ー26ー
暫くの沈黙の後、啓は大きなため息を一つつき、諦めた様子で話し始めた。
「わかった。もうこれ以上は……全部話すよ。仕方なかったんだ。五年前、あいつ、実家に帰った時、おまえとの結婚を親に反対されてさ。親はすでに別の相手との結婚を決めていて、拒否して強引に帰ってこようとしたらしいけど、パスポートも取り上げられて、戻ってこれなくなったんだ。それで、あいつの家の都合もあって、結局、親の説得に負けてその相手と結婚して、すぐ仕事の関係でシンガポールに行ったんだ。それから、ずっと向こうに住んでる。俺とはずっと連絡を取り合っていて、時々帰国した時に、昨日みたいに飯食ってた」
「連絡を取り合ってたってどう言うこと? いつから? 啓、まさか……」
「あいつが、日本に戻って数日してから電話があって……困ったことになったと……それ以来……」
「それって、五年前? あなた、もしかして、最初から全部知ってたの?」
「ごめん。おまえに心配かけたくなくて。俺たち……あの時は、何とかなると思ったんだ。それで」
「じゃあ、あの時、私の帰国を止めたのはどうして?」
「それは……すべて終わるまでおまえが知らない方がいいと思ったから」
「一緒に探してくれたのは何だったの? そうだ、彼らは? ハルは? ジョニーや他の友達は?」
「俺が、口止めしたんだ」
この人はずっとすべてを隠し続け、何食わぬ顔をして毎日私と一緒にいた。知らなかったのは私だけ。五年もの間、騙され続けた自分のバカさ加減に呆れ、嘲るようにクスッと小さく笑った。
「そうよね。忘れてた。あなたは、私の親友じゃなくて、あの人の親友だった」
「それは違う! 俺は、ただ、おまえを傷つけたくなくて」
「もういいから、帰ってくれない?」
半透明のポリ袋の中に、割れた卵の黄色が流れ出ているのが見える。きっと、アイスクリームももう溶けてしまっただろう。立ち上がってポリ袋を手に取り、キッチンの端に置いてあるゴミ箱にそれを乱暴に投げ入れ、背を向けた。
「あいつが親友だから庇ってるとでも思ってるのか? おまえは、俺がそんな奴だと思うのか?」
「あなたがどうだろうと、事実は変わらない」
「瑞稀! おまえは、何もわかってない!」
声を荒げ振り返ったかと思うと啓は突然立ち上がった。そして、私の腕を掴んで強引に引き寄せ、腰に腕を回し力一杯私を抱きしめた。
「やめて! 離して!」
必死でもがいた。だが、どんなに抵抗してもその力強い腕から逃れることができない。
「瑞稀!」
強く後頭部を押さえつけられ、強引に唇を奪われた。拳を握り必死で彼の胸を叩けば叩くほどその拘束は強くなり、顔を背けることも叫ぶことも許されない。親友だったはずなのに。馴染みのない唇の感触、強引に割って入ってくる舌に嫌悪感をもよおし吐き気がする。
「俺は、ただおまえを守りたかっただけなんだ。あの頃のおまえは、繊細なガラス細工の人形のように綺麗で、素直で可愛くて……おまえに俺の気持ちがわかるか? 智史におまえを譲らなければよかったと、どれだけ後悔したかしれない。いなくなったあいつを必死に探すおまえを見てた俺の気持ちがわかるか? その痣のあるおまえの顔を初めて見た時、俺がどんな気持ちだったと思う? あいつを忘れられなくて、変わってしまったおまえを毎日見ている俺が、どんなに辛いかわかるか? それでも俺は、おまえの側にいて、おまえをずっと守りたかった。なのに、どうして? どうしてだよ? どうして俺じゃダメなんだ! 俺は……こんなにおまえを愛してるのに」
『俺は……こんなにおまえを愛しているのに』
私の中で、何かが砕ける音がした。
泣き声にも似た荒い息遣いが聞こえる。
唇が、その手が、身体の表面を彷徨い、髪や服を乱す様を、離れた場所からもう一人の自分が眺めている。
もう何も感じない。人形は、何も感じてはいけない。何も感じなければ、傷つかない。
突然腕を掴まれ引っ張られ、その勢いで肩を壁にぶつけ、膝から崩れ落ちた。誰かが、何かを叩いている大きな鈍い音が聞こえる。
「何してんのよ!」
見上げると、私の横にはバッグを握りしめ、唇を怒りに震わせて啓を睨みつけている小夜の姿があった。
手を握られふわっと温かい腕に包まれた。少し震える冷たい指が私の頬を撫でる。半ば朦朧とした意識のまま胸に顔を埋めると、亮の匂いがした。
「瑞稀を傷つけないで!」
引きずるような足音とドアの閉まる音が聞こえた。啓が出て行ったのだろう。
小夜が泣きそうな顔をして私を振り返った。
「瑞稀、大丈夫?」
「小夜……ありがとう」
小夜は目に涙を溜めている。亮の腕の中で体を起こし微笑んだが、今、私の笑顔はきっと、泣き顔よりも醜く歪んでいるだろう。
「立てるか?」
亮に抱きかかえられて立ち上がり、椅子に座った。彼が私の前に跪き、乱れた髪や服を整えてくれる。ただ、その微笑みは、とても悲しげだった。
「ごめんなさい」
「そうよー、心配したんだから! まったく、あんたったら何度かけても電話に出ないんだもん。松本さんに謝んなさいよ! 心配して私にまで電話してきたんだから」
お小言口調の小夜が口を挟む。
「え? 電話?」
バッグから携帯を取り出してみると、画面には十数件もの亮と小夜の着信履歴があった。
「ごめん、全然気がつかなかった」
「いいよ。おまえが無事ならそれでいい」
亮が優しく微笑みながら、頭を撫でてくれた。
「じゃ、私、帰るわ。まだ仕事いっぱいあるし」
「ごめんね小夜、忙しいのに」
「いいって! さーて、今日は何時に上がれるかな。んじゃ、お先」
小夜は音もなく玄関に走って行った。そうか、スリッパを履く余裕もなかったのだ、と、さっきの状況を思い出した。
騙すつもりはなかった、傷つけたくなかった、守りたかった、と、啓は言った。その言葉を無意識に反芻するたびに、刃こぼれだらけの錆びたナイフで切りつけられるように、あの目、あの表情、言葉が、一つ一つが刻みつけられる。
啓を親友と思い信じ、疑いもしなかった。彼の思いなぞ何も知らず、五年もの間騙され続けていた私は以前と同じ、愚か者だ。
「飲みなさい」
いつのまに入れてくれたのか、亮がミルクティーを手に持たせてくれた。甘い香りが漂う。両手で熱いカップを包むと温度のない指先がじんじんと痺れる。少しの間、香りを嗅いでじっと立ち上る湯気を眺め、マグカップをテーブルに置いた。
「ありがとう。もう大丈夫だから」
「瑞稀……」
「仕事放り出して来てくれたんでしょ? 忙しいのに心配かけてごめんなさい。大丈夫だから仕事に戻って、ね」
彼の気持ちは痛いほどわかる。だから、その気持ちに応えようと精一杯の笑顔を向けた。
「わかった。何かあったらすぐに連絡するんだよ」
「うん。ありがとう」
椅子から立ち上がると、強く抱きしめられた。私を包む彼の匂いが冷えた心に安心感を与えてくれる。
そして、いつものように唇を求められた時、反射的に顔を背けてしまった私に彼は何を感じただろう。一瞬、戸惑ったように体を硬くしたが、何も言わず、髪にキスをしてくれた。




