ー32ー
それから私たちは、たくさん、たくさんお喋りをした。子供の頃の話や留学中のできごとや家族や身の回りの人たちとの関係、いつもなら思い出すのも口にするのも嫌なことまで。
悲しかったことを思い出し言葉にするのは、もっと辛く勇気が必要だと思っていたが、亮に凭れて体温を感じていると、不思議とどんなことでも話ができた。それでも時々、言葉に詰まり泣くと、亮は泣いていいんだよと言って、私を抱きしめ頭を撫でてくれる。その手の温もりで凍りついた心が溶かされていく気がした。
亮も自分のことをたくさん話してくれた。まるで、生まれてから今日までの、それぞれの時間を貪欲に共有しようとするかのように。
空が白みかける頃、唐突に彼が言った。
「会社辞めたかったら、いつでも辞めていいよ。贅沢はさせられないけど、おまえ一人くらい十分養える」
「え? それって……プロポーズ?」
「今更……プロポーズもその返事も、おまえが覚えてないだけで、とっくに終わった」
「はあ?」
ペチッと額を叩かれた。摩りながらむくれると彼が言葉を続けた。
「初めて会った日だよ。俺たちが結婚の約束をしたのは」
目を丸くする私を横目に、サイドテーブルから携帯を取り、見せてくれたのは、一本の動画。
そこに映っていたのは、高らかに結婚宣言をする私だった。
「ちょっ……これ?」
「過激だろう?」
「あ、あの時、もっと過激なのって言ってたのって、もしかして、これ?」
「そう。もし、あの時、これを見せてたら、おまえ、絶対逃げてたよな?」
「う……確かに。これ見せられてたら、間違いなく逃げたと思う」
「やっぱり、見せなくて正解だったな」
ニヤリと笑う顔がイヤラシイ。
その後、あの日、バーで何があったのか、私が何を言い、何をしたのかを、かなりしつこく問いただした。しかし、いくら訊いても笑うばかりで何も教えてはくれず、記憶の中に空白の時間があるという気持ちの悪さで悶々とするだけだった。
週末は、家で静かに過ごした。どこにも出かけられないのは私の怪我のためだが、二人きりでこんなにのんびりと家にいるのは初めてだ。
上げ膳据え膳、もれなくお小言付き。彼の管理下で少しずつ食欲も増し、おやつの大福を一つ、簡単に食べきれるまでになった。食事よりも二つ目の大福という私の希望は、もちろんお小言付きで却下されたのだが。
怪我の方も湿布と包帯ぐるぐる巻きから塗り薬に変わり、歩くことに不自由しなくなった。見た目はまだグロテスクだが腫れも引いて、普通に歩く分には痛みもほとんどない。この分なら、ハイヒールさえ履かなければ、週明けには問題なく外出できそうだ。
時間がたくさんあるので、ネット配信のテレビドラマも観た。付き合いだしてからかなり時間が経つが、彼と一緒にドラマを見るのは初めてだ。亮は当然のごとく私の好みを一切訊きもせず勝手に番組を選ぶ。彼が選んだのは、連続猟奇殺人鬼モノ。
この人はこういう趣味だったのかと内心喜びつつも、女の子と二人で肩を寄せ合って観るドラマがこんなものなんてありえないと、自分をきれいに棚に上げて文句を言った。
亮のスキンシップ好きも復活。手を繋ぎ、抱きしめられ、キスされ、撫でられ、一日のほとんどを身体を寄せ合って過ごした。ただ、彼は私を抱いてはくれない。せっかく時間があるのになぜだと訊いたら、今のおまえにそんな体力があるのかと叱られた。
世話焼きとわがままの相手ですっかり疲れたのだろう。あっという間に寝付いた亮が、私を抱いたまま規則的な寝息を立てている。
首を傾けて亮の綺麗な寝顔を見た。そっと手を伸ばし、少しシャープになった顎を指でそっとなぞる。痩せたな、と、胸が痛む。
わがままを言い亮に叱られる度、嬉しくて泣きそうになる。これまで私が唯一甘えわがままを言った相手は祖母だろう。ただ、あの頃の私は幼過ぎて、甘えている実感なんてなかった。今、初めて、自分は甘えているのだとわかる。
彼を信じてはいるが、正直、まだ怖い。警戒も防御もせずありのまま手放しで甘えすべてを委ねて、もし彼が受け止めてくれなかったら、私は真っ暗な谷底へ落ちていくのだ。そして、二度と這い上がることすらできない。
でも、ぎこちなく甘える自分を見ているもう一人の自分が囁く。答えなんてとっくに決まっているくせに何を恐れているのか。這い上がれなくてもいい。その時は、そのまま消えてしまえ、それもいいだろうと。
以前の私は、すべてに目を瞑り、一日が終わる度、いずれ訪れるであろう最後の日に一日だけ近づけたと毎夜感謝していた。でも、今は違う。一日でも一分一秒でも長く、亮と一緒にいたいと切に願っている。だから私はもう、後戻りすることも逃げることもできない。
天井を見上げ瞼を閉じて、ほーっと息を吐き、呟いた。
「決めた。お酒やめよう」
クスッと笑い声が聞こえた気がした。




