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「ちょっと瑞稀! 起きなさいよ! あんた、何でこんな時間に寝てるわけ?」
甲高い声がした。小夜だ。
「うぅーん、今、何時?」
枕に顔を埋めたまま、くぐもった声を出した。
「六時よ! 夕方の六時っ! 日曜なのにこんな時間に寝てるなんて、頭おかしいんじゃないの? まったくもう、ほっといたらあんたはいつでもすぐ寝るんだから。 私がいないと人間らしい生活もできないわけ?」
毎度のことですっかり慣れてはいるが、まるで口煩い古女房か母親だ。
「今起きるから勘弁してよ……」
「もうお夕飯作るから、さっさと起きるのよ!」
小夜は、トントンと軽い足音を立てながら、小走りで寝室から出ていった。
青木小夜は、私より一つ年下の同僚だ。クリクリと動く大きな目が魅力的、小柄な少女のような容姿の女だ。知り合ってから三年ほど経つだろうか。一緒に仕事をするうち、二人の住んでいる場所が同じ地下鉄路線の二駅違いと近いことを知り、プライベートでも遊ぶ機会が増えた。早く退社できた日には、二人一緒に食料品や日用品などのちょっとした買い物をした後、私の自宅で過ごすことも多い。
小夜の趣味は料理。一度食べたものは材料と道具さえあればほぼ再現できてしまうほどの腕前で、その味も絶品だ。時折、外食をすることもあるが、基本的には自宅で小夜の手料理を楽しむのがお決まりのコース。食べることに無頓着だった私は、すっかり小夜に餌付けされてしまったようだ。お互い彼氏なしで一人暮らしと気兼ねする相手もいないため、合鍵すら預けあっている親友とも姉妹とも呼べる関係になっている。
全身がだるく、まだ起きたくはなかったが、このままズルズルと寝ていたら小夜の次の一手が怖い。仕方なく体を起こしたところで、借り物のワンピースを着たまま寝てしまったことに気づいた。
このワンピース、クリーニングしてあの男に返さなければ。下着は……新品を買うしかないか。
ただ、二度と会わない相手に、服を返す術はない。
寝て起きて、それでもまだ引きずっている。混乱した気持ちは寝る前のままだ。過ぎたことを気に病んでいても時間の無駄。気持ちを切り替えなければと自分を無理やり奮いたたせベッドから降り部屋着に着替えた後、クローゼットから紙袋を取り出しワンピースをその中に入れ、クローゼットの奥にしまい込んだ。
「あっ! 私の服!」
大声で叫び出しそうになり、慌てて手で口を塞いだ。今頃になって、着ていたものをすべてあの男の寝室にそのままにしてきてしまったことに気づいた。
高かったあのブラウス……。悔しい、悔やんでも悔やみきれない。
「今日は焼肉だよ! 良いお肉奮発しちゃったんだ! 待っててね、すぐ支度できるから」
鼻歌交じりの明るい声。今日の小夜は機嫌が良いらしく、いそいそと手際よくきれいに盛り付けられた肉や野菜の皿をテーブルに並べている。
小夜が食事の支度をしている時、私は一切手出しをしない。以前、手伝おうとしたことはあった。料理がまったくできないわけではないが、小夜に言わせると、私は不器用で何をしても邪魔なだけらしい。終いには自分がキッチンに入っている時は一切手出し無用、近寄ることすら禁止と言い渡されてしまった。
暇つぶしにテレビのスイッチを入れた。
「食事時にテレビはダメって言ってるでしょ!」
リモコンを引ったくられテレビを消された。
仕方なく本でも読もうと、テーブルの隅に置いてあったタブレットを手に取った。
「あんたさ、仕事と睡眠と読書以外に、やりたいことってないの?」
忙しそうに手を動かしながら、ため息交じりに小夜が言う。
「あとは……ドラマ鑑賞と掃除?」
「あんたの観てるドラマって、猟奇殺人鬼や歩く屍体ばっかりじゃない。まったく、何が面白いんだか。それに、掃除は趣味じゃなくて病気でしょうが!」
大長編のドロドロ系恋愛ドラマばっかり観ているよりはずっとましだと思うのだけれど。だが、恋愛ドラマがいかに素晴らしいかの薀蓄うんちくが始まると、長くなるのがわかりきっているので、この話題は避けた方が懸命だ。
「きれいにするのは、悪いことじゃないでしょ?」
小夜とのやりとりは、お互いの存在に慣れきった熟年夫婦のようで、面白い。
肉の焼ける油と小夜特製だれの入り混じった香ばしい匂いで、あの男と一緒に食事をして以降、何も口に入れていないことを思い出した。
少しの沈黙の後、小夜はグラスに赤ワインを注ぎ、取り皿に焼き上がった肉と野菜を取り分けながら、にっこりと満面の笑みを浮かべて口を開いた。
「ねえ瑞稀、昨日はあれからどうしたの?」
やはりそうきたか。この女が何の理由もなくご機嫌で肉を振る舞うわけがない。答えを待つ小夜の瞳は好奇心でキラキラと輝いている。
「あれから? 二人で飲んでた」
「それから?」
「朝起きてシャワー借りた」
「それから?」
「朝食ご馳走になって、駅まで送ってもらった」
「それだけ?」
「うん、それだけ」
小皿の肉に箸をつけるのも忘れて、いかにもじれったいというオーラを漂わせながら、小夜は私を凝視している。
「二人で飲んでから、朝起きるまでの間は?」
目の前でにやっと笑っているこの女が私の口から何を聞き出したいのかは、当然わかっている。
平静をを装い静かにワイングラスを口元へ運びながら「知らない」と答えた。
「知らないわけないでしょ?」
「知らないもんは知らない」
「もしかしてあんた……記憶がないとか言わないわよね? 嘘でしょ? あんたお酒強いのに、そんなわけないわよね?」
のらりくらりとしている私にイライラしてきたのか、徐々に声が大きくなってきた。
「へへ……実は、そのまさかだったりして」
「信じらんない! ほんとに記憶ないの?」
小夜は目を見開き、呆気にとられた顔をして大声を出した。
「そんな大声出さなくていいじゃない。終わったことなんだしさ、もういいでしょ? さ、お肉食べよう! 冷めちゃうよ」
ヘラヘラと笑いながら箸を手渡そうとしたが、受け取ってもらえず、少々バツが悪い。
「終わったことって何よ? 何にも終わってないでしょ?」
小夜がテーブルにバタンと両手をつき立ち上がると、怒った顔をして私の顔を指差した。
「お互い自己紹介して電話番号交換して、挙句にお泊まりまでして、あんた今更何なのよ?」
今度は、私が唖然とする番だった。手に持っていた箸がぽろっと転がり、床まで落ちていった。
「ちょっと……今、何て言った?」
意味がわからない。小夜の顔を見つめ、次の言葉を待った。
「何って? お泊まりまでして今更何なんだって言ったのよ!」
「そうじゃなくて、その一つ前……」
「一つ前? えっと……何だっけ? 自己紹介して電話番号交換して……」
即座に席を立ち、ソファーに放り出してあったバッグを掴み中から携帯を取り出し、ボタンを押して画面を起動すると、そこには不在着信とショートメッセージが一件ずつ。
松本亮
登録していなければあるはずのない名前が、画面の中央に表示されていた。
少し震える手で、恐る恐るショートメッセージを開くと、薄いグレーの吹き出しの中に『また連絡する』の六文字があった。
「また連絡するって! ほらね、全然終わってないじゃない」
終わってない。呆然と携帯の画面を見つめていると、いつのまにか横にいた小夜が、私の肩口からひょいと顔を覗かせて、手の中にある携帯を覗き込んだ。そして、勝ち誇ったように笑いながら、テーブルへ戻り椅子に座ってこちらに顔を向けた。
「さあ、覚えていることをすべて、正直に白状してもらいましょうか」
にやりと邪悪な笑いを浮かべた小夜の顔には、夜はまだまだこれからよと書いてある。やれやれ、明日は寝不足のまま出勤しなければならないようだ。
「一晩だけの遊びのつもりだったら、男がわざわざ朝食の用意なんてする? その上、手を繋いで駅まで送るってさぁ?ありえないわよ! それから、彼女がいるってのもないと思う。服のことはそりゃ説明つかないけど、でも、フツー彼女の服貸したりする? いくら遊び人だってありえないと思うけどな?」
「そうかな?」
「それにさ、真っ昼間に家の近所を他の女と手を繋いで歩くなんて、どこで誰に見られてるかわかんないんだからさ、そんな危ないことすると思う? どんな遊び人だってそんな簡単に浮気がバレるようなことするわけないじゃない」
「そんなもんかな?」
「絶対遊びなんかじゃないわよ! 電話もしてきたし、また連絡するってメッセージまで送ってきてるわけじゃない? やっぱり松本さんは本気なんだって!」
何が松本さんだ。なんだかあの男の正当性を力説しているように聞こえるのは、私の勘違いだろうか。
「また遊びたいから連絡してきたんじゃなくて?」
「あんた見てるとほんと、イライラする……男のことになると、必ずそういうひねくれた考え方をするんだから」
小夜はお話にならないという顔をしながらボソッと「ムカつく女」と言い捨て、自分のグラスに最後のワインを注いだ。
「ひねくれてるんでもないわよ。経験に基づく自己防衛、本能です」
そう言ってにっと笑ってみせると、小夜は仕方なさそうに頬づえをついてフーッと深いため息をついた後、表情を変えた。
「でもさぁ、一番良いところをすっかり忘れてるなんて、やっぱりもったいないわよねぇ……」
わざとらしく呟き、意地悪そうな笑いを浮かべ、チラチラと横目でこちらを見ている小夜の様子がイヤラシイ。
あなたにとって一番の興味はやはりそちら方面ですか。これから暫くの間、このネタでからかわれるのだろうと思うと、少々頭が痛い。
「もとはと言えば、あんたが私を置き去りにして帰っちゃうから起きたことなんだからね。それ、わかってる?」
「ええ? だって、二人で仲良さそうにコソコソ話し込んでたしさ、すごく良い雰囲気だったんだもん、邪魔しちゃ悪いでしょ?」
「はぁ?」
「彼氏できたし、イイい思いしたんだから、良いじゃない!」
「イイ思いした記憶なんて無いもん!」
「それは、あんたが飲み過ぎるからでしょ? まったく、あんただっていつまでも独り身でいるわけにはいかないんだしさ、良かったじゃないの」
「そういうあんたはどうなのよ?」
「私? 私はうちの社長一筋だから! さ、明日も仕事だしー洗い物してこよっと。あ、今日はソファーで寝るから、瑞稀は大きなベッドでごゆっくりどうぞ」
小夜はパタパタとスリッパの音を立ててキッチンへ走って行った。
「まったく、言いたいことだけ言って、都合が悪くなるとすぐ逃げるんだから」
無意識に壁の時計を見ると、すでに十時を回っていた。
「もうこんな時間、寝る準備しなきゃ」
洗面所の鏡に背を向けて服を脱ぎさっとシャワーを浴びた。ベッドに横になって枕元の携帯を手に取り、ショートメッセージのアプリを開くと、メッセージ一覧の一番上には、松本亮の名前がある。
「また連絡する……か」
ぼーっとその文字を眺めていると、言葉に表しようのない不思議な感情が自分の中に存在することに気づいた。また、同時に、あの男の顔を思い出し、なんともいえない悔しさがこみ上げてきた。
「ムカつく男」
目を閉じ、深い眠りについた。
一週間が経ち、十日が過ぎた。
あの男からはその言葉通り数回電話があったが、その後途絶えた。あの日のことは忘れようと決め、無視した結果なのだから当たり前だ。ただ、なぜか心の奥底で後悔している自分がいる。