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開始当初は、どんなプロジェクトもだいたい順調に進むものだ。外出や会議、仕事量の多さには少々閉口するが、とりあえず今のところ、ほぼ問題も起きていない。周囲との連携も良く、この調子で進んでくれと祈るばかりだ。
ただ、人間関係は、あまり順調でなさそう。できあがったコミュニティの中に突然外部の人間が入るのだから、多少不快なことがあるのは、当然のこと。揉め事さえ起きなければ良しと思うしかない。ただ、オフィス内、特に限られた狭いエリアでの女性同士の関係にはやはり神経を使う。
松本亮。こいつが原因だ。
「河原さん、ちょっといいかな?」
デスクの横に立ち、あたかも何か用事がある風で、私の肩を叩いた。
「何でしょうか?」
顔を上げ、無表情で顔を見た。もう昼だ、どうせランチの誘いだろう。
「相談したいことがあるんだけど、ちょうど昼だから、飯食いながらどう? 時間取らせて申し訳ない」
申し訳なさそうな表情を装い返事を待っている。役者のつもりだろうが、そんなの女の子たちには通用しませんよと言いたい。
「わかりました。この作業終わってからでよろしいですか? あと五分ほどですけど」
「いいよ。じゃ、下で待ってる」
「すみません」
何食わぬ顔でモニタに目を移し、作業を再開した。案の定、女性二人の視線が刺さる。若い男の子でも不穏な空気は感じるのだろう。下を向いて黙々と何かを書いている佐藤くんが、初々しくて可愛い。
仕事の区切りをつけてロビーへ降りると、彼がソファに座って資料を捲りながら待っていた。
「お待たせして申し訳ありません」
私の顔を見るなり資料をカバンにしまって立ち上がり、足早に前を歩いていく。オフィスビルを出て少し離れたところで、その歩調が遅くなった。周囲の目と私の歩く速度を気にしているのか。そういえば、あの日の朝も、私の歩調を気遣いながら歩いていたっけ。
店選びは、常に彼の独断。できるだけ知り合いに会わないで済むようにしているのだろうと察しはつく。しかし、何が食べたいか、どんな店に行きたいかと、事前に相談されたことは、これまで一度もない。
矛盾している。
何となくおかしさを感じ、彼の背中に向かってつい笑ってしまった。
そのまままた暫く歩き、今日はオフィスから少し離れたイタリアンレストランに入った。
二人のランチタイムは、風変わりと言っていい。選ぶのはたいてい窓際の席。料理はすべて、私の好みとは無関係に注文される。彼が注文している間、一度、こっそりとメニューを眺めてみたが、なるほど、これでは会社の人たちに会うはずはないと、納得するお値段だった。
料理を待つ間は、無言でぼーっと外の景色を眺め、料理が来れば静かに食事をする。話題の中心は、私の嗜好の偏りや食事量の少なさ、つまりはお説教、仕事の話は一切しない。そして、さも当たり前のように慣れた手つきで、私の唇の端に着いた汚れをナプキンで拭く。食後はコーヒーを飲みながら、各自、携帯でメールをチェックしたり、資料を見たり。私に至っては、暇に任せて読書をすることすらある。そして、時折、思い出したようにお互いの様子に目をやるのだ。
こうして、私たちはランチタイムを一緒に過ごす。特に何か話をするわけでもなければ、何かされるわけでもない。賭けの話もあれっきり、まるで何もなかったかのようだ。
彼の細かさと口煩さには閉口させられるが、当初感じていた緊張や居心地の悪さは、回を重ねるうちにどこかへ消えて、寛いでいる自分に驚く。ただ慣れてしまっただけなのかもしれないが、これが彼の言う『付き合う』なのだとすれば、悪くはないとも思う。
「今日は戻っていいよ」
「え? 打ち合わせじゃないんですか?」
昼食後、そのまま客先に出向く彼と同行するはずが、なぜか突然戻れと言う。
「客先で酒井と合流するから。あいつとはなるべく関わらない方がいい」
エンジニアの酒井さんは、何かにつけて女を目の敵にする昭和の男。背は低く小太りで、モテないオヤジを絵に描いたようなタイプだ。当然、オフィス内の女の子たちからも嫌われていて、白石さんに言わせると、彼は木村さんの『天敵』らしい。
私もこれまで数回、酒井さんと客先へ同行したが、打ち合わせ終了後、「これだから女は……」「女のくせに……」と吐き捨てられたことがある。特に話をしたわけでもないし、もちろん、そんなことは期待もしていなかったのだが、彼もそれを知っていて、なるべく同行を避けるように予定を組んでいる。
「わかりました」
「一人で戻れる?」
「え?」
まるで幼い子供が迷子にならないか心配している父親のような顔をしている。そういえば、私はこの人の年齢を知らない。名前と住んでいるあの部屋と仕事以外、この人のことを何も知らないのだ。同様に、この人もまだ私のことを何一つ知らないのだと思うと、何だかとても不思議な気がする。
そんなことをぼーっと考えていると不安げに見えたのか、彼はさらに心配そうな顔になった。
「大丈夫です。ちゃんと一人で戻れます」
「ここを真っ直ぐ行って、角を左に曲がって大通りに出たら、迷わずに戻れる。もし、何かあったらすぐに連絡しなさい」
この人は、やはり父親だ。面白くて思わず口元が緩んだ。
「ごちそうさまでした。失礼します。松本さんもお気をつけて」
頭を下げ体の向きを変えようとしたところで、腕を掴まれた。
「君は、いつまで俺を松本さんって呼ぶつもりなの? それと、敬語もやめなさい」
眉間に皺を寄せ目を細めて睨まれた。これは演技だ。でも、命令されるのはちょっとカチンとくる。
「その偉そうな喋り方もどうにかなればいいのに!」
ムッとした顔を作ってそう言いながら掴まれた腕を振り払うと、そのままオフィスの方向へ歩き出し、背中でバイバイと手を振った。
偉そうで口煩いのと世話焼きは同義語か。オフィスへ戻る道すがら、あの心配顔と怒った振りを何度も思い出し、その度に一人でにやにやと笑っていた。
オフィスに戻ると、木村さんと白石さんがポットのお茶を飲みながら、何か話をしていた。私に気づくと、二人とも横目でチラチラこちらを見て、コソコソと何か耳打ちしている。佐藤くんはまだ戻ってきていない。
椅子に座り、資料を眺めながら午後の仕事の段取りを考えていると、白石さんが椅子から立ち上がり、女の子特有の甘ったるい声で話しかけてきた。
「河原さんって、松本さんと親しいんですかぁ?」
「別に」
松本亮は彼女たち女子社員の憧れの的、あわよくばと狙っている子も多いだろう。そんな中、ほぼ毎日、彼とランチタイムに消える私を、いつまでも見過ごしているはずはないのだ。遅かれ早かれいずれは聞かれるだろうと思っていたが、ついにその時が来た。ほくそ笑みながら資料から目を離さず、素っ気ない返事をした。
「でも、いつも松本さんとランチしてるみたいだから、親しいのかな?って思って」
好奇心むき出しの顔をして、二人が私を凝視している。
「時間の節約。打ち合わせのついでですよ」
「個人的な話とかはしないんですかぁ?」
「どうして? 友達でもないのに、仕事の他に、何か話すことなんてあります?」
「えー? でも、仕事でだってしょっちゅう話してたら、親しくなるのって普通じゃないですかぁ?」
顔に不満の二文字がはっきりと浮かんでいるのを見て、ちょっといたずら心が湧いて、にっこりと微笑み質問してみた。
「そうかな? じゃあ、白石さんは親しくなりたいんだ?」
「ええーっ? そんな、違いますぅ」
顔を赤くして力一杯両手を振って否定している姿が可愛い。
「白石さん、聞いても無駄よ。松本さんがこの人と親しくなるわけないじゃない」
木村さんが脇から口を挟んだ。
「木村さん!」
「だってそうでしょ? 松本さんがどんなに良い人だって……相手は選ぶわよ」
直接名指しているわけではない。だが、彼があなたなんか選ぶわけがないでしょうと言いたいのは明らかだ。見下すように冷たい笑いを浮かべた彼女の瞳に嫉妬の炎が見て取れた。
「それは、そうだけど……」
白石さんはその言葉を反射的に肯定しつつも、困惑した様子で私と木村さんの顔を交互に見ている。
「昼休みも終わりだし、仕事に戻りましょう」
これ以上この話を続ける意義はないので、話を遮った。
彼のことは、いつ爆発するかわからない時限爆弾。この状態を続けていたら、いずれどこかで爆発するだろう。万が一、二人の関係がバレたら、それこそきっと目も当てられない騒ぎになる。仕事がやり辛くなるかもしれないリスクを考えると、早めに何かしらの手を打つ必要があるだろう。彼と相談しなければ。まったく、面倒なことだ。