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シャワールームを出て体を拭き、ガウンを手にとったところで躊躇した。下着もつけず、素肌にこれ一枚羽織っただけの姿を見られたくはないが、まさか服を持ってきて欲しいと頼むわけにもいかない。意を決してドアを開けると、目の前に男がいた。
「はい、着替え。君の服、汚れて着られる状態じゃなかったから、とりあえずこれ」
「すみません」
服を受け取り、バスルームへ戻ろうと背を向けた時、また声がした。
「あとこれも」
振り返ると、ブラジャーとパンツを目の前でひらひらされた。無言で睨みつけ、その手からそれをむしり取り、すぐさまドアを閉めた。顔から火が出そうだ。
その服は、いかにもブランド物の藍色のワンピースだった。
彼女の服のみならず下着までも知らない女に平然と着せてしまう男。陰で遊んでいるというだけでも十分最低なのに、デリカシーのかけらすらない。きっと彼女は何も知らないのだろう。もし知ってしまったらどれだけ傷つくことか。私は会ったこともない彼女にすっかり同情してしまった。
とはいうものの、このままでは家に帰ることもできないので、ワンピースを着ることにした。下着に至ってはさすがに少し躊躇したが、やはり背に腹は変えられない。ブラジャーはかなりカップサイズが大きかったが、無しで済ますというわけにもいかず、仕方なく拝借し身支度を整えバスルームを出た。
物音がする方へ行ってみると、そこはリビングダイニング。カーテンが開け放たれ、ベランダに面した大きな窓から明るい光が差し込んでいる。ダイニングテーブルの前には、カップにコーヒーを注いでいる男がいた。
「お腹空いたでしょう? 座って」
彼は私に微笑み、手に持っていたコーヒーポットをテーブルに置き、私の肩を抱いて椅子に座らせて、自分は向かい側に座った。
「忙しくて買い物に行ってないから、簡単なものしかないよ」
テーブルに並んでいたのは、二人分のスクランブルエッグ、ソーセージ、牛乳と淹れたてのコーヒー。トースターからはパンを焼く香ばしい香りが漂ってくる。平日はギリギリまで寝てコーヒーを一杯啜るのみ、週末も睡眠優先で、朝食を取る習慣のない私にとっては、充分贅沢だ。
私たちは静かに食事を始めた。
昨夜起きたであろうことがどうしても頭から離れず、明るい部屋で向かい合って食事をするのは、何とも気恥ずかしい。さっさとこの部屋を出て家へ帰ればいいのに、促されるまま言いなりになっている自分にも腹がたつ。
「これも飲みなさい」
目の前に牛乳の入ったグラスが差し出された。
「牛乳は……」
「これは豆乳。飲むと大きくなれるらしい」
「はぁ?」
顔を上げると、正面に面白そうに笑っている男の顔がある。
「痩せ過ぎだね。普段ちゃんと食べてないでしょう? 食事はきちんと取らなければダメだよ」
そう言いながら、トーストにバターを丁寧に塗り、私の皿に置いた。
「私はこのままでいいんです」
「俺は、もう少し肉付きがいい方が好きだな」
「痩せてようが太ってようが私の勝手でしょ?」
失礼な物言いに腹が立って口を聞くのすら嫌になり、フォークを握って皿の上のトーストをぐっさりと突き刺した。
「こら、食べ物で遊ぶな。ちゃんと食べなさい」
人をからかったかと思えば偉そうに注意する、こいつはいったい私の何だというのだ。
怒りはこみ上げてくるものの、それ以上に頭が混乱して返す言葉が浮かばない。視線を感じつつ、顔を伏せたまま黙々と目の前にある食べ物を口に運んだ。当然、味は全くわからない。
食事を終えると、男は立ち上がった。
「駅まで送ろう」
「あの……一人で帰れますから」
「初めて来たのに、一人で帰れるの?」
この人から一刻も早く解放されたい。自分が今いる場所がどこで、どうやって帰ればいいかわからないのは本当だ。でも、そんなことは外へ出て人に尋ねてもいいし携帯だってあるのだから、簡単に解決する。そう言いたいのは山々だったが、至極当然という顔で私を送ると言っている男に、面と向かってそれを言うことができない。
「……すみません」
腑抜けた自分にげんなりした。
部屋から一歩外へ出ると、熱い湿った空気が呼吸を辛くする。丸一日降り続いた雨は、嘘のように止んでいた。空気中の埃はすっかり洗い流され、湿り気の残った灰色の建物や道路は、幾分秋の気配を感じさせる太陽の光に照らされてキラキラと輝いている。
私の歩調に合わせ先導するように前を行く男の背を眺めながら歩いた。もう少しの我慢、駅まで歩けば解放されるのだ。そう思うと少し気持ちが軽くなる。
しかし、エレベーターを降り、マンションの自動ドアから一歩外へ出た途端、目の前に広がる見慣れた景色に、足がすくんだ。
「あ?」
「どうしたの?」
突然発した叫び声に、前を歩く男が足を止め振り返った。
「用事を思い出して……私、急ぐので一人で……」
「そうなの? じゃあ急ごう。すぐだよ。ここから五分も歩けば地下鉄の駅だから」
男は私の手を掴み、そのまま駅の方向へと早足で歩き出した。
男の住むマンションは、表通りから一本入った細い通りの角にある。道を挟んだ並びは公園、正面の道と表通りの交差点左角には、私のお気に入り、大福と水羊羹が有名な和菓子屋がある。交差点を渡って左方向に歩くとすぐ地下鉄の入り口に着く。三、四分といったところだろうか。その途中には、夜中にお腹が空いて食べるものが何もない時に、夜食とデザートを買うコンビニ。駅前の小さなスーパーマーケットは特に生鮮食料品が安くて新鮮。毎週末食料品の買い出しをする。
地下鉄の入り口に着くと、男は繋いでいた手を離し、手を伸ばして私のほつれた髪を耳にかけそっと頬を撫でた後、じゃあねと言ってマンションの方向へ戻って行った。しばらくの間、ぼんやりとその後ろ姿を見送った。
あのマンションから自宅までは徒歩三分ほど。この駅からは、今来た道を戻り、あのマンションの前の道をまっすぐ歩くのが一番近い。どうやって帰ろう。自宅を知られたくはないから、このまま後ろを歩いて帰るわけにはいかない。回り道をする方法もないではないが、もしどこかでばったり会ってしまったら終わりだ。
幸いにも私の住んでるマンションは、もう一つ別の地下鉄路線の駅とのほぼ中間点にある。多少時間はかかるが、ここから数駅乗ればもう一つの路線に乗り換えて帰ることができる。
他に手立てはない。仕方なく駅の階段を降り改札口へ向かった。
徒歩七分の道のりに三十分もの時間を費やしてやっと帰宅。玄関に入ると、締め切った部屋のむっとした空気が私を包んだ。
寝室でエアコンに向かい顔に冷気を浴びていると、突然、全身の力が抜け立っていられなくなった。一人になったことに安心したのだろうか。気疲れに押し流されるようにベッドに突っ伏した。全身がだるく少し熱い。身動きもできず、そのままの姿勢でベッドに横になっていた。
一夜の情事。
自分の身にこんなことが起きるなどとは思ってもみなかった。相手は、軽薄な遊び人。だが、私の方こそ、出会ったばかりの男に簡単についていく軽い女だと思われているに違いない。もっとも、あいつに何を思われていようと、そんなことはもうどうでもいい。昨夜のことは、もう終わったことだ。
それにしても、二度と会うはずのない、二度と会いたいと思わない相手が、同じ生活圏の中で暮らしている。まるで小夜の好きなドラマのようなことが現実に起きるとは。これから先、一ヶ月か、二ヶ月か、しばらくの間は不自由だが、あの男が私の顔を忘れるまでは、あのマンションには近寄らずに暮らさなければならない。スーパーマーケットもコンビニも、別の店に行くようにして、できる限り危険を避ける必要がある。ただ、あの和菓子屋の大福を我慢するのは辛い。
あれこれ考えを巡らせることに疲れ、ぼーっとしてくると、目覚めた時に受けた衝撃とその後のできごとが、映画の一場面一場面を観るように、ぐるぐると頭に浮かんでは消える。そして、私はいつのまにかそのまま眠ってしまった。