ー25ー
噂の移り変わりの早さには驚愕する。昨日彼女たちが予言した通り、朝、オフィスへ出勤すると、すでに私に対する好奇の目はほぼ消えていた。代わっての話題は、松本亮の温泉デート。どちらにしろ噂の主が自分であることに変わりはないので、何ともいえない気分ではあるが、醜聞が立っていた昨日までよりは、かなりマシな状況だ。
「河原さん、私の言った通りになったでしょ?」
白石さんが得意そうに目配せをしてきた。その手元には、裏SNSの画面を開いた携帯が握られている。
「ねえ、これもう見た? また新情報よ! 松本さんの相手、モデルだって!」
木村さんも同様に画面をスクロールしながら、たくさんつけられていたコメントを見せてくれる。
松本亮の恋人は、ついにモデルにまで昇格してしまった。もし、この噂の人物が私だと知ったら、彼女たちはきっとがっかりするだろう、と、事実を隠していることに罪悪感を覚えた。
「そうそう、今日、三浦さん見かけないね?」
「うん。どうしたんだろ? お休みかな?」
「そういえば、あのハゲ親父も今日は見てないわ」
「酒井さん? 酒井さんは来てるはずよ。デスクにはいないけど、さっき廊下ですれ違ったもん」
三浦理恵の姿は、私も朝から見ていなかった。あの一件、朝一で亮が事の次第を本田さんに報告し、彼女にも事情を聞いたはずだ。もし、彼女が認めれば、そのまま何らかの処分がなされるだろう。結局、退社時まで彼女は姿を見せなかった。
昨夜、電源を切って放置した携帯は、他に連絡手段がなくいつまでもそのままというわけにもいかないので、出勤前に仕方なく電源を入れた。予想通り、啓からの着信履歴ばかり。メッセージも多数あり、その内容はすべて、会って話がしたい、話を聞いて欲しいというものだった。
私は、到底彼と話をする気分にはなれず、話すことは何もないとメッセージを入れて、それをブラックリストに入れた。
プロジェクトはリリース間近で、尋常ではない忙しさになっている。しかし、モニタに向かい作業をしているはずが、いつの間にか昨夜の啓を思い出してしまい、まったく集中できない。このまま続けても効率が悪過ぎる。亮には昨日の疲れで体調がすぐれないため、打ち合わせの後早めに帰って休むとメッセージを入れ、外出することにした。
何となく真っ直ぐ家に帰りたくなくて、駅前のスーパーマーケットに寄った。特に目的もなく店内を歩き回るうち、卵が切れているのを思い出し、買い物カゴへ入れた。朝食用のパンと、亮に叱られたくて彼の怒った顔を思い浮かべながら、大きなパッケージのアイスクリームも買った。少し混んだレジに並び会計を済ませ、ポリ袋をぶら下げて亮のマンションの前を通り自宅までトボトボと歩いた。
オートロックを解除し自動ドアを抜けようとした時、入り口の脇の少し奥まった所にいる啓に気づいた。
そのまま、何も見なかった風を装い歩き出した時、がっしりと腕を掴まれ足を止められた。ガシャっと鈍い音。掴まれた腕から滑り落ちた袋の中の卵が割れたのだろう。
「離して!」
「ごめん、俺……」
啓はハッとした顔をして私の腕を離し、腰を屈めて地面に落ちたそれを拾った。
「瑞稀、ごめん。頼むから俺の話を聞いてくれ」
彼はポリ袋を手に持ち、俯いたままその場を動かない。今この場で、話は聞きたくないと拒絶したところで、受け入れられはしないだろう。私は、その言葉に答えず、無言でポリ袋を彼の手から奪い取り、部屋へ向かった。
ダイニングテーブルの中央に鍵とバッグ、ポリ袋を置いて、コートも脱がずに椅子に座った。あとから入っていた啓も無言のまま向かい側の椅子に腰を下ろした。気まずい沈黙の中、俯いたまま話のきっかけを探しているであろう啓に、言葉なんてかけたくない。
「瑞稀……」
「疲れてるから休みたいの。帰ってくれる?」
「ごめん。少しだけ、少しでいいから、俺の話を聞いてくれ」
「今更何の話?」
啓はあの人と連絡を取っていて、それを隠していたのだ。その事実を目の当たりにし、もう顔すら見る気になれずにじっとテーブルの上のポリ袋を見つめていた。
「あいつが、日本に帰って来るから、久々に会おうって連絡してきて……ごめん、隠すつもりはなかったんだ」
「隠すつもりだから、隠してたんでしょ?」
「いや……ごめん」
「日本に帰って来るって、外国にでも行ってたわけ?」
「あいつは、ずっとシンガポールに……」
「ずっと? ずっと隠してたんだ?」
「そ、それはそうじゃなくて……」
目があったその一瞬、彼の目が泳いだのを見逃さなかった。そう、この人は、嘘や隠し事が苦手。昨日まで気づかなかったのは、ただ私がそこに思い至らなかっただけなのだ。
「ちゃんと話して」
「わかった。言うよ。あいつは、ずっとシンガポールにいたんだ。俺は、知ってた。でも、今更、お前に言えなくて……ごめん、本当に隠すつもりじゃなかったんだ」
「そうよね、今更よね。もう五年も前のことだもの。聞いたからってどうするものでもないわ。でも、啓はいつから知ってたの?」
「いつからって……それは」
啓は顔色を変え、目を伏せた。その様子に嫌な予感がしたが、話を始めてしまった以上、もうここで中断はできない。
「そう、じゃあ、あなたはどちらがいい? 正直にすべて話してくれる? それとも、今、友達やめてここから出て行く? 私はもうどちらでもいいわ」
何の感情も伴わない無機質な声で、最後通牒にも似た言葉を発している私は、きっと能面のような顔をしているのだろう。切なそうな苦悶の表情を浮かべている啓を見ても、もう何も感じなかった。




