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あの夜の秘密 ー1ー

番外編。瑞稀と亮の出会いです。


 今にして思えば、それは、あの一本の電話から始まっていたのだろう。



 関根が突然、飲みに行きたいと電話をかけてきた。土曜の夜、しかももう夜の九時をとおに回っている。夕食を済ませ風呂にも入り、ソファに転がってDVDでも観ようと思っていたところだったのに、わざわざ着替えて飲みに出かけるなんて面倒だと断ろうとしたが、こいつはしつこい。おまえの家の近所に洒落たバーがあるからどうしてもそこへ行きたいと懇願され、渋々承諾した。


 そのバーは商店街の一角にある。昼間は遠方から観光客までやってくるほど賑わっている商店街だが、夜に営業している飲食店がないため、閉店後の時間帯は、帰宅を急ぐ通勤の地元民が早足で歩いているだけ。特に今夜は雨が強く人通りもほぼない。


 バーの入り口前の歩道に、ビニール傘を片手に佇む人影が見えた。降りしきる雨の中、ぼんやりと街灯に照らされた黒尽くめの姿に、一瞬、幽霊でも見たのかと驚いたが、それは確かに生身の女だった。雨の音にかき消されその声は聞こえなかったが、どうやら誰かと電話をしているらしい。


 年の頃は二十代半ばといったところだろうか。大きな目、すっきりと通った鼻筋、薄い唇、細い顎のライン。背丈は俺の肩を超える。おそらく百七十センチはあるだろう。マネキン人形と見紛う容姿のその女は、俺が横を通り過ぎる時もまったくこちらを意識することなく、何の感情もない冷淡な顔で正面を見据えていた。


 ドアを開けると、カウンターの中にいるマスターらしき人物が、こちらを一瞥した後、また顔を伏せ黙々とお酒を作っている。静かにジャズがかかる落ち着いた色調の店内には客はまばら。二つあるテーブル席の一方には中年男女のカップルらしい二人連れ、もう一方には若い女が一人、暇そうにカクテルグラスと戯れていた。彼女に背を向けるように、カウンターの一番奥の椅子に腰掛け、シングルモルトのロックをオーダーした。


 ドアの音がして、関根が来たかとそちらへ目をやると、外で見かけた女が入って来てテーブル席に座った。彼女はどうやらあの若い女の連れらしい。静かな店内だ。否応無しに彼女たちの会話が耳に入る。


「お母さん、何だって?」

「ん?」


 カウンターから出た彼が彼女たちの元へカクテルを運んでいく。


「瑞稀ちゃん、いつもの」

「ありがと。マスター」


 瑞稀。あの女の名前か。


 一瞬、会話が止まったかと思うと、すぐさまトレイに空のカクテルグラスを乗せたマスターが戻って来た。目の前で今持って行ったばかりのカクテルと同じものをまた作っている。どう見てもダブルのマティーニだ。あの女は今の一瞬でこれを煽ったのだろうか。


「で? お母さん、何だって?」

「ああ、また見合いの話。来週末に帰って見合いしろってさ。とりあえず、わかりましたって返事しといたわ」

「わかりましたって、あんた……するの? お見合い」

「まさか。そうでも言わないと、電話切らせてもらえないでしょ」

「でもさ……」

「見合いしても叱られ、しなくても叱られるの。どっちにしろ叱られるだけなんだから、適当に返事して放っとけばいいのよ」

「あんたの母親ってすごそうね」

「口だけね。あの人、どうせ自分じゃ何にもしないもの」


 何だ、見合いを強要されているのか。良い学校に行け、良い就職をしろ、そして適齢期になれば、早く結婚して孫の顔を見せろ。どこの親でも考えることは似たり寄ったりだ。


 冷淡な言葉とは裏腹に、その声は柔らかくてとても耳障りが良い。俺は無意識のうちに、雨の中で佇む姿をチラと見ただけのその女に、好奇心を掻き立てられていた。


 ポンと肩を叩かれ見上げると、ニヤニヤ笑っている関根が立っている。なぜかこいつが入ってくるのにも気づかないほど、あの二人の話に聞き入っていたらしい。


「ぼーっとしちゃって、どうしたの?」

「いや、別に。遅かったな」

「悪い悪い。タクシー捕まんなくてねー」


 隣に座った関根は、ダブルのバーボンを一気に喉に流し込んだ。この一杯でわかる。何があったのかは知らないが、こいつ、今日はとことん飲む気だ。


 彼女たちの会話は、所々関根の声にかき消される。それでも漏れ聞こえてはいたが、そのうち話題が変わったのか、声がますます小さくなってほとんど聞こえなくなった。


 仕事から女の話まで、脈絡もなく機関銃のように喋り続ける関根の話をまともにすべて聞いていたら、最後には酷い頭痛に苛まれるのはわかりきっているので、適当に相槌を打ちながら、聞きたいところだけを聞く。これは、長年の間に培われた防衛術だ。


 数杯のお代わりをして、程よく酔いが回って来た頃、丁度関根の話が途切れ、その女の声がまたはっきりと聞こえた。


「見合いと知らない男に身体売るのと違いってある?」

「まーねー。せいぜい素性が分かってるかどうかってだけよね。結婚となったら所詮、結納だ何だってお金で買われるんだもん。大差ないわ」

「娘育てて売り飛ばして、家の権威や体裁さえ保てば良いだけなんだから、好い気なもんよ」

「同感! やっぱ結婚は好きな相手とするもんだよねー」


 止める間もなくいきなり立ち上がった関根が、彼女たちの会話に割って入り、そのまま彼女たちの座るソファーに座り込んだ。


「おい、関根!」

「俺、関根学。こいつは俺の同期で松本亮って言うの。ねー、一緒に飲もうよー」


 無遠慮な関根がにっこり笑うと、もう一人の女がこちらを一瞥した後、いいわよと言う。一人カウンターに取り残された俺は、そのまま放っておくわけにもいかず、仕方なく彼女たちを挟んで反対側に腰を下ろした。


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