ー36ー
「彼女と同じものを」
啓がカウンターに腰をかけながら、マスターに注文した。
「遅かったのね」
「ああ、例の取引先。社長と飯食ってた。おまえは?」
「小夜たちとご飯食べてた」
「そうか」
啓の目の前に、緑色に煌めくシャルトリューズヴェールのグラスとチェイサーが置かれた。彼はグラスの足に指を添え、それをじっと見つめている。私はグラスを口元へ運び、緑色の液体をほんの少し舐めるように口に含んだ。複雑に絡み合ったハーブの香りとほろ苦い甘みが口中に広がり、強いアルコールに乗って鼻腔を抜けていく。
啓と知り合って、もう七年の歳月が経つ。一緒に仕事を始めてからは、四年。毎日顔を突き合わせ、初めの頃は、他に人もおらず、毎日二人で営業に走り、何日も徹夜作業をし、常に仕事が途絶える恐怖と戦った。悔しい思いもたくさんし、追い詰められ、互いにストレスをぶつけ合い、顔を見るのも嫌になるほどの喧嘩をしたこともあった。今では会社も軌道に乗り、人も増えて安定し、以前のようなことはもうないが、二人で乗り越えたあの苦しかった日々を忘れることはない。
智史が消えた後、啓が側にいなかったら、私は今頃何をしていただろうか。あの時、啓が本当のことを私に話していたら、きっと彼との付き合いまでをも絶ってしまったであろうことは、容易に想像できる。もしそうであったら、実家へ帰り、見合いを強要され適当に結婚しすべてを諦めているか、あるいは、どこか遠く、誰も知らない場所へ消えてしまっていただろう。
過ぎてしまったことは今更何を言っても意味はない。ただ一つ確かなのは、啓がいたからこそ、今の自分があるのだということだけだ。
「私が仕事を放り出すとでも思った?」
「いや」
「だったらどうして?」
「悪かった。もうしない」
「ならいいわ」
お互い正面を向いたまま顔を見ることもなく、淡々と言葉を交わす。
私たち二人の濃密な七年間は伊達ではない。私が言いたいことは、ちゃんと伝わっているし、この人の言いわけもその理由も、やはり何も訊かなくてもわかる。
「おまえが怒るのは、やっぱりそこだよな」
「当然でしょ? 他に何があるっていうのよ」
啓がチラッと私を見て、また正面を向き、声もなく笑った。楽しい笑顔ではない。少し悲しい笑顔だ。暫くの沈黙の後、ふーっと一つ大きなため息をついて、啓がゆっくりと静かに言った。
「俺たちがどうにかなるって選択肢は、初めからなかったんだよな」
「うん」
「そうだよな。俺たちは親友だもんな」
「うん」
そう、私たちは親友。
七年前、啓と智史の二人と同時に知り合い、友人づきあいを続けるうち、私は智史の告白を受け入れ、付き合いを始めた。でも、あの頃、私を一番よく知っていて、一番近くにいたのは、実は、恋人だった智史ではなく啓なのだ。
啓は強く、優しくて、常に一歩引いたところにいて、人に寄り添い、支えてくれる。それでいて、優柔不断というわけでもなく、大事なところでは自分の信念を曲げることはない。正直で、嘘が下手で、人を楽しませるのも下手な不器用で温かい人。
冷静になれた今だからこそ、わかることがある。
啓は確かにはじめは、あの頃の人形の私を愛したのかもしれない。でも、今は、違う。親友だからこそ知っている私のすべてを、本当に愛してくれたのだ。
「送るよ」
「うん」
会計を済ませ外へ出ると、冷たい空気が少し火照った頬に心地良い。交差点を渡り、二人で肩を並べ、家までの一本道をゆっくりと歩いた。
私が以前住んで居たマンションの前を通り過ぎようとした時、啓が突然立ち止まった。思い出した。この人にはまだ私が亮と暮らし始めたことを話していなかった。
「ここじゃないのか?」
「うん。引っ越したの。このすぐ近く」
私たちはまた歩き出し、マンションの前を通り過ぎた。
「松本さんと?」
「そう。亮と暮らしてる」
「幸せなんだな」
コクリと頷き、顔を見合わせ、笑い合う。
啓の心の中にある私への愛も、いつかは友情という名の愛に変わる。この人が、自分の幸せをみつけてくれることを、私は心の中で祈った。
「本当はね、一回くらいぶん殴っとこうかと思った」
「ぐーでだろ?」
「もちろん」
あははと二人声を上げ、笑いながら歩く。亮のマンションが目の前に迫り、私は立ち止まって彼を振り返った。
「ここ?」
「うん」
ちょっと呆れた顔をした後、じゃあおやすみと甘い笑顔を見せ、背を向けようとする啓に、私は右手を差し出した。彼は一瞬、驚いた顔をしながらもすぐに笑顔に戻り、温かい大きな右手で私の手を優しく包んだ。
私は、握った彼の手をそっと離し、両手を広げ、彼の胸に飛び込んだ。
ぎゅっと抱きしめ、背中をぽんぽんと叩く、親友の抱擁。仄かに香る啓お気に入りのコロンの香りが懐かしい。
「ありがとう」
「ああ、俺も」
啓の力強い抱擁が私の心を温める。
私は体を離し、拳を作り彼の胸を叩いて、にっこりと笑みを浮かべた。
「打ち上げ、協力してね。クリスマス、どうせ暇でしょ?」
「なんだよそれ?」
「詳細は、小夜に聞いて! じゃあ、おやすみ。また明日」
手を振りながら、二、三歩後ずさった。
「ああ、おやすみ。また明日」
高く上げた手を振って、元来た道を帰って行く啓の後ろ姿を暫く見送った後、私も部屋へ帰ろうと振り返ると、そこにはジャージにダウンコートを羽織った亮が立っていた。
ただいまと言って微笑むと、彼に手を引っ張られ、抱き寄せられた。腰に腕を回し、私を包み込むように抱いている。私も同じように彼の腰に腕を回した。
「見てたの?」
「見てた」
「声かけてくれればいいのに」
「親友との逢瀬を邪魔しちゃ悪いからね」
「なにその変な言い方」
彼はちょっとムッと膨れた私の唇に、はじめはそっと、でも、少しずつ、しっとりと何度も包み込むように自らの唇を重ねた。そして、ゆっくりと唇を離し、私の顔を覗き込みながら微笑み、額をくっつけた。
「おまえは、いい女だな」
「何それ? 今頃気づいたの?」
「いや、前から知ってた」
そう言うと、また唇を塞ぐ。今度は、深いキス。優しくゆっくりと、唇を重ね、舌を絡ませた。
「薬草の味がする。何を飲んできたんだ?」
私の額に唇を押し当てながら、小さな声で訊いた。
「消化剤。さっき関根さんの店で食べ過ぎたから」
亮はクスッと笑って私の腰に回した腕に力を込めた。
「寒い。家に入ろう」
お読みくださりありがとうございます。
ラストまで後もう少し。
拙い作品で申し訳ありませんが、お付き合いどうぞよろしくお願いします。




