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仕事を終え、夕食は客先の人と食べるからと小夜に電話をして、オフィスにほど近い指定された店へ出向いた。
店内に足を踏み入れるとそこは、小洒落た東南アジア風居酒屋とでもいうのだろうか、仄暗い店内のいたる所に風変わりな調度品が飾られ、柔らかい光を放つぼんぼりのようなシーリングライトと間接照明が、ぼんやりとそれらを照らしている、異空間に迷いこんだような店だった。
松本亮はまだ来ていない。予約の名前を告げ、案内された半個室のテーブル席に着いた。窓の外には街灯に照らされた街路樹と足早に行き交う人の姿がある。
私たちの関係は、あの日一日限りのもの。
あの男が何を考えているのかはわからないが、自分の考えははっきりしているので、それだけはきちんと伝える必要がある。ただ、仕事上の付き合いも考慮しなければならない。やはりここは慎重に言葉を選ばなければならないだろう。
これからの憂鬱な会話を想像しながら、ライトに照らされキラキラと輝く水のグラスを両手で玩び、男を待った。
二十分ほど待ったところで、彼が来た。走って来たのだろうか、少し肩で息をしている。
「待たせたね、帰りがけに上司に呼び止められてしまって抜けられなかった」
カバンを放り出して腰を下ろすと同時に、ネクタイを緩めた。
「あの……」
「お腹空いてるでしょう? 先に注文しよう」
私にメニューを手渡し、テーブルの上のベルを鳴らして店員を呼ぶ彼の流れるような動作に、口を挟む隙がない。仕方なくメニューを眺める振りをした。
「よぉ! 亮! 久しぶり!」
白いシャツに黒いカフェエプロンを着けたスキンヘッドの男が笑っている。知り合いなのか、よく来る店なのだろうかと思いながらスキンヘッドの彼の顔を眺めていた。
「相変わらず毎日残業続きだよ。おまえはどう?」
「俺? 店はあるし、仕事は入って来るしで、遊ぶ暇もねーよ。俺のことはどうでもいいけど、おまえ、女連れなんて初めてじゃん? だれ? 彼女?」
「そうだよ、俺の彼女」
彼女じゃありません。そう否定しようと口を開いた矢先に、彼の声がした。びっくりして向き直ると、私を見ている笑顔の彼と目があい、反射的に目を逸らした。
「へへ、おまえもついに……。ねえ彼女さん、名前なんていうの?」
帰りたい、と、思った。ニヤニヤと笑いながら顔を覗き込んでいるスキンヘッドの彼の視線が痛い。
「……河原……瑞稀です」
「……へぇ、瑞稀ちゃんかぁ! 可愛い名前だね。何食べたい? 飲み物は? 嫌いなものある? 遠慮せずにどんどん言ってね」
やけにテンションの高い人だ。この歳になってちゃん付けで呼ばれるのは、恥ずかしいからやめて欲しい。
「とりあえず今日のおすすめ三、四品見繕って持って来て。あとは成り行きで。飲み物はいつものやつ。瑞稀、焼酎は大丈夫?」
こいつと私は、いつのまに名前を呼び捨てられる関係になったのだろう。
「お任せします」
「じゃあ、それで」
「了解! 瑞稀ちゃん、すぐ来るから待っててね!」
早口でまくしたて踵を返すスキンヘッドの後ろ姿を、呆然と見送った。
「あいつは、大学の同期で、関根学。ああ見えて、本業はセキュリティエンジニアだから」
「そうなんですか。じゃあ、このお店は?」
「ここは、あいつの店。面白いでしょう? 二年くらい前だったか、仕事のし過ぎで体壊して休職して転業って、この業界にはよくある話」
「はい」
この人に見つめられると緊張で息がつまりそうだ。このままではまずい、どうにかしなければと思いながら下を向き、言葉を探していた。
「大丈夫、心配しないで。ここはわりと会社に近いけど、夜しか営業していないし、目立たない店だから会社の連中は来ない」
「はい」
それも確かに心配ではあるが、今一番重要なのはどうやって話を切り出すかだ。意を決して言葉を発しようとした時、スキンヘッドの関根さんが戻って来て、お酒と料理を次々とテーブルに並べだした。
「瑞稀ちゃん、これはお近づきの印ね。俺のおごりだから、遠慮しないでたくさん食べて!」
手際良く並べらていく皿数に目を見張った。こんなにたくさんの料理は、三、四人でも食べきれないだろう。話を終わらせたらさっさと帰る予定だったのに、これは完全に予想外だ。
「ありがとうございます。いただきます」
満面の笑みで無遠慮に私の顔を覗き込んでいる関根さんに笑みを返した。
関根さんが突然、不思議そうな顔をして私をじっと見つめた。
「ところでさ、さっきから気になってたんだけど、それ、どうやんの?」
「え?」
「その痣だよ、うまいよね?! まるで本物みたい。どうやって描くの? もっと派手なのできる? いやさあ、そういうのやって店に出たら面白そうだなって」
小夜以外、毎日顔を合わせている同僚ですら気付かないというのに、こんなに薄暗い場所で気付かれてしまうとは。この人の観察力は鋭い。
「これは、あの、痣は、難しくはないです……」
言葉に詰まる。
「簡単? じゃあさ、次来た時にでも教えてよ」
返答に困っているその横で、プッと吹き出すような笑い声がした。
「おまえさ、もう引っ込んでいいから。邪魔するなよ」
「ケチだなおまえ! いいじゃん、ちょっとくらい話しさせてくれたって」
関根さんは、笑っている彼を横目で睨みつけ、私にはもう一度にっこりとくしゃくしゃの笑顔を見せ、じゃあねと言って逃げるように出て行った。
「悪いな、あいつ、騒がしくて」
「いえ」
「食べながら話そうか」
「はい」
彼は微笑みながら焼酎のグラスに口をつけた。
「まさか、君と一緒に仕事をすることになるとは……こんな偶然があるとは、思ってもみなかったよ」
そう言いながら、テーブルに並べられた大皿から料理を小皿に取り分け、「食べなさい」と、私の前に差し出さす。偉そうで至れり尽くせりな態度は、あの朝と同じだ。
「私も、思ってもみませんでした」
「それで、君はどうして電話に出なかったの?」
「どうしてって……それは……」
「もしかして君は、俺とこういう関係になったこと、後悔してるの? だから連絡を取りたくなかった?」
こういうも何も、たった一晩、たった一度寝ただけの関係ではないか。
あえて関係があるとすれば、私とこの人の間にあるのは仕事。偶然とはいえ、これから数ヶ月間は、この人の下で働かなければならないのだから、このままではやはり問題がある。この機会にきちんと話をつけて割り切らなければ、仕事もし難いし、何より会社や啓に迷惑をかけることになる。
「こういう関係って……お互い大人ですし、松本さんが気にされなければ、私は別に……」
「ちょっと、君、何言ってるの?」
彼は、意味がわからないといった風に首を少し傾げて眉間に皺を寄せた。
「ですから、大人同士のことですので、お互いに割り切って忘れてしまえば、それで問題はないのではないかと申し上げているのですが」
正面から彼を見据えた。これで話が終わる、そう思った時、目の前の顔がほころびクックッと笑いだした。
「君さ、やっぱり覚えてないんだね」
「何のお話でしょうか」
この笑い方。やはりムカつく男だ。人を小馬鹿にしたような態度に反感を覚えた。
「朝起きた時の君の態度を見て、そうじゃないかなと思ったんだが、やっぱり覚えてないんだね、俺たちがこういう関係になった経緯」
「経緯?」
「そう経緯。あの日のこと、本当に何も覚えてないんだね? どこから記憶がないの? まさか、はじめから?」
「……すみません」
酔って記憶をなくすなど、先にも後にもあの日が初めてだった。今ここで覚えてると嘘をついても、ちょっと突っ込まれたらそれで終わりだから、正直に認めるしかない。自分のしでかしたことが恥ずかしくて、顔を赤らめ俯いた。
少しの間の後、彼は笑うのをやめふっと小さなため息をつき、言葉を続けた。
「あの日から、俺たちは付き合ってるの。忘れたの? あのバーでした約束」
「え?」
「それも覚えてないんだ? 君は、俺が泥酔状態の君を連れ込んで襲ったとでも思ったの? もっとも、あの夜の君は、到底泥酔状態には見えなかったけどね」
バーで飲んだら知らない男がいつのまにか彼氏になっていた。晴天の霹靂とはまさにこういうことを言うのであろう。あの日のことは、まったく記憶にないし、遊ばれたと思ったのも事実だ。しかし、それを今、面と向かって口にするのは恥ずかし過ぎる。上から下まで舐めるように私を眺め、にやにやとイヤラシイ目をして笑っている男を睨みながら、あの日の失態を後悔し、自分を呪うしかなかった。
「俺は、本気じゃなかったら、あんなことしないよ」
彼がテーブルに肘をつき、組んだ手の甲に顎を乗せ体を少し前に傾けて、そっと囁いた。
恥ずかしい。瞬時に顔が火照った。どうしよう、もうお酒の上でのことだからなかったことになどという表面的な言葉で言い逃れはできない。狼狽している自分の表情を読み取られないように、慌てて顔を伏せた。
彼は窓の外へ視線を移し、何かを考えている。そして、大きく息を吐き、静かに話し始めた。
「わかった。君が何も覚えていないのなら仕方がない。俺たちの関係、仕切り直そう。ただ、君の考えがどうかは別として、俺は終わらせるつもりはないから、これからも付き合いは続ける。そこで、提案なのだが……」
そこまで言うと、一瞬、言葉を止めた。息を飲み、まじまじと彼を見つめ次の言葉を待った。
「俺たち、賭けをしよう」
「賭け?」
この男は何を言いたいのだろうか。意味がわからなかった。