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ー28ー

 母が怖い顔をして睨んでいる。何がそんなに悲しいのだろう。幼い私は、泣きじゃくっていた。


「おまえはいつまでもそんなところでメソメソ泣いて! 邪魔だったらありゃしない! あっちで大人しくしてなさい」


 薄暗い部屋の隅を指さされ、大人しく従った。涙は、我慢しなければいけない。黒い服を着た大人たちが、忙しそうに立ち働いている。私は冷たい床に座り、本を開いた。


 線香の匂いが立ち込める広い部屋には、母と父、兄、父方の祖父母に親戚、知らない大人たちと、たくさんの人がいた。ひそひそ話の声の合間に泣き声も聞こえ、誰もが白い花を持ち部屋の中央に安置された祖母のお棺の周りに集まっている。


 誰一人私に声をかけてくれる人はいない。周囲の雑音を忘れ、夢中になってページを捲った。


「薄情な子だね」

「本当に。あんなに可愛がってもらったおばあさんが亡くなったのに、涙一つ見せないなんて」

「人形みたいで何を考えているのかわからん」

「可愛げのない子だ」


 近くで声がしたと同時に、突然手を叩かれた。


「こんなもんばかり読みやがって! おまえは情ってものがないのか!」

「あなた! よしなさいよ。まだ子供なんだからわからないのよ」

「何言ってるんだ! こいつが人の死がわからないほどの歳か!」


 目の前で喪服を着た叔父や叔母が数人で言い争っている。本は、無残に破られ、足で踏みつけられていた。


 欲しいとねだって祖母に買ってもらった、たった一冊の大切な本。





「あ……また夢」


 薄暗い部屋の中で目を覚ました。ソファーに座っていたはずが、いつの間にか眠ってしまったらしい。このところ、うつらうつらしては、夢を見る。見るのは決まって昔の夢だ。


「もう寝るのはやめた方がよさそう……」


 テレビ台の扉を開けて古びたクッキーの缶を取り出し、それを抱え隅の床に座った。あの時と同じ。床の冷たさが体に伝わり、心まで冷やされる。


 缶の中には数枚の破れた紙切れと楓の葉が入っている。紙切れは、祖母の葬儀の日、叔父に叩かれながら拾い集めた祖母が買ってくれた大切な本の頁。そして、楓の葉は、旅館の庭を亮と散歩中に拾ったものだ。


 楓の葉を手に取りじっと眺めた。


 渡米したばかりのあの頃、私はまだ先のことにまで思い至らず、ただただ自分を蔑み利用する人たちから逃げ切った解放感に浸っていた。今にして思えば、赤子同然。自分自身は変わらず無防備なままなのに、新しい環境と自由に浮かれていた。


 啓は、あの頃の人形の私が好きだったのだ。


 彼は、智史に捨てられ私が変わってしまったと言った。でも私はこの顔と一緒に心に封印をしただけで、何も変わってはいない。


 人と深い関わりを持たず、ただ仕事をして適当に友人との交流を楽しんで、一人で死ぬまでの時間を過ごせばいいと思っていた私は、亮と出会ってしまった。彼を受け入れなければ、今これほど狼狽している自分はいなかっただろう。啓のことだってそう、たいしたことではない。適当に躱して、時を見て離れてしまえばそれで終わってしまう簡単なことだ。


 物語の最後にあるのは別れだけ。亮だって、いつかは離れていく。


 その時、私はどうなるのだろう。


 先のことに怯えるくらいなら、いっそのこと、今のうちにすべてを捨ててしまうべきではないのか。


 罰を受けるのを承知で、愛し愛されたいと望む自分を止められない卑しさも、もう誰も信じないと何度も誓い、その度にいつのまにかその誓いを破ってしまう愚かさも、これはすべて私の弱さから生み出されるのだ。


 人は、生まれた時も死ぬ時も一人。どうせ一人なのだから、ずっと一人のままでいられたらいいのに。


 掌の楓の葉をぎゅっと握りしめて膝を抱き、少しずつ白んでいく窓の外を見つめたまま朝を待った。






 システムのリリースが目前に迫る。こちらの作業はチェックも済みほぼ終了しているため、私たちのチーム四人も最終のテスト要員として駆り出されていた。


「ああ、疲れたー! テストテストで嫌になっちゃう」


 ずっと座りっぱなしで仕事をしていると体が凝り固まってしまう。白石さんは腰を摩りながら背中を伸ばし、肩を揉み首をゆらゆらと左右に傾けていた。


「そう?」


 疲れた顔をする三人を尻目に、木村さんが一人気炎を吐いている。書くよりテストの方が好きなエンジニアなんて珍しいと感心していると、彼女が言葉を続けた。


「だって、気分良くない? バグ票突きつけられた時のあのハゲ親父の顔! あれ見るとスーッとするのよねー」


 バグ出しは粗探しとは違う。まあ面白いとは言えない作業だから、そういう楽しみ方があってもいいのだろう。


「でも、さすがにこれ以上バグがあったら困るわ。明日無事にリリースできないと大変よ」

「そうよねー。私たちは遅くても帰れるからまだいいけど、男の人たちはここんとこ毎日泊まり込みでしょ」

「うん、でも、今回のは全然マシよ。やっぱり上が優秀だと仕事が楽よね」

「うん。今まで何度地獄を見たことか……松本さんのプロジェクト入れてホントラッキーだったわ。次は知らないけど」

「嫌! 次のことなんて考えたくない! とりあえず今は明日を無事にやり過ごして、休みたい」

「そーよねー。もうじきクリスマスだし、休み取りたいなー」

「白石さん、彼氏もいないのに、クリスマス?」

「ひどーい! 木村さんだって同じでしょ!」


 そう、このプロジェクトが終われば、私はもうこのオフィスへ通うことはない。なるべく意識しないようにしていたが、その日は目前に迫っている。会社へ戻り、啓とどんな顔をして何を話せばいいのか。彼はどうするつもりなのだろう。以前と同様に接するなんて、できるわけがない。では、どうするのか。週明けには答えを出さなければならないのだ。


「河原さん?」

「え?」

「だから、お昼どこへ食べに行こうかって」

「ああ、ごめん。お昼ご飯ね」


 彼女たちと話をしていたはずが、いつの間にかぼーっと考え事をしていた。


「河原さん、大丈夫? 顔色悪いよ?」

「そう? そんなことないと思うけど?」

「ならいいけど、風邪流行ってるし、気をつけないとねー」

「そうね。急に寒くなってきたもんね」

「あー、やっぱりいつもの喫茶店にしようよ。あそこが一番近いもん」


 その時、廊下をこちらに向かって歩いて来た男に声をかけられた。


「河原」


 酒井さんは白石さんと木村さんの横をすり抜けたかと思うと私の正面に立ち、突然、私の腕を掴んだ。


「ちょっと来い。おまえに話がある」

「ちょっと! 何なのよ!」


 酒井さんのただならぬ様子に、二人の顔に緊張が走る。


「煩い! こっちはこいつのおかげで迷惑してるんだ。ちょっとくらい付き合ったっていいだろ?」

「酒井さん! やめてください!」

「おまえらには関係ない!」


 力一杯掴まれている腕が痛い。それを引き離そうと二人が間に入った時、強引に腕を引っ張られ、私はその場に転倒した。


「河原さん!」


 転倒したはずみで両膝を酷く打ち付けてしまったらしい。彼女たちに助け起こされてなんとか立ち上がり、大丈夫と言おうとした瞬間、全身の力が抜けた。



 遠くで「瑞稀」と呼ぶ亮の声が聞こえる気がした。

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