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ー21ー

「遅くなりました」


 その声と共にドアが開き、亮が本田さんの返事も待たずに入室し、黙って私の隣に座った。


「早かったな」

「打ち合わせが早く終わったので。こちらの方は? いったいどういうことですか?」

「これを見てくれ」


 本田さんが、亮と関根さんにメールのプリントを渡した。


「すげえ……これ瑞稀ちゃんが書いたの?」


 関根さんがプリントから目を離し、私に向かってニヤッと笑った。


「関根」


 静かな会議室に亮の冷たく低い声が響く。その一声に関根さんの顔が強張ったかと思うと、不満そうに口を尖らせた。


「怒るなよー。冗談に決まってるだろ?」

「今、ちょうど、このメールの件で河原さんに事情を聞いていたところだ」

「事情って、彼女に聞いても……」

「調査に入る以前に、まず、本人に事情を聞くのが筋だろう?」

「本人って……まるで彼女を疑ってるみたいな言い方じゃないですか!」


 関根さんがムッとした顔で本田さんを睨み、少し声を荒げた。


「関根、おまえはいいから。本田さん、それで、彼女にはもう一通り尋ねたんですか?」


 亮が静かに口を開いた。


「ああ。彼女は自分が書いたものではないと言っている」

「それはそうでしょう。こんなものを書く理由は、彼女にはありませんから」

「うん。それはさっき、河原さんから聞いた。だから、とりあえず誰が書いたかは保留にして、連休中の行動を一応聞いておこうと思って。旅行してたそうだが……」

「保留?」

「いや、別に、河原さんを疑っているわけではないんだ。ただ、はっきりするまでは保留ということだ」

「そうですか、わかりました。では、俺からもう一度。彼女にはこんなものを俺に宛てて書く理由はなく、物理的にも不可能。そういうことです」


 本田さんを見据えるその瞳には、静かな怒りが浮かんでいた。


「それ、おまえが断言してどうする? おまえは仕事上、彼女と近い位置にいるから、庇いたいのはわからないでもないが」

「庇ってるわけじゃありません。その通りだから、そう言ってるだけです」

「信用するのはいいんだ。俺だって、別に本当に疑っているわけじゃないんだから。ただ、何の証明もなしっていうわけには……正式に調査となると大事になるし」

「証明ですか?」


 亮は少し間を置いてから、意思を確認するように私の顔を見て微笑み、一つ小さな息を吐いた。そして、ジャケットの胸ポケットからおもむろに携帯を取り出し、ボタンを操作して写真を表示し、本田さんの目の前に差し出した。


 テーブルに置かれた携帯の画面には、湖を背にして二人並んで撮った写真があった。


 本田さんは、その写真を食い入るように見つめている。横から首を伸ばし画面を見ていた関根さんが、ひょいとそれを取り上げ、画面を操作し始めた。


「何これ? 瑞稀ちゃん……すっげー綺麗」


 関根さんは手を止めて、恍惚と画面に見入っている。


「おい関根、何やってるんだ」


 本田さんが携帯を取り上げ、テーブルに置いた。そこにあったのは、キラキラと輝く湖面を見つめ、風に髪をなびかせて立つ私の横顔。


「亮! やだ、こんなの、いつの間に撮ったの?」


 びっくりして思わず口を出してしまった。


「松本、この写真の……」

「瑞稀です」


 本田さんが、これ以上ありえないほど目を大きく見開いて私を見た。彼はこの顔しか知らないのだから、驚くのも無理はない。


「おまえら、二人で旅行? どこ行ったの?」


 関根さんは再びテーブルの上の携帯を手にして、次々と写真を捲っている。


「お、温泉」


 彼の携帯の中にどんな写真が入っているのか、まだちゃんと見たことはない。だが、あの日の際どい写真が入っていることだけは知っている。その上、私をからかうのを生業にしている亮に、さらに変な姿を撮られている危険もある。まずい写真を見られなければいいがとドキドキしながら関根さんの指の動きを見ていた。


「温泉? 二人で? 何で俺を誘ってくれなかったの?」

「何でおまえを誘わなきゃいけないんだよ?」


 大声で苦情を言う関根さんに、呆れた顔をした亮が冷たく言い放つ。


 さっきまでのピリピリした空気はどこへやら。関根さんにはやはり、空気をかき乱す天才的な素質があるのだ。可笑しくて、俯きクスクスと笑った。


「松本、聞いてもいいか? おまえたち、いったいどうなってんの?」


 ようやく少し正気を取り戻してきた本田さんが、状況を把握する気になったようだ。


「俺たちですか? 俺たちは結婚を前提に付き合いしてます」

「結婚?!」


 突然の言葉に驚き思わず大声を上げ、椅子から飛び上がりそうになった。結婚なんて言葉は彼の口から一度も聞いたことがないし、私だって口にするわけがない。それどころか、つい昨日まで私たちの付き合いは、恋愛でもなければただ賭けをしているだけだと信じていたくらいだ。それが、突然結婚とは、あまりに飛躍し過ぎではないか。


「瑞稀? 座りなさい」

「あ?」


 亮に座れと言われ、初めて自分が呆然と立ち上がっていることに気づいた。本田さんと関根さんは挙動不審の私を唖然と見つめている。


「まあその、何だ。これで状況ははっきりしたわけで……。ここからは関根、おまえの領域だから任せるよ。わかってるだろうけど……」

「もちろんわかってますって。こっそりやればいいんでしょ?」

「そういうこと。わかっていればいい。河原さん、変なこと聞いて悪かったね」

「いえ、当然のことですから」

「ところで、松本とはいつから?」

「は?」


 キラキラと好奇心に満ち溢れたこの目には既視感がある。そう、小夜だ。


「本田さん、今はそれどころじゃないんですから、その話はまた今度にしてください」

「そうそう、松本の言う通り、先にこっち片付けちゃいましょうよ」

「悪い悪い、そうだった。じゃ、ちょっと早いが俺は昼飯でも食ってくるか」


 時計を見ながら立ち上がった本田さんを関根さんが引き止めた。


「昼飯だったら弁当でも買って、相談がてら俺の店行きましょうよ」

「ああ、それ効率いいわ。じゃ、関根、弁当おまえのおごりでよろしく」


 本田さんは、さっきまでの深刻そうな様子が嘘のように軽い口調でそう言うと、浮かれた足取りでさっさと会議室を出て行った。この調子の良さはまるで関根さん。この本田と言う人は、きっと小夜と関根さんを混ぜたようなタイプなのだ。





 金遣いが荒くて奥さんに怒られると愚痴りながら、本田さんは弁当の代金四人分を支払い、買った弁当を関根さんに運ばせた。


 店に着くと、関根さんは、先に私たち三人を座らせ飲み物を取りに行き、亮は慣れた様子で私の弁当の蓋を開け、おかずの塩鮭を蓋の上に取り出し骨を取り始めた。


「食べきれなかったらご飯は残していいから、おかずは全部食べなさい」


 向けられる視線が痛い。二人きりの時は嬉しいけれど、人前でこの扱いをされるのは、さすがに恥ずかしい。


「瑞稀ちゃん、こいつ、いつもこんななの?」


 テーブルに飲み物を並べながら呆れ顔の関根さんに、どうにかしてくれと目配せをしながら小さく頷いた。


「細かい奴だとは思ってたけど……よかった、俺、こいつと付き合わなくて」


 真顔で放たれたその言葉に、本田さんが飲みかけのお茶を吹き出して苦しそうに咳き込んだ。


「冗談はいいから。それで、どこから手をつける?」


 真剣な顔をして鮭の骨を取り除きながら、亮が言う。


「うん、先に状況の把握と範囲を絞って、それからだな。まず、IDとpasswordは管理者が渡してるのをそのまま使ってるわけだから、瑞稀ちゃんのpasswordを知ることができるのは、瑞稀ちゃん本人と権限を持っている管理者だけ。つまり、管理者か、それに近い奴が、passwordを手に入れて、瑞稀ちゃんを偽装したってことだ。人数は限られてるけど、これを調べるのはちょっと手間だな」

「そうね。相手を特定する決め手がないわ」

「うん。それに、passwordを手に入れた奴とメールを出した奴が同一とは限らないだろ? だから、そっちは置いといて、メーリングリストの方から手をつけた方が早いってこと。うちの社内ネットワークにアクセス可能なのは、登録済みの端末だけだから、あの時間にメールを送信した端末がわかれば、その持ち主を特定できる。もっとも、それが瑞稀ちゃんのだったら、どうしようもないけどね」

「私、それは多分ないと思う。私が登録してる端末で可能性があるのは、オフィスのマシンだけだわ。あれだけの長いメールよ? 書くのにわざわざ慣れない他人のを使うとは思えないし、せいぜい使うとしても送信だけじゃない? でも、こういうことする人って発想が単純だから、そこまで手の込んだことはしないもんよ。私がターゲットだったら余計にそう。関根さんだって、あの噂聞いてたらわかるでしょ? あれだけ言われてれば、誰でも私だって信じちゃう。私と亮との関係も社内では誰も知らないしね。だから、そこまで調べるなんて予想してないはずよ」

「うん。それはそうだね」

「それに、あのメール書いたの、絶対女よ」

「どうしてわかるの?」

「男の人はあんなの書かないわ」


 メールの文面を思い出し、あははと大声で笑った。


「おまえ、そうとう場数踏んでるな」


 隣で黙々と弁当を食べながら二人の会話を聞いていた亮が、突然ボソッと呟いた。


「当然でしょ?」


 きれいに骨が取り除かれ、食べやすいよう一口大に小分けされた塩鮭を口に放り込み、味わいながらにっこり笑った。


「やっぱり、女って、怖い生き物だな……」

「さすが本田さん、既婚者だけあって、実感こもってる」

「関根、人ごとじゃないぞ。おまえも気をつけろ」

「何で俺? こいつらは?」


 三人に嘲笑され、居心地悪そうに不貞腐れた関根さんが、思い直したように言葉を続けた。


「で、結論だけど、とりあえず一昨日の夜メールを送信したマシンを俺が洗い出すから、それまで瑞稀ちゃん、悪いけど……」

「うん。わかってる」

「俺も、今日はもう外出しないでデスクにいるから」

「うん。心配しないで。私は平気だから」

「じゃ、三人は先に戻ってて。で、仕事終わったら、またここでってことで」


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