異形の姿をしたそれは、女に危害を加える事もなく近付いても逃げる事もない。
ただその場に佇んでいて、唸り声を上げているだけ。
イオは次に、異形の姿をしたそれを観察した。
大地を覆った毒素を封じる仮面を被り、イオは異形を観察する。
異形はかつて人類がしていたような生活をし、命を育くみ、世界に生を与えていた。
すると、1人の異形がイオに近付き言った。
「君は見かけない顔をしているな。よく見ると、姿も何か妙だ。よかったら、私に君の事について教えてくれないか」
イオは断らなかった。
断る理由がないから。イオの中で既に異形は安全な存在だと確定していたから。
その後、イオとその異形は互いの理解と存在を深く認識し、ゆっくりではあるが距離を縮めていく。
自分とは違う生き方。
自分とは違う思考。
自分とは様々な事が違うという事にイオと異形は凄く興味を示した。
いつしか、イオと異形は互いを愛するようになった。
それから数年が経ち、イオと異形の間には子が生まれた。
その子もやがて異形と愛を育み、また子を生む。
こうして人間の生き残りと異形は繁栄を繰り返し、そして俺が生まれた。
…で、現在に至る。
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「………、!」
声が何も話し掛けてこないのは、なかなかに快適だ。
これからもずっとこうならありがたいのだけど。
街のランドマーク、中心街へと続く分かれ道に差し掛かる。
何事もないならば、普通に、ただ通り過ぎるだけでいい。
だけどしかし、今回はそう簡単にはいかなかった。
「………シム」
「[ああ。いやがるな。…前方に2、いや…3か]」
声…シムの名前を呼ぶ。
シムは、俺の唇と目線を動かして離れた距離に居る異形の姿を確認した。
「[弱点を教える。一撃で仕留めろ]」
「わかってる」
掌に刻まれた印に爪を食い込ませ、そこから刀を取り出す。
印に反応して出てきた刀は赤黒く染まっていた。
前方から歩いてくる異形の肩は青く光っていた。