ー29ー
目を開けると、覚えのない天井が見えた。ここはどこだろう。
「瑞稀」
声のする方へ顔を向けるとそこには、私の手を握っている亮がいた。
「亮?」
亮は私の髪を撫で、頬に手を当てた。温かい掌の温度が頬に伝わる。ブラインドの隙間から差し込む光で逆光になっているためか、彼の表情はよく見えない。
「病院だよ。気分はどうだ?」
体を起こそうとしたが、全身が重だるくて力が入らない。
「うん? 大丈夫。ちょっとだるいだけ」
ぼーっとした頭で記憶を辿った。酒井さんともみ合っていた時に転んだところまでは覚えているがその後がわからない。握られていない右手を少し動かすと何かが引っかかった。目を向けると、手の甲に点滴の針が刺さっているのが見えた。
「動くな。おとなしく寝てなさい。覚えてる? 転んだショックで気を失ったんだよ。怪我は膝の打撲だけで暫くは痛むだろうが、骨には異常なかったし大事はない。ただ、過労と栄養不良と……とにかく体が弱ってるから休息が必要だと医者に言われたよ。おまえ、どうして……」
「ごめんなさい。私が悪いの」
「いや、違う。謝るのは俺の方だ。こんなになるまでおまえを一人にしておいた俺が悪い」
亮は私の手を両手でぎゅっと握りしめて口元に運び、指に唇を押し付けた。その動作が切なくて、胸が締め付けられる。
「亮……」
「もういい、話は元気になってからだ。そうだ、青木さんに連絡する?」
小夜はきっとすぐに駆けつけてくれるだろう。でも啓も一緒に来るかもしれないと思うと、小夜に連絡をするわけにはいかない。
「連絡しないで。小夜は今、忙しいから心配かけたくない」
「わかった」
「あ、亮は? 仕事は?」
「安心しなさい。あとのことは本田さんに頼んである。おまえについててやれって本田さんも言ってくれたから側にいるよ」
「迷惑かけてごめんなさい。会社の人たちにも謝らないと」
「そんなことは気にしないで、休みなさい」
大きな温かい手で頭を撫でられながら、目を閉じようとした時、軽い足音とともに声が聞こえた。
「必要なもの一通り買って来ましたけ……あ?」
聞き覚えのあるその声に目を見開いた。ベッドの足元には、言いかけた言葉を飲み込み、目を丸くして私たち二人を見ている白石さんが立っていた。
「白石、ありがとう。助かったよ」
「あ、いえ、あの……」
片方の手は私の髪を撫で、もう片方の手で私の手を握ったまま、顔だけ白石さんに向けて微笑む亮を見た白石さんは、その場に立ち尽くして動けなくなっている。当然だ。突然思いもよらない状況に遭遇して驚かない人間がいる方が驚く。
「後は俺がついてるから、白石はもう会社に戻っていいよ」
「あ、だったら私も」
無理やり体を起こそうともがいたところで、彼の手が私の肩を強く抑えた。
「おまえは寝てろ」
口調が変わった。聞いたことのない低い声。
「え、でも、仕事途中だし、戻らないと」
「何言ってるんだおまえは。こんな状態で仕事ができると思ってるのか? だいたい、おまえはこの一週間何やってたんだ? ろくに飯も食ってないんだろう? 違うか?」
「そ、それは……」
「だったら、言ってみろ! おまえ昨日何食った? まさかコーヒーだけとか言わないだろうな?」
「えっと……」
「俺は覚えてるぞ。昨日の夕飯はカルボナーラとサラダ完食したって言ったよな? 忘れたのか? それともあれは嘘か? その前は? 全部嘘か? どれだけ俺に嘘ついた?」
完全に怒っている。初めて見た。この人でもこんなに厳しい顔をして声を荒げることがあるのだ。
「……ごめんなさい」
「ごめんなさいだと? ってことは全部嘘なのか?」
「全部じゃないけど……」
消え入りそうな声で答えた。
「おまえ……。こんなに痩せて。食ってないだけじゃなくて、夜もろくに寝てないんだろう? 眠れなかったのか?」
「うん。夢ばかり見てて……」
「迂闊だった。元々自罰的な傾向があるとは思ってたんだが、これほどのことになると予想できなかった俺のせいだ。おまえとちゃんと話もしないで仕事にかまけた俺が悪い。絶対に一人にするべきじゃなかったんだ」
彼はベッドの端に肘をつき、苦しそうに両手を握りしめている。こんなに心配させてしまうなんて、バカなのは私の方だ。
「あの……お話中すみません」
その声で、病室内にいるもう一人、白石さんのことを思い出した。これは非常にまずい状況だ。
「あ、白石? まだいたの?」
「え、あ、あの、これ……」
彼女はまだ買ってきた物の入った紙袋を下げて立ったままだった。目の前で展開している事態を飲み込めないのだろう。声が怯えている。
「ああ、そうだ。悪い、忘れてた。ありがとう、パジャマも買ってくれた?」
突然笑顔になり立ち上がった彼は、動けない白石さんの元へ行き袋を受け取って中を確認していた。
そこに看護師さんがやってきて「河原さん、お加減いかがですかー? 点滴終わりましたねー。今日一日様子見て明日先生の許可が出たら退院できますからねー」と妙に明るい声で言いながら点滴袋を確認し、針を抜きテキパキと処置をするとすぐに出て行った。
「丁度いい。着替えるか? 白石、悪いけど着替えさせるから外してくれる?」
亮がそう言いながらベッドの周りのカーテンを引くと、その言葉に真っ赤になって立ち尽くす白石さんの姿が、カーテンの向こうに消えた。
「いいよ。着替えくらい自分でできるってば」
ボタンを外そうと伸ばした彼の手ごとブラウスの襟元を抑えた。
「大人しく言うことを聞きなさい」
低い怒った声で言われてはされるがままになるしかなく、襟元を抑えた手を外した。眉間に皺を寄せ怒った顔とは裏腹に、黙々とブラウスのボタンを外すその手つきはとても優しかった。




