第8章 修羅生死時代の僕
ソロライブをやることが決まり、僕はこの間に、失った友のために作った曲、「祈り」のCD-Rを作った。
録音とアレンジだけは、その時のギターの人に頼んだ。
僕は「祈り」のデモテープをバイト先で知り合ったミュージシャンたちに聴いてもらい、アドバイスをもらって、自分なりにアレンジしたが、でも、納得がいかなかった。
そのためにギターの人にアレンジしてもらったのだが、僕のイメージとはかなり違う曲になっていた(スペインの民謡みたいな感じ)
だが、時間がないため、仕方なく、このメロディーで歌う事にした。
そして病気の会の日が来た。
僕はプログラムを作っている人に、「名前は修羅生死でお願いします」と頼んだ。
この時は気づかなかったし、回りも何も言わなかったが、病院では死という言葉はタブーである。
だが、常識のない僕はその時は分からなかった。
「祈り」のCDも配布、販売した。(患者には無料で配る予定だったが、中には感動したからという事で、払ってくれる人もそれなりにいた)
僕は病院にいく前に、メイクをして病院に行った。
そしてソロライブを30分くらいやらせていただいた(即興だった事もあり、かなりミスをしてしまったが)
僕はその時のバンドを脱退し、新たなメンバーを探した。
だが、僕の光り輝いた時代もすぐに終わる。
狭窄がひどくなり、僕は3回目の手術も近いと思えた。
そしてこんな状況では格闘技をやり続けるのは無理だ。
僕は引退前に、弟がどれだけ強くなったか知りたくて、家でルール無しの喧嘩試合を行った。
結局僕は彼に負けた。
また十代のとき兄貴と喧嘩や組み手をしても、一度も勝てなかったため(兄は関節技がうまい)僕が三兄弟で一番弱いと決定した。
試合のあと、当然体調が悪くなった。
激痛と嘔吐、さすがに救急車を呼ぼうと思ったが、何とかその日に回復した(この年にはじめて救急車に乗り、そして何度乗ったか忘れるくらい乗った)
結局、何度も自宅と病院を通い、3回目の手術をすることにした(この時、そうめんか何かを食べて詰まってしまったのだ)
退院後、僕はまた遊び人に戻り、修羅生死と云う名がふさわしい人間となっていった。
空手も「見学だけでもいいから来い」と館長に言われたが、いつの間にか僕は道場に行かなくなった。
仕事も適当にやるようになった。
さらに気づけば借金が3百万以上あった。
仕事で稼いで返すという考えはなくなり、ギャンブルでいつか返そうと考えていた。
だが、親にばれて、勘当されそうになったが、病気のこともあるということで、許してもらい、父親がすべて返済してくれた(今も僕は父への借金が返せていない)
仕事のほうも適当にやっていたため解雇された。
僕は生きる希望を失った。
当然、その時つるんでいたヤンチャ仲間と縁を切ったのだが、裏切り者扱いされ、携帯の留守電には脅しのメッセージが、また自宅前で待ち伏せされた事もある
この事を警察に相談したが、自業自得、「どこか遠い場所へ引っ越すのがいい」などといわれた。
さらに調子が悪くなり、入院をするが、自暴自棄になり、壁を殴ったり、自分の顔を殴ったりするので、医者から「こんな精神状態で長期入院は無理です」といわれ、結局入退院を繰り返す。
ただ、しばらくは狙われているため、外出禁止で通院の時も親と一緒だった。
僕は、精神的にまいっていた。
安定剤などを出してもらうが、徐々に量が増え、薬物依存症にもなる。
また、マンションの5階から下を眺めていれば、いつかは飛び降りられると思っていた。
母親も心配し、よく来てくれた。
そんな時だった。
ある一冊の本と出会ったのは……
そしてその本を読んで、僕に生きる目標を与えてくれた。