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「ごめん、小夜。先にちょっと電話するわ。電話終わってから、ちゃんと全部話すから待ってて」
さっきの電話が仕事の用件ではないことくらい、当然感づいているに決まっている。さっさと済ませろと言わんばかりににやっと笑いかけ、小夜はキッチンに消えた。
すぐに電話を折り返した。数回繰り返し着信音を鳴らしたが、彼は電話に出ない。出られる状況ではないのか、それとも、着信音を消していて気がつかないのか。もしかしたら、声を聞きたくないほど怒っているのかもしれない。一度電話を切って少し時間を置きもう一度かけてみたが、やはり彼が電話に出ることはなかった。仕方がない、また、明日の朝にでも電話をしよう。諦めて部屋着に着替え、洗面所で化粧を落としていると、小夜がパタパタと走ってきた。
「瑞稀ぃー! コンビニ行きたい」
「コンビニって、こんな時間に何買いに行くの?」
「お腹空いた! ロールケーキ食べたいの」
「さっきたくさん食べたばかりなのに、もうお腹空いたの?」
「さっきのは食事、ロールケーキはおやつ!」
「おやつってあんた……こんな時間に食べたら太るよ?」
「やだ! 食べたいもんは食べたいんだもん! 早く行こうよー」
顔を洗っている最中だというのに、服を引っ張り肘を突いてくる。
「ちょっと待ってよ、すぐ終わるから」
肌の手入れもそこそこに、小夜に引きずられ外へ出た。
「ちょっと、瑞稀? あんたどこ行くの? コンビニはそっちじゃないでしょ?」
「いいでしょ? コンビニはこっちにもあるじゃない」
「なんでわざわざ遠い方へ行かなきゃいけないのよ? いつもこっちでしょ? それに、私はこっちのコンビニのロールケーキが食べたいの!」
小夜は逆方向へ歩き出した私を捕まえ、強引にいつものコンビニの方向に引っ張って行く。そっちは危険だ。そう言いたいが、何が危険なのかと問われても、今はまだ、彼の住んでいるマンションがどこにあるかまでは言いたくないので、返答に困る。小夜は感が良いから、下手にごまかそうとしても絶対裏目に出るだろう。あれこれ思い悩んでいるうちに、いつものコンビニに着いてしまった。
小夜は、一目散にロールケーキのあるコーナーを目指して走って行く。
「あったあった! ラスト二個! 危なかったぁ!」
あとから店に入り、ロールケーキを嬉しそうに手に取る小夜に近寄って行くと、そのすぐ近くの冷蔵庫の扉を開けて、ドリンクを取り出している見覚えのある後ろ姿があった。気づいた時にはもう遅く、今更隠れる場所もない。ドリンクを取り終えた彼が振り返ってこちらを向いた瞬間、毎日通勤に片道一時間以上の時間をかけている私の努力は終わった。
「あ!」
向かい合い、無言で立ちつくす私たちに気づいたのだろう。小夜は小さな叫び声をあげると、一人足早にレジの方へ消えた。
「……亮」
気まずい、これ以上ないほど気まずい。彼は無言のまま、不思議な生き物でも見るような目つきで、上から下までゆっくりと舐めるように私を見ている。
髪は束ねてピンで無造作に留めただけ、化粧っ気なし。服はジャージの上下でサンダルばき、手には財布を持っているだけ。わざわざこんな身なりで深夜の地下鉄に揺られ、コンビニにやってくる人間がいるなどとは、誰だって思うわけがない。
突然、彼は目を逸らし、表情を緩めて笑い出した。口元に手をやって声を押し殺し、下を向いて肩を震わせている。
立ちつくしたまま、笑いをこらえ、呼吸を整えているその様子を、ただ見ていた。
「もしかして、この近くに住んでるの?」
「……うん」
もう隠すことはできないし、二人の関係もあの日とは違う。でも、今日まで隠し避けていたことは事実で、やはり気まずい。
「こんばんは。私のこと覚えてますか? この間、バーで瑞稀と一緒だった……」
レジから戻ってきた小夜は、自然な様子で気まずい空気を打ち破った。
「青木小夜さん、でしたっけ? 覚えてますよ。青木さんもこの近くに住んでるの?」
「いいえ、遅くなっちゃったんで、今夜は瑞稀の家に泊めてもらおうと思って」
にっこりと可愛いお嫁さんスマイルを炸裂させながら、小夜が彼を観察しているのがわかる。それはそうだろう。ジャージ姿で運動靴、髪はいかにもシャワーを浴びて乾かしただけ。こんなラフなスタイルでこのコンビニに現れた彼を見て、不思議に思わないはずがない。
「女の子だけで歩くのは危ないから、送って行くよ。ちょっと待ってて、これ払ってくるから」
彼は、レジ待ちの列に並び、私は小夜に引っ張られ店の外へ出た。
「ちょっと! どういうこと? ちゃんと説明してもらいますからね」
痛い。肘を抓られた。
ロールケーキを買いに出ただけのはずだったのに、こんなことになってしまうとは。この女には、話をする時間がなかっただけだとの言いわけは絶対に通用しない。彼にも言いわけ、小夜にも言いわけ、なぜこんな目に合わなければならないのだろうか。
私を真ん中にして三人並び、元来た道を戻る。彼のマンションの前を通り過ぎ、そのまま三分ほど歩いて、私のマンションの前に着いた。彼は、私たちが立ち止まると、ここに住んでいたのか、とでも言いたげに、ゆっくりと建物を見上げた。
「せっかくだから、少し寄っていきませんか? お茶入れますから」
「いや、もう遅いから」
「いいじゃないですか。どうせ近所なんだし、ね!」
小夜は自分の部屋に友達を招待するかのように言うと、断る隙も与えずに素早くエレベーターの前へ走って行った。私たちは顔を見合わせて少し笑った。
「本当にいいの?」
「うん。迷惑じゃなければ、寄ってってください」
エレベーターの扉が開くと、小夜は真っ先に乗り込んで、七階のボタンを押した。