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ー33ー

 身支度を終え寝室から出てきた私を見て、亮は目を丸くした。


 私は、今日から封印を解く。偽らず隠さず、ありのままの自分ですべてにぶつかるために。だから、もう顔に痣も描かないし、あえて自分を閉じ込める地味な服装もしない。言いたいことを言い、やりたいようにやる。思う通りにできるなんて思ってはいない。迷い困惑し、嫌な思いもたくさんして傷つくだろう。でも、自分に正直でいようと決めたのだ。


 これこそ、本当の賭けだな、と思う。

 亮の隣、そこが私のいる場所。

 私は、自分の足で彼の隣に立ちたい。


「瑞稀、まさか、それで出社するつもり?」

「ん? 変?」


 ソファーに座ったまま、うーん、と唸って渋い顔をしている彼の膝の上に座り、首に手を回した。


「いや、別に、変ってわけじゃ……」

「よかった」

「……ちっともよくない」


 耳元でボソッと呟かれた。


「何が?」


 眉を寄せた顔には、はっきりと『不機嫌』の文字。その反応が面白くてクスクスと笑ってしまう。


「できれば、今まで通りにしててくれるとありがたいんだが……」

「何で?」

「いや……別に」


 彼は至近距離で瞳を覗き込む私から顔を背け、腰に回した手にぎゅっと力を入れ私を引き寄せた。


「何よ? 私が負けたら私の素顔を世間に公表するとか言ってたくせに、今更何を怖気づいてるの?」

「……あれは、出まかせと言うか……」

「へぇー……」


 何とも言い難い情けない顔をしている彼を見て、この人でもこんな顔をするのだと、にやっと意地悪く笑う。


「わかったよ。降参。おまえが心配だし……っていうか、俺が見せたくないんだよ!」


 嬉しい。満面の笑みで彼の唇を奪い、首に抱きついた。彼の腕が私の背に回される。


「ありがとう」

「俺のこと好きになった?」


 私の首筋に顔を埋めた亮のくぐもった声がする。

 

「さあね? 教えない」


 耳元でそっと囁いた。







「おまえ、今日のスケジュールどうなってる?」

「ん? みんなに挨拶したら会社へ戻るわ。向こうでもやることあるし……」


 玄関でメンズライクな黒のレースアップシューズを履きながら答えた。


「そうか。俺は一旦顔出してから客先に挨拶回りだから、一緒に出るか?」

「うん」

「一人で大丈夫か?」

「なにが?」

「いや、その……気まずいんじゃないかと思って」

「あ、啓のこと? 別に……気まずいのは私じゃないし。大丈夫、殴ったりしないから」


 ケラケラと笑ってみせると、ふーっと大きなため息をつかれた。今朝の亮はずっとこんな調子。いつもの彼らしくない。私の変化が激し過ぎて、戸惑っているのだろうか。


 彼が靴を履き終えるのを見届け、外へ出ようとドアノブに手をかけたところで、突然頭をぎゅっと胸に押し付けられた。


「無理するなよ」


 頭上からキスと共に優しい言葉が降ってくる。そうか、心配してくれているのだ。


 彼の背に腕を回してぎゅーっと抱きしめ、温もりに浸りたい思いでいっぱいだが、出がけの今はそんなことをしている場合ではない。彼の胸を軽く押し、体を離したところで彼の唇にチュッと音を立ててキスをして、肩に手を乗せた。


「行くよ」


 外の冷たい空気に身が引き締まる。ほんの数日閉じこもっていただけなのに、なんだかすごく久しぶりな感じだ。


 隣を歩く彼の温かい掌に、自分の手を滑り込ませる。こうして手を繋いでこの道を歩いていると、あの朝のことを思い出す。暑さの残る雨上がりの朝のむっとした空気、キラキラと輝く樹々。見慣れた景色に動揺する自分。私の手を引き早足に歩く亮の背中。


「歩くの速過ぎる? 膝は? 痛くない?」

「ん? 平気。もう大丈夫」


 顔を見合わせてにこりと微笑み合う。


 あれからほんの数ヶ月。こんなに満ち足りた気持ちで、またこの道をこの人と一緒に歩くなんて、あの時には想像もつかなかったこと。


 私の本当の人生は、あの時から始まったのだと思う。これからは、きっと大丈夫。何があっても二人でずっと手を繋いで歩いていける。


 満員の地下鉄からはき出され、オフィスビルへと歩く。並んで歩いているだけでも、誰かに見られ噂されそうだが、それはもう考えまい。ただ、ここで手を繋ごうとは流石の亮でも思わないらしいのが面白い。





 ホールでエレベーターを待っていると、私の後から来た男性が隣に立った。視線を感じ目を向けると、そこにいたのは酒井さん。彼は私が誰か気づいていないのだろう。上から下まで舐めるように私を見ている。それを遮るように目線を合わせ「おはようございます」と挨拶をした。


 酒井さんが口ごもりながら、瞬時に真っ赤になる。頭のてっぺんまでみるみる赤くなっていく様子は圧巻で、吹き出しそうだ。


 私の声にこちらを向いた亮が酒井さんに気づき、これ以上ないほど冷たい目で睨みつけた。その顔にははっきりと『失 せ ろ』と描いてある。酒井さんは一瞬ビクッと体を縮めた後、怯えたように後方へ数歩下がった。


 ダメだ。笑いが堪えきれない。口に手を当て、漏れそうになる声を必死に抑えた。


 到着したエレベーターに私たちは乗り込んだが、酒井さんは、一緒に乗ってこなかった。


 今日これからのことを考えると、やはり多少の緊張はある。だが、一度決めたことは必ず実行する。これは、私の信念。さあ、このドアが開いたら、戦闘開始だ。





 エレベーターを降りてオフィスへ続く廊下を亮と二人で歩く。正面から歩いて来た人たちが、私たちが視界に入ったタイミングで、一瞬足を止め目を丸くする。亮のすぐ後ろを歩く私を見て、見慣れない顔に新人でも来たのかと思っているのだろう。


「松本!」


 オフィスの入り口前で、丁度出て来た本田さんに声をかけられた。


「おはようございます」と頭を下げた後、本田さんと目を合わせた。本田さんは私の顔を見て、一瞬驚いた顔をした後、にっこりと笑った。


「河原さん? あ、怪我は? もう大丈夫なの?」

「はい。おかげさまでもうすっかり。ご迷惑をおかけして申しわけありませんでした」

「いや、いや、迷惑をかけたのはこっちだから。本当、申しわけない。まさか酒井があんなこと……」

「いえ、あれは酒井さんのせいじゃなくて……私の不注意で転んでしまっただけなんです。怪我もちょっとした打撲なだけで、まさか入院なんて大ごとになるなんて思ってなくて。仕事にも穴を開けてしまいましたし……。ご迷惑をおかけして本当に申しわけありませんでした」

「いや、いや、あれは、非は間違いなく酒井にある。酒井のことは俺たちの管理不足でもあるから。河原さんには本当に申しわけないことをしたと思ってるよ。すまなかった」


 そう言って、本田さんは私に頭を下げた。


「そんな……あ、頭を上げてください。もう済んだことですし、私も悪かったんですから」


 慌てて本田さんの両腕を掴んだ。


 酒井さん自身がどうかは別として、元はと言えば自分にも問題はある。何を言われてもどんな態度をとられても、適当に躱しておけばよかったものを、わざわざ敵意を煽るようなことをしたのは私だ。それに、あれは偶然起きてしまった事故。彼が故意にやったことではない。私は頭を上げてくれた本田さんの両腕を離してその瞳を見つめ、にっこりと笑った。


 本田さんが、私の顔を食い入るような目で見つめている。正面から真っ直ぐな目で見つめられ、ちょっと恥ずかしくて顔が熱くなってきた。


「しかし、なんだな。これはまた……生で見ると迫力だね……」

「生って……なんですか? それ」


 亮が冷めた目で本田さんを一瞥した。機嫌があまり良くないのはわかるが、何も本田さんにまでそんな顔をしなくてもいいのにと思う。本田さんが、コホンと軽く咳払いをした。


「ところで、今日はどうしたの?」

「あ、はい。プロジェクト終了のご挨拶に伺いました」

「そうなの? 挨拶だったら、さっきお宅の林さんみえたけど? あれ?」

「え? あ、そうですね。林からもお伺いするからって言われてました。でも、私も……ご迷惑をおかけしたのもありまして、それで皆様にご挨拶をと……」

「そうだったんだ? そんなの気にしなくていいのに。まあ、それだったら顔だしてやってよ。みんな喜ぶし」

「はい」


 失敗だ。私から啓に連絡を入れるべきだった。これは、本来であれば社長である啓と常駐作業者の私が、二人で一緒に挨拶に来るべきところだ。それを、いくら私が連絡しなかったとはいえ、何も言わずに一人で先に挨拶を済ませてしまうなんて、あんまりだ。


 啓は私が個人的なことを優先して、任された仕事を放り出すような人間だとでも思っているのだろうか。仕事上の連絡すらしてこないとは、あのことがよほどこたえているのかもしれないが、それこそ、個人的な問題だろう。こんなの彼らしくないし、何より不愉快だ。


 やはり、一発ぐらい殴っておくか。本田さんと亮の会話をにこやかな顔で聞きながら、内心ムカムカしていた。


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