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ー27ー

 気がつくと、辺りは真っ暗。どれくらい時間が経ったのだろうか。目の前には亮が私のために入れてくれたミルクティーのカップがある。私は手を伸ばし、冷えたミルクティーを少し口に含んだ。甘い香りはどこへいったのか、不快なぬめりが舌に触る。


「うっ」


 突然激しい吐き気に襲われ、口元を押さえながらトイレへ走った。何度も吐いた。胃の中にあるものすべてを吐き出しても吐き気は治まる気配がない。胃もキリキリと痛む。苦しくて悶えながら、これは愚かな自分への罰なのだと思った。


 ようやく吐き気が収まり、よろよろと立ち上がって洗面所へ行き、身につけている衣類をすべて脱いだ。脱ぎ捨てたそれはすべてゴミ箱の中へ。そして、裸のまま洗面台の前に立ち、繰り返し歯磨き粉をつけて腕がだるくて動かなくなるまで歯を磨いた。そのまま風呂場へ行き、熱いシャワーを頭から浴びて、指の一本一本に至るまで何度も何度も力を込めて汚れた全身を洗った。


 口腔や髪、全身に纏わりつく不快な臭いを消し去るように。


 シャワーから出て真新しいタオルで体を拭いて部屋着に着替え、部屋中のゴミをまとめて階下のゴミ捨て場へ。戻ってからは、掃除。窓を全開にし、部屋中すべて掃除機をかけ、リビングの床は水拭する。家具を乾拭きし、カーテンを洗濯機に放り込み、窓もすべて磨いた。そして、再び風呂に入り、さっきと同じように全身を何度も洗った。


 すべてを終えた頃にはもう髪を乾かす気力も残っておらず、濡れた髪にタオルを巻いて部屋の灯りを消しソファに座り込んだ。


「明日も仕事だし、寝るかな」


 ベッドに入ったからといって眠れるわけもないのはわかっている。瞼を閉じると目に涙を溜めた小夜の顔が浮かんでくる。想いを寄せる男が目の前で他の女の身体を貪る様子を見て、傷つかないわけはないのに、私のために怒鳴り、叩き、追い出してくれた小夜の心情を思うと、辛い。


 亮も、きっと傷ついただろう。


 人と深く関われば結果はいつも同じ。そんなこと、痛いほどわかってることなのになぜ懲りないのか。





 窓からそよぐ風に白いレースのカーテンが揺れている。毎日の課題に追われ忙しい毎日を過ごす私には、土曜の午後、この窓辺に座り本を読むのが唯一の息抜きだった。


「智史、おかえり」


 ピンクのリボンがかかった白い大きな箱を小脇に抱え、智史が帰ってきた。走ってきたのだろうか。顔が上気し息を切らしている。


「瑞稀、はいこれ!」

「なあにこれ?」

「いいから、開けてみて」


 智史がその箱を目の前に差し出した。リボンをほどき箱を開けると、そこにあったのは淡いピンク色をしたレースのドレスだった。


「気に入った?」


 ドレスを箱から取り出し、姿見の前で合わせてみる。


「でも、こんな可愛い色、着たことないし……」

「でもじゃないでしょ。瑞稀にはこういう色の方が似合うんだよ。そうだ、これからは僕が服を選んであげる。さ、早く着て見せて!」 


 鏡の中で、細くくびれたウエストからふわっと広がるレースのスカートが揺れている。肩越しに満足そうな彼の笑顔が映っていた。


「でも……」


 ピンクは嫌いだ。


「とても綺麗だよ。楽しみだな。これを着てる瑞稀と一緒に踊ったら、みんなの羨望の的間違いなしだ」

「うん。楽しみだね」


 楽しみなのだろうか。ダンスパーティーは嫌いなのに。





 いつの間にか眠っていたらしい私は、窓に打ち付ける雨の音で目を覚ました。外はまだ暗い。時計を見ると五時前だった。


「夢か」


 五年前に別れて以来、智史の夢を見たのははじめてだ。あの頃は一度も夢に出てきたことなんてなかったくせに、思い出したくもない今になって出てくるとは。それもこれもすべて啓のせいだろう。彼の気持ちを知ってしまった以上、今まで通りというわけにはいかない。この関係は清算するべきだと、寝起きのぼーっとした頭で考えた。


 ベッドから出てテレビをつけてコーヒーを入れた。水分を取らなければいけないと無理やり一口啜ってみるが、味も香りもない。いつもと同じように入れているはずのこれは、ただのコーヒー色をしたお湯だ。


 マグカップを持ったまま窓辺に立った。こんなに雨が降っているのは久しぶりのこと。窓に流れる雨水を見ながら、洗車すると翌日雨が降るという愚痴はよく聞くけれど、窓を洗っても雨が降るのかと一人で笑った。


 ダイニングテーブルにカップを置き、携帯を手に取って見た。亮からの着信はない。昨日あの後、会社に戻り何時まで残業をしたのか知らないが、今のこの時期だ、数時間でも抜けた穴を埋めるのは大変だっただろう。申しわけないことをした。


 誰も見ていないテレビからはニュース番組の女子アナの賑やかな話し声が流れている。


 ソファーに座り、傍のタブレットを手に取り、本のページを捲る。何も頭に入ってこないが、目で文字を追っているだけで心が休まる。


 時間を見て、シャワーを浴び出勤のための身支度を整えた。仕事だけでもきちんとしなければ、すべて失ってしまう気がする。






「小夜」


 顎で携帯を押さえながら、洗剤まみれの手を洗いタオルで拭いた。


「あんた何してんの?」

「ん? キッチンの掃除」

「はあ? 夜中の十二時に? まったくあんたは……」

「ははっ! 言いたいことはわかってるからその先は言わなくていいよ」


 電話の向こうで大きなため息が聞こえる。


「松本さんは?」

「亮? さっき電話あった。まだ会社だって。大詰めだからね、終電で帰って来れたらラッキーって感じかな?」

「そっか」

「そっちはどう?」

「なんとかね。作業の方はもう先が見えるから問題ないわ。うんと……啓司さんの痣は赤黒くなってきた」


 何を話したいのか、小夜の意図が透けて見える。


「何それ?」

「だって、あの時、バッグで殴っちゃったからさー」

「え? アレで殴ったの?」


 小夜のバッグは特大のトートで、中には書類からフルサイズの化粧品一式と着替えまで入っている。あの重量を振り回した怪力に驚きながら、あれで殴られたらさぞダメージは大きかっただろうと、少しだけ啓に同情した。


「見てなかったんだ? あの時は、必死で……無我夢中っていうの? 考えなしでバッグ振り回してバーンと……。次の日会社で見たら、目の下青黒くなってるし、唇の脇に絆創膏貼ってるし……」

「……そっか。で、啓、何か言ってた?」

「ううん。啓司さん外に出てること多いし、あれから全然話ししてない。私も何言っていいかわかんないし、もっとも、会社で話せることじゃないしねー」

「まあね」

「あんたは? 大丈夫?」

「うん。いつも通り。小夜は?」

「私? 私は別に……って、まあ、正直言えば、ちょっとは複雑だけどね」

「う……ごめん」

「あんたが謝ることじゃないでしょ? あんたは何にも悪いことしてないもん」

「でも……」

「そりゃ、いきなりあんな場面見せられたらショックだけど、それより先に頭来ちゃったからねー。いくら好きだってあれはないでしょ? あんたのこと大事にしてるって思ってたけど、まさか、無理やりあんなことする人だなんてねー。やっぱりあのぐらい殴っといて丁度良かったのよ。いい気味! でも、あんたどうするの? あんなことされて顔も見たくないだろうし、あんたのせいじゃないけど、啓司さんとこじれちゃったら会社居辛くなるし」

「うん。まだ何にも考えられないけど、やっぱり、考えなきゃダメよね」

「ホント、面倒くさいよね。でもさ、あんた、会社は辞めてもいいけど、松本さんとは絶対別れちゃダメよ」

「え? 何それ」

「だからー、松本さんだって男の人だからさ、絶対気にしてると思うんだ。でも、彼、あんたのこと本当に好きだし、ちゃんと分かってくれる人だから、あんなことくらいで別れようなんて思っちゃダメって言ってるの」

「うん」

「あ、そうだ! あんたの部屋の鍵、松本さんに渡しといたから。彼氏いるんだし、いつまでも私が持ってるってわけにもいかないじゃない?」

「そんな、小夜が持っててくれればいいのに」

「えーだってー、夜中に鍵開けて入ったら、濡れ場に遭遇なんて絶対嫌だもん」

「まさかそんなことは……」

「ないって言える?」

「……すみません」

「んじゃ、また連絡するわねー」


 小夜の言うことは微妙にずれてる気はするが、まあ当たっている。私が変な気を起こさないように、釘を刺したかったのだ。


「糠に釘って言葉知ってるよね? さて、鍋磨いてこよ」




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