ー8ー
啓から一旦会社に戻れとの連絡があったので、夕方、早めにオフィスを出た。
うちのような小さな会社にとって、客先常駐での仕事は珍しくもないことだが、やはり慣れない環境で見知らぬ人の中にいるのは神経を使う。戻るのは何日ぶりだろう。長く離れていたわけでもないのに、長年暮らした実家へ帰るような気分になった。
会社に戻ると早々、小夜が私の腰に抱きついてきた。
「瑞稀ぃー! 寂しかったぁー!」
飼い犬に捨てられた子犬のような泣き顔で、私の顔を見上げている。
「おい、青木! 何やってるんだ? 抱きつくな!」
啓が呆れた顔をして、笑いながら近づいてきた。他のみんなも相変わらずバカをやっているとでも言いたげに、こちらを遠巻きに見て笑っている。
私だって寂しいし、話したいこともたくさんある。客先常駐になってからというものほぼ毎日残業で、平日は小夜と一緒に買い物や食事をする時間も取れない。その上、やはりランチだけの付き合いというわけにはいかないようで、近頃では貴重な週末も松本亮に占領されている。
今日は金曜日。明日は今のところ約束もないし、少しゆっくり話ができるだろう。
「小夜、ごめんね。社長が夕飯おごってくれるって! なんでも好きなものたのんでいいから、それで許して」
目的を達成し機嫌を直した小夜がにこにこしている。よしよしと小夜の頭を撫でながらチラッと見ると、啓は仕方なさそうに笑っていた。
「でも、夕飯の前に、やることやらなきゃね!」
仕事と聞いて、わざとらしく不貞腐れた顔をしている小夜の腕をほどき、資料を取り出して会議用テーブルに広げ、仕事を始めた。進捗報告、変更部分を含む仕様の確認、作業内容の詳細確認と作業者への指示等々、限られた時間の中で、しなければならない仕事はたくさんある。プロジェクトに関係するメンバー全員で、二時間ほど集中して、取り急ぎ必要な作業を一通り終えた。
「飯行くぞ!」
啓の号令に、そそくさと帰り支度をしてオフィスにいた七人全員で外へ出る。
「あの、僕、お先に失礼します」
「奥さんが美味しい晩御飯作って待ってるもんねぇ、そりゃ俺たちと飯食う暇はないよな」
冷やかす声にみんながドッと声を上げて笑った。そう、彼はついこの間、結婚したばかりだった。
「寂しいもの同士、今夜は飲みますよ!」
誰かが悔しそうに一言添える。
「じゃ、啓司さんと瑞稀先輩は抜きってことで」
「瑞稀、俺たちは邪魔らしい。帰るぞ!」
二人の関係をからかわれるのは、いつものこと。啓も調子を合わせて冗談を言い、私の肩に腕を回し笑っている。
「えぇ? じゃあ、誰がお財布係やるのよ?」
あははと大きな笑い声が廊下に響く。今日は総勢六人で夕食会だ。新婚さんを見送り、わいわい賑やかに冗談を交わしながら少し歩き、いつもの居酒屋へ入った。
奥の座敷へ上がり、それぞれ勝手に好きな場所へ座る。私と啓はいつも隣同士、小夜は必ず入り口近くの動きやすい場所に陣取る。外出の多い社長以外は、スーツを着る必然性もないため、みんな、服装はカジュアル。最年長の啓でも三十歳、小夜が二十六歳で、あとはすべて二十五歳以下と若く、男女もほぼ半々。こうして居酒屋でくつろぎ、ガヤガヤと好き勝手に飲み食いしている様子は、学生の集まりとほとんど変わりはない。
席に着き、すぐにネクタイを鬱陶しそうに緩める啓の様子を横目で見ながら、無意識にスキンヘッドの彼の店での松本亮の姿を思い出していた。
スタイルの良い長身の彼には、チャコールグレーの細身のスーツがよく似合っていた。大きな切れ長の目、まっすぐ整った眉、通った鼻筋、少し薄い唇。顎のラインは少しシャープで、バランスのとれた綺麗な顔立ち。髪は、サイドを短く刈り込んでトップは少し長め、おでこを出して少し硬めの雰囲気にセットしている。そして、ネクタイを緩める少し骨ばった大きな手、細くて長い指。
「おい、ちゃんと食ってるか?」
「ん?」
啓が、ポンと私の背中を叩き、顔を覗き込んだ。
「全然食ってないだろ? 大丈夫か?」
「うん。大丈夫」
「やっぱりきついか?」
「うん、まあ、仕事自体はどうってことないんだけど。やっぱり環境がね……あの会社のオフィスってさ、お洒落なんだけどオープンスタイルだからなんか落ち着かなくって。その上、ヘッドフォンがダメなんだよね……」
「えぇ? そーなんですか? それきっつーい!」
「それじゃ集中できないじゃないですかぁ! やだぁーそういう会社、ストレス溜まりそう」
みんなが一斉に声を上げる。
「人様の会社で仕事するってそういうことだからね。仕方ないよ」
ため息交じりに笑った。
「食うだけ食ったらさっさと帰って休めよ。送って行くから」
きっと自分で思っている以上に疲れた顔をしているのだろう。啓はすごく心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「うん」
膝立ちで身を乗り出し、少し離れたところにある私の好物を大皿ごと取って手元に置き、あれもこれもと次々私の皿に盛っていく。取り分けてくれた料理を一口ずつ口に運びながら、時に同僚の話を耳に傾け口を挟み、大きな声で笑う。そして、テーブルの空いた皿を片付けたり、お酒や料理の追加注文をしたりと忙しく動き回る小夜を眺める。いつものメンバー、いつもの光景、この輪の中にいるのは楽しくて、心が落ち着く。
「瑞稀、そろそろ帰るか?」
啓が私の肩に手を置き、壁に寄りかかっていた体を起こした。
「えー? 啓司さん、もう帰っちゃうんですかぁ? まだ来たばっかりなのに」
全員が口々に不満を表明している。
「明日、朝早いんだ。瑞稀も疲れてるみたいだから、送って行くわ」
「瑞稀先輩も、久しぶりなんですからもう少しいてくださいよ」
「久しぶりだからこそ、二人っきりになりたいんじゃないの?」
「ははは! それもそーですねー!」
「社長! いろんな意味で、ご馳走様です」
全員が大声で笑った。
「なーにがいろんな意味でだ。わかってるよ、財布は預けていくから、それでいいだろ?」
「待って! 瑞稀が帰るんだったら、私も一緒に帰る!」
小夜が自分の荷物を持って立ち上がった。帰る先は、どうせ私の部屋だ。私たち三人はみんなに別れを告げ、店を後にした。
月日が経つのは早い。この間まで夏だと思っていたのに、もう夜風が少し冷たく感じられる季節になった。街灯に照らし出された街路樹の葉も、もう夏の濃緑とはほど遠く、茶色がかってきている。
小夜が私の腕を組み、二人並んで歩くそのすぐ後ろを、啓がゆっくりと歩く。早口で喋る小夜の話に相槌を打ちながら、肩にかけているバッグの中の携帯が震えていることに気づいた。
「ごめん、電話」
携帯を取り出すと、すでに電話は切れていて、不在着信が数件画面に表示されている。彼からだった。折り返し電話をかけようにも、小夜と啓の前ではきまりが悪い。でも、放置するわけにもいかないので、仕方なくちょっと電話をするからと言って、二人から少し離れた。
「もしもし」
数回の呼び出し音の後、彼の声が聞こえた。
「すみません。お電話いただいたのに気がつかなくて」
「……うん」
「あの、今、ちょっとお話しできる状況ではないので、後ほど折り返してもよろしいでしょうか」
「……わかった」
電話を切られた。冷たく低い声。何度もくれた電話に出なかったこととこの言葉遣いに、きっと怒っているのだ。あとで謝ってご機嫌を取らなければならないが、この週末は小夜と過ごすのでまったく会えないと話したら、さらに機嫌が悪くなるに違いない。男女の付き合いというのは、まったくもって面倒くさい。
「誰と電話?」
振り向くと、小夜がすぐ後ろにいた。びっくりした。足音もなく近づいてくるのは、いい加減やめて欲しい。
「あ……仕事の電話。別に急ぎじゃないみたいだから大丈夫」
ごまかし笑いをしながら、小夜の腕に手を回した。
小夜が一緒の時は、たとえ夜遅い時間でもさっさと一人で帰ってしまう啓が、どうしたわけか今日は送ると言う。
表通りに出たところでタクシーを拾い、そのまま三人で乗り込んだ。タクシーの中でも、小夜は真ん中に座り、私に腕を絡めたまま機嫌よく一人で喋っている。小夜の向こう側に座る啓は、終始無言で窓の外を流れる景色を眺めていた。
マンションの前でタクシーを止め、私たち二人が降りた。引き止めてはみたものの、啓はもう遅いからと、私たちを送り届けただけでタクシーから降りもせずに、あっさりと帰ってしまった。
本当は何か話したいことがあったのではないだろうか。走り去るタクシーを見送りながら、そんな気がしてならなかった。