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人は楽にはすぐ慣れるよとよく聞くがまさにその通りだ。たかだか三日留守にしただけなのに、ザラザラと埃っぽい空気は不快だし、騒音も煩わしい。よくも毎日こんなところで慌しい生活をしているものだと、感心しながら朝一番で自分の会社に出向いた。
温泉旅行の話を聞きたくてうずうずしている小夜に、あんたのお土産は別よと目配せをしながらみんなで食べてと温泉饅頭を渡して、早々に打ち合わせを開始。修正や追加等細かい部分をすり合わせながら、すぐに戻ると言って出て行った啓を待っていたが、一時間経っても戻る気配がない。ゆっくりしている時間もないので引き上げようと準備をしていると、本田さんからすぐに来るようにと電話があった。その通話が切れると今度は亮からだ。何か問題が起きたのでなければ良いがと、不安に思いながら通話ボタンを押した。
「亮、どうしたの?」
「本田さん、何か言ってきた?」
「うん。今、すぐ来いって電話があった。なんだろ? 何かあったのかな?」
「そうらしい。俺も今まだ客先だから詳しいことはわからないけど、ちょっと面倒なことになるかもしれない。今どこ? 会社へは何時頃着きそう?」
「今? まだうちの会社。これから出るところだから、三、四十分くらいで向こうに着くと思う」
「わかった。じゃあ、おまえの方が先だな。本田さんが何か言ってきたら、俺が戻ったら一緒に話をするからって断って、俺を待ってて。わかった?」
「うん。わかった」
「あ、そう、関根にも連絡してあるから。あいつは俺より先に着くと思う。大丈夫、心配しないで」
そう言い残して、通話が切れた。
彼が仕事のことで心配して連絡をしてくるだけでも普通ではないのに、関根さんまで呼び出すとは、よほど大きな問題が起きているのかもしれない。私の傍らで心配そうに聞き耳を立てていた小夜に、何かトラブルがあったらしいことを告げ、詳細がわかったらすぐ連絡を入れるからと約束して急ぎ会社を後にした。
オフィスに着くと、すぐ私の姿を見つけた本田さんに、自分もすぐに行くからと小会議室で待つように指示をされ、自分のデスクには寄らず、直接小会議室へ入り彼を待った。
椅子に腰掛けて暫く待つと、ドアが開き、本田さんが一人入室してきた。
「忙しいところ申し訳ないが、ちょっと問題が起きてね。とりあえず、これ見てくれる?」
一枚のプリントを差し出し、向かい側に座って、机の上で腕を組んだ。
「あの、松本さんからも連絡いただいていて、自分が行くまで待つようにと指示されているんですが」
「そう? わかった。でも、とりあえず、これ読んでみて。話はそれからだ」
そのプリントは一目見てメールだとわかる。ただその内容は、口にするのもおぞましいほど露骨で卑猥だった。
「これは……?」
「プロジェクトのメーリングリストに流されたものだ。送信元を見て」
「あ、これ、私のですね」
亮宛てに書かれたこの文面から察するに、誹謗したい或いは陥れようと誰かが私を偽装し捏造したものだ。それにしても、仕事のメーリングリストを使い、メンバー全員にこれを読むように仕向けるとは、かなり悪どい手法だ。
「個人的なことで、わざわざ君を呼び出してどうこうというつもりはないんだ。しかし、メーリングリストを使ったとなると、たとえそれが送信ミスだったとしても、やはり見過ごすことはできないからね」
「もしかして、本田さんは、このメールを書いたのが私だと思っていらっしゃるんですか?」
深刻そうな面持ちで言葉を続ける本田さんの顔を見て、思わずクスッと笑ってしまった。
「いや、そういうわけでは。とりあえず、最後まで話をさせて」
「はい。続けてください」
「君が書いたと決めつけて話をしてるのではなくて、君の名前が挙がっている以上、最終的には調査すれば誰がやったことなのかはわかるだろうが、その前に一応話は聞かなきゃいけない。わかるね?」
「はい」
「それで、とりあえず君に一通りのことを尋ねるわけだけど、調査の手順として尋ねるだけだから、悪く思わないで。いい?」
「はい。わかりました」
「では聞くが、これは君が書いたものかな?」
「いいえ、違います」
「本当に?」
「本当です。私が書いたものではありません。第一に、私がこういうものを松本さんに書く理由がありません。第二に、私がこれを送信するのは物理的に不可能です」
「しかし……あ、いや、疑っているわけじゃないから悪く取らないで。ただ、君については色々噂も聞こえてくるから。でも、念のために尋ねてるだけだから、誤解しないで」
「はい。わかっています。しかし、理由については、ないものはない以外説明のしようがないので、信じていただくしかありません」
「そうだね。じゃあ、物理的に不可能というのはどうして?」
「私が仕事に使っている端末は、携帯と弊社内とこのオフィスのマシンの三台ですが、携帯は自宅に置いたまま、連休初日の朝から旅行に出かけていましたので出社はしておりませんし、旅行から帰ったのは昨日の夕方ですから、物理的に不可能と申し上げました」
「それ、証明できる?」
「証明……ですか?」
「例えば、一緒に旅行した人とか……」
くだらない話だ。メールの送信が不可能であることを、証明しろとまで言われるとは思わなかった。もしかしたら、この人は表面では聞こえの良いことを言いながら、本心では私がメールを出したと疑っているのかもしれない。
「すみません。遅れちゃって」
キーッとドアの音と大きな声が聞こえ、入り口へ顔を向けると、ノートパソコンを抱え入室してくる関根さんと目があった。
「なんだ関根? おまえなんか呼んでないぞ?」
「おまえなんかはひどいなあ! 松本がね、来いって言うから来たんですよ。よっ! 瑞稀ちゃん、久しぶりー」
会社用に変装した関根さんが、右手をちょっと上げてにっこり笑う。私も頷き、笑顔を返した。
「なんだ? おまえら、知り合い?」
「ちょっと待ってくださいねー。これ、セッティングしちゃいますからー」
関根さんは本田さんの言葉を無視して机にノートパソコンを置き、ブツブツと独り言を言いながら、ケーブルを接続し起動させキーボードを叩いている。その様子を、本田さんが不思議そうに眺めていた。
「とりあえずこれで準備オッケーっと! あ、もうすぐ松本も来るはずですから、話はそれからってことで」
話を遮られ、不満そうに本田さんは口を閉ざした。微妙な静けさの中で、カチャカチャとキーボードを叩く音だけが響いている。




