ー24ー
「すみません。ちょっと電話」
啓の声にハッと我に返り、一人でとりとめのない考え事をしていることに気づいた。啓は通話を始めながら、席を立ち個室の外へ出て行く。あの電話が終わったら、二人きりで少し話ができるかもしれない。そう思い立ち、私も席を立った。
「トイレ行ってくる」
トイレへ続く廊下のドアを開けると、啓がドアに背を向け、壁に寄りかかって誰かと話をしていた。
「わかった。じゃ、今すぐ行く……うん……じゃ、あとで」
ドアの音に驚いたように啓が振り返り、私の顔を見るなり急いで電話を切り上げたように見えた。
「どうしたの?」
「いや、別になんでもない。ちょっとこれから人に会わなきゃいけなくなってさ。先に失礼するよ」
「こんな時間から?」
啓は無言のまま、一歩、また一歩と近づき、目の前で足を止め、私の肩にポンと軽く両手を置き、真っ直ぐに私の目を見つめた。
「結婚するのか」
「え? あれは違うの。方便だって。ホントにまだそんな話ないから」
「そっか。でも、付き合ってるんだろ?」
「うん」
「そっか……」
「ごめんね。忙しくて話す暇なくて」
「いや、いいんだ。松本さんは、瑞稀のこと大切にしてくれてる?」
「うん。すごく良くしてくれる」
啓にこんな話をするのはなんだか照れくさくて、へへへと力なく笑った。
「よかったな。じゃ、俺、ちょっと挨拶してから先に出るよ。また連絡する」
「うん」
啓は右手で私の頬を撫でて小さくため息をつき、その手を離した。横をすり抜けドアを開けて出て行く彼の後ろ姿が、なぜか孤独そうに見えた。
個室へ戻ると、啓はすでに帰った後だった。自分の席に戻り、関根さんと小夜の漫談のようなやり取りを聞きつつ、取り分けられた料理を少し突いた。そして、焼酎の入ったグラスを弄んでいる時、ふと、一つの疑問が浮かんだ。
「あのさ、小夜。小夜はどうして関根さんの頭のこと知ってたの?」
「え? どうしてって、あんた、まさか、それも覚えてないの?」
きょとんとした顔をしているのがそんなに面白かったのか、小夜はドンドンとテーブルを叩いて笑い出した。
「あはははは! あんたさ、バーで初めて一緒に飲んだ時、『この頭は詐欺だ、これは私がもらっておく』って言ってこいつのカツラと眼鏡むしり取って、自分のバッグにしまい込んだの、忘れた?」
その時初めて、関根さんがいつも私を褒める言葉の前につける『やっぱり』の意味を理解した。
あの日、酔った私はどれだけのことをしでかしたのだろうか。もしかしたら、まだ他にも色々やっているのかもしれないと思うと、自分が恐ろしくなった。
「そろそろ帰ろう」
時計を見ながら亮が立ち上がった。もうそんなに遅いのかと時計を見るともう十時十分前。小夜はかなり酔っていたので、一人で帰すのは危ないと関根さんが送ることになり、四人で店を出た。関根さんに抱えられ、文句を言いつつ前を歩く小夜の後ろ姿を眺めながら、亮と手を繋いで駅へと歩いていた。
「あ、あれ、啓司さんじゃない?」
小夜が指差した方向に目を向けると、誰かと話をしながら歩く、啓らしき人の後ろ姿があった。
「啓司さん!」
関根さんの手を振りほどき、小夜が危なっかしい足取りで啓の元へ走って行った。小夜の声に振り返った啓の隣にいる男の顔が目に入った瞬間、その二、三歩後ろを歩いていた私は足を止めた。
「瑞稀……」
私を見た啓の表情が、みるみる強張っていくのがわかる。
「瑞稀?」
啓の隣にいる男が、啓と私の顔を不思議そうに何度も見比べている。
「啓司さん? 家に帰ったんじゃなかったの? この人、誰? 啓司さんのお友達?」
「青木、おまえ、相当酔ってるな? 大丈夫か? 早く帰って休んだ方がいいぞ」
ふらつく小夜の体を支えながらも、啓の怯えたようなその目は、私を見据えたままだった。
「本当に、瑞稀……なのか?」
目の前で私の顔を驚いた様子で見つめているその男は、五年前、突然私を捨てて消え、消息不明だったはずの智史だった。
智史がゆっくりと近づき、手を伸ばして顔に触れようとしたその時、私は避けるように向きを変え、亮のそばへ駆け寄り、彼の手に自分の手を滑り込ませた。
「亮、帰ろう」
亮の手がぎゅっと私の手を握り締める。私たちは無言のまま、彼らを残しその場を後にした。
亮の部屋へ帰り、ソファーに座った彼の膝に頭を乗せて目を閉じた。無言のままそっと私の肩や髪を撫でる優しい手が心地良い。掌の温度が固く凍りついた心を温め溶かしていく。
「今夜はここで寝てもいい?」
「いいよ。先にシャワーを浴びておいで」
静かな部屋の中で、バッグの中の携帯が着信を示すバイブが響いては止まりを繰り返している音だけが聞こえる。少し苛立った私は、起き上がってバッグから取り出した携帯の電源を落とし、テーブルの上に放り出した。
熱いシャワーを浴びてベッドに横になり、目を閉じて彼を待った。もう何も考えたくはないのに、啓のあの怯えた瞳が脳裏に焼き付いて離れない。
シャワーの熱気と湿り気を帯びた彼の身体が私を包む。彼の背中に腕を回して胸に顔を埋め、じっと心臓の鼓動を聞いていると、心が落ち着いていく。彼は子供をあやすように私の背中をポンポンと叩き、おやすみと言って髪にキスをした。
「何も聞かないの?」
「いいから。今夜は何も考えないで、もう寝なさい」
この人は何も言わず何も聞かず、私のすべてを受け入れてくれる。ゆっくりと静かに囁く優しい声を聞きながら、言われるままに瞼を閉じた。




