ー30ー
早朝、まだ夜が明ける前に目が覚めた。
体を起こしてベッドの端に腰をかけ、足を床に降ろした。両膝は湿布と包帯でぐるぐる巻きにされていて、ほとんど動かせない。たどたどしく歩いているみっともない姿を人には見せたくないなと思いながら、痛みを堪え数歩の距離を歩き、ブラインドを開けて窓辺に手をつき体を支えた。
あれから、白石さんがいつ帰ったのかは知らない。着替えが終わりカーテンを開けると彼女の姿はもうなかった。
はじめ私はあの場にまさか白石さんがいるとは思わなかったし、亮は亮で、気にもせず私に触れていた。そのあともおかまいなしに叱りつけられ、取り繕う暇すらなかったのだから、あれで変に思われない方が不思議だ。彼女の頭の中はきっと疑問符だらけだろう。次に会った時どう説明したらよいものか、悩ましいところだ。
一人で病院に残るのが嫌で帰りたいと駄々をこねてみたが、わがままはダメだ、たった一晩も我慢できないのかと叱られた。
子供の頃からずっとわがままを言うな、わがままは許さないと言われて色々なことを我慢し飲み込んで育ってきたが、亮の言うそれは言葉は同じでも、目的が違う。私を制御するためではなく守るためなのがわかるから、彼にわがままと言われるのは気にならない。
面会時間も終わりの帰り際、彼は私が渋るのを見越したように、睡眠薬を飲むことを強要した。そして、明日は朝一で会社に顔を出してからこちらに来ると言い残し、帰って行った。睡眠薬の効果はテキメン。おかげで久々に夢を見ることもなくぐっすり眠ることができた。
開かない窓からじっと外を眺める。見えるのは立ち並ぶビルのシルエットと街灯に照らされた道路と小さな空だけ。眺めは決して良くはない。
怖い。
これから先、どうすればいいのか。その答えがまだみつからない。
昼前、退院手続きを終えた亮が病室に来てくれた。昼食を終え彼の持参した服に着替えさせられてベッドに腰をかけ、荷物の整理が終わるのを大人しく待つ。そろそろ帰れるかと思っていると、病室の外へ出て行った彼が大きな車椅子を押して戻って来た。
「乗りなさい」
「えー、何これ? 大げさじゃない?」
「その足でタクシーまで歩けると思ってるの?」
ジロリと冷たい目で睨まれた。歩けると断言できる状態でないのは自覚しているが、ちょっと膝を怪我したくらいで健康な自分がこれに乗って移動するのはさすがに気がひける。
「諦めなさい」
亮はきっとまだ怒りが収まらないのだろう。昨日に引き続き口調がきつい。これ以上何か言うと、さらに怒らせるだけなのはわかっている。仕方なく黙って従うことにして支えられながら車椅子に座った。
亮の容姿は人目を惹く。ロビーにはもう昼も過ぎたというのに診察や会計待ちと思われる大勢の人々がいる。その中を彼の押す車椅子に乗って移動するのだからたまらない。横を通るたびに向けられる視線を避けたくてずっと俯いていた。
タクシーの中でも、彼は無言。厳しい顔をしたままこちらを見向きもせず一点を見つめている。何を考えているのだろう。怖い。
家までもうちょっとだと思った時、彼のここでとの声でタクシーが停止した。抱えられるように車から降ろされ、呆然としていると、いきなり抱き上げられた。
「えっ?」
荷物を持ち私を抱いた亮は、マンションの入り口で私を下ろした。抱き上げたり下ろしたりを繰り返しながら部屋の前まで行くと、それまで無言だった彼がはじめて口を開いた。
「今日からおまえの家はここだ」
そのまままた私を抱き上げソファーまで運び、靴を脱がせてスリッパを履かせると、すべて終了とばかりにどっかりとソファーに腰を下ろした。
「……どういうこと?」
「何が?」
「えっと、だから……」
不機嫌そうな顔で睨まれて言葉が出てこない。
「言ったろう? 今日からおまえの家はここだ。衣類と化粧品と、当座必要そうなものは昨夜のうちに運んである。どうせ近いんだ。あとは膝が治ってから少しずつ運べばいい」
指さされたリビングの隅を見ると、大きなトランクが三つ。うち一つは私のものだ。
「それ、一緒に暮らすってこと?」
「そう。おまえを一人にはしておけないからな」
「何もそこまでしなくても……」
「今までだってほぼ毎晩どちらかの部屋にいたんだから、大差はないといえばそうだが、忙しいと徒歩三分ですら遠い時がある。今回のがいい例だ。一緒にいればこんなことにならずに済んだものを、離れていたばかりにおまえを苦しめてしまった。だから、これからはずっと一緒にいることに決めた。何か文句あるか?」
「文句……ありません」
亮には逆らえない。消え入りそうな声で言い、項垂れた。
自分が答えを出す前に、いつでも先回りされ逃げ道をすべて塞がれてしまう。彼と一緒にいたい気持ちがないといえばそれは嘘になる。でも、本当にそれで良いのかわからないし、このままただ流されてしまうのは怖い。しかし、それを口に出すことはできなかった。
運んできた荷物の整理は、彼がすべてしてくれた。私はといえば、ソファーに座り、暇を持て余しているだけ。トランクから荷物を取り出し、荷物を持って各部屋を行き来している彼を眺めていても、ここで一緒に暮らすのだという実感は、いまひとつ湧いてこない。
夕食は彼手作りの料理が並ぶ。鶏の出汁が効いた中華粥に、和え物その他諸々、野菜中心でどれもあっさりとした胃に優しそうで、普段の私なら喜ぶメニューだ。無理のない量ではあるが、食べ残しを許さない厳しさは病院以上。幸い、体調と共に味覚も戻りつつあり、味や香りを少し感じることができた。
彼が巻かれた包帯と湿布を取ると、両膝は青黒く変色していた。見た目は派手で痛そうだが、実際はそれほどの痛みではない。もう立っていることもできるし、邪魔な湿布と包帯さえなければ、多分、歩くこともできる。
大丈夫だからシャワーは一人で浴びると固辞したが、案の定、許されない。シャワールームに二人で入ると少し窮屈だが我慢しろと言いつつ、私の髪も身体もすべて彼が洗った。
ただ一つ、世話を焼く彼のその様子が、いつもとは違うことが、心に引っかかっていた。
入院して以来、彼はずっと私に対して厳しい顔をしている。言葉遣いも以前とは少し変わった。口調は厳しく、甘い言葉は一切かけてくれなくなった。話しかけても短い言葉が返ってくるだけで、必要なこと以外、話しかけられることもない。
入院したばかりの時は、手を握り髪を撫でてくれたが、それ以降は必要な時以外一切私に触れない。退院してからも、抱きしめたりキスをしたりといった、以前は当たり前だったスキンシップがまったくない。
一緒に暮らすとの言葉とは相反する彼の態度は、ただでさえ不安定な私の心をいっそう不安にさせる。なぜそうなのか。何か原因があるのではないかと記憶を辿っているうちに私は気づいた。
違う。入院してからではない。離れていたから気づかなかっただけ。啓とのことを見られたあの日から、亮の態度が変わったのだ。小夜の言う通り、あのことが彼の心に影響しているとしたら……。
その先にある答えまでは、恐ろしくて考えたくなかった。




