ー19ー
朝の光で目をさますとそこには、私を腕に抱きながら眠るあの日の朝と同じ顔があった。
あの日の朝と違うところは、目の前にいる人がもう一夜の情事の相手ではないことと、私がすこぶるご機嫌なことだ。
至近距離で綺麗な寝顔を眺めていると、私が起きたことに気づいたのか、亮がうんと息を漏らして私を抱き寄せて腰に手を回し、額に唇を押し付けた。
「おはよう。何時かな?」
サイドテーブルの携帯に手を伸ばす。時計は六時半を回っていた。
「もう起きないと」
「シャワー浴びてくる!」
彼が体を起こすより先に、無造作にベッドから飛び降り、床に脱ぎ捨ててあった浴衣を拾った。内湯へ向かう後ろで、明るい笑い声が聞こえる。理由はよくわかっている。昨日までの私と今の私の態度の違いを笑っているのだ。
バスタオルを体に巻きつけてベッドルームへ戻ると、露天風呂に浸かっている後ろ姿が見えた。物思いにふけっていたのか、湯船の側まで行くとようやく彼は私に気づいた。何食わぬ顔で体に巻きつけていたバスタオルを取り、デッキチェアに置いて湯に入った。その様子を眺めながら、彼が苦笑している。
「女の子なんだから、少しは慎みを持った方がいいんじゃない?」
「慎み? なにそれ?」
「いや、だから、少しは隠すとか色々……」
彼の頬はほんのり薔薇色。お湯に長く浸かっていたからだろうか、それとも……。
「誰が見てるわけでもないのに?」
「俺が見てるだろう? あまり堂々としているのも、色気がないというか……」
「堂々としてて悪い? 見られるところは全部見られちゃったし、見るものも全部見ちゃったもの」
意地悪心がむくむくと湧き、わざと目を細め、体の隅々を品定めするように鑑賞しニヤリと笑った。
本音を言えば、明るい日差しの下で体を見られるのは、まだちょっと恥ずかしい。でも、この人に対して、もう自分を偽ったり隠したりしたくないとの思いの方が強かった。
彼が手を伸ばし、私を側へ引き寄せ背中から抱きしめた。首筋に唇が這い、耳に熱い息がかかる。
「誘惑に負けそうだ」
セクシーな掠れ声で囁かれ、心臓の鼓動が高鳴るが、ここで負けるわけにはいかない。
「負けちゃうの? 色気ないのに?」
「色気がないのはおまえであって、この身体じゃない」
「屁理屈」
「うるさい」
「でも、もう七時過ぎたから、上がって服着ないと朝ごはんくるよ?」
唇の動きがピタッと止まる。勝った。
彼は先に湯船から出て、私をバスタオルで受け止め、思わせぶりに笑いながら体を拭いてくれた。急いで服を着て髪を乾かすともう七時半近い。旅館の朝はうかうかとはしていられないのだ。
仲居さんが慌ただしく配膳している朝食は、ご飯に味噌汁、アジの開き、卵焼き、煮物におひたし漬物の小鉢等々、いかにも温泉旅館らしい品数豊富な和食。ここでも彼は本領発揮。魚の骨もまともに取れないのかと人を小馬鹿にしながらも、丁寧に骨を取り除き、自分のと交換してくれる。すぐ小言を言うその口も手の出し方も、本当におばあちゃんそっくりだ。
朝食を終え、身支度を整え、早々に旅館を出発した。今日は昨日よりも天気が良い。朝の空気は冷たいがこの日差しだ。きっと昼間は暖かくて観光にはもってこいだろう。
湖を周遊する道路を少し走って駐車場に車を止め、山に登るロープウェイに乗った。
所要時間はほんの数分だが、少しずつ高さを増すに連れ視界が開けていく。鏡面の如く輝く豊かな水をたたえる湖、人の温かさを感じさせる湖畔に点在する温泉街。もうすぐ冬が来ることを知らせる少し茶色がかった濃緑色の常緑樹と紅や黄色の紅葉に彩られた山々、そして澄んだ青い空。混んだ車内にいることも忘れ、美しさに心を奪われ見とれていた。
「これからどうするの?」
「少し散歩しよう」
駅に到着してロープウェイを降りた時、その意図はすぐにわかった。
彼が選んだ今日の服装は、ジーンズにダウンジャケット、そして足元はスニーカー。山の上の気温は下界よりも低く、ダウンジャケットは大正解。そういえば、私の荷造りも彼がしたのだった。旅行中どこで何をするかはすべて、先にちゃんと計画されていたのだ。
それにしても、散歩と言うそれは、運動嫌いの私にとっては登山としか思えない。山頂を見上げ、何が少し散歩しようだと、心の中で悪態をついた。
整備された道を、手を引かれながら歩くうち、その不満は頭の中からすっかり消え去っていた。
思ったほど歩き難くもなければ、途中の階段に少し閉口するだけで、一周してもそれほどの距離もない。遠くに見える山々に目を奪われて立ち止まり、海が見えれば嬉しくてその場に座り込んで眺めた。あっちを見たりこっちを見たり、突然興味を惹かれては彼の手を振り払い走り出す。淡々と歩く彼を振り返り、手に隠し持った落ち葉も浴びせかけた。
亮が私を連れて歩いている図は、落ち着きのない子供をあやしてを引いて歩くお父さんだ。
「やだ。もう歩けない」
終いには歩き疲れてしゃがみ込んだ。文句を言いながらも、なんだかんだと二時間近く遊んでいただろうか。三百六十度の大パノラマに感動し、写真もたくさん撮影して大満足で山を降りた。
湖畔に立つお洒落なカフェで昼食を軽く済ませ、敷地内の美しく整備された洋風庭園を散歩した。
「ねえ、変なこと聞いてもいい?」
「何?」
「人を好きになるって、どんな感じ?」
欄干に寄りかかり、そよぐ風にキラキラと揺れる湖面を眺め待ったが、答えは聞こえてこなかった。変なことを聞かなければよかったと思ったその時、亮が後ろから私の腰に腕を回した。
「こんな感じって単純なものじゃないし、具体的に言葉にはできないけど、ずっとこうしていたいと思う。でも、これでは答えにならないね」
その声と一緒に湿った温かい息が耳に入った。ゾクゾクとして顔が熱くなる。
「うん」
「瑞稀は?」
彼に寄りかかり、腰に回された腕に自分の腕を重ね、目を閉じて背中でその温もりを感じていた。
「私ね、アメリカにいた時、一緒に暮らしてた人がいたの」
「うん」
「彼とは一年半くらい付き合ったのかな。プロポーズされて半年くらい一緒に暮らしたの。彼の卒業後、結婚してそのまま向こうで暮らす予定で、就職も決めたし部屋も引っ越した。それから、結婚式とか具体的に親と相談するために、彼一人で一足先に日本に帰って、で、それっきり、消えちゃった」
「それっきりって?」
「それっきりはそれっきり。啓と二人で随分探したけど、あ、啓ってうちの社長ね。啓と彼は友達なの。電話もメールもなくなって、連絡も取れなくなって。啓も心配して心当たりを片っ端から当たってくれたんだけど、見つからなかった。一緒に暮らしてた部屋も解約されて、行き場がなくなって兄のところに戻ろうかと思ったんだけど、勉強も続けられなくなっちゃったし、結局、日本に帰ってきた。それで、未だに音信不通。どこで何をしているのかも、まったくわからないの」
「辛いことがあったんだね」
「うん。辛いっていうか、なんだか疲れちゃって。暫く立ち直れなかった」
あの時のことを思い出してあははと声だけで笑うと、彼は私の傷を包もうとするかのように腰に回した手に力を込め、首筋に唇を押し当てている。熱い吐息を感じながら、言葉を続けた。
「そりゃあ、結婚するはずだった人がいきなり消えちゃったんだもん、ものすごくショックだった。探し回るのも大変だったし、事故にあったんじゃないか、トラブルに巻き込まれたんじゃないかって心配もしたしね。こういうのって、そう簡単に忘れられることじゃないでしょ? 小夜と啓は、私が未だに彼を忘れられないから、顔に醜い痣を描いて男を近寄らせないようにしていると思ってるけど、本当は違うんだ。あのね、必死で探して、もうどこにも探す当てがなくなって、彼は私を捨てたんだって確信した時、私ね、がっかりしたのと同時に、なぜかホッとしたの」
無言で話に耳を傾けている彼の反応が気になって顔を見た時、一瞬心臓がドキッとした。何を考えているのだろう。同情とも怒りともつかない初めて見る複雑な表情。
「つまり、結婚がなくなってホッとした?」
「そう、その通り。笑っちゃうでしょ? 彼が私にしたことにがっかりして、ああ、やっぱりこんなもんかって思っただけで、捨てられて悲しいとか苦しいとかは、ぜんぜん思わなかった。そりゃあ一緒にいる時は、好きだ愛してるって言われて嬉しかったけど……それだけ。あの頃はただ、恋愛ってそういうもんだって思ってただけで、人を好きになるってどういうことかなんて、何もわかってなかったのよね」
「今は、わかるの?」
「何が?」
「人を好きになるってこと」
「うん。今ならわかる」
西に傾きだした太陽の光が、風に煽られ小さな波を立てている湖面を照らしている。湖畔を渡る風は冷たかったが、こうして彼の胸に抱かれていると、寒さは感じない。
「あ!」
彼は突然の大声に驚き、何があったのかと私の顔を覗き込んだ。
「何? どうしたの?」
「お土産買わなきゃ!」
「お土産? どうして?」
「だって、旅行に来たんだもん。お土産買って帰らなきゃ」
「誰に?」
「えっと、会社の人と、小夜でしょ。あと、もちろん自分のものね。あなたは? 会社にお土産買うでしょ?」
「俺はどっちでもいい」
「あ、あと関根さん」
「関根? なんであいつに?」
「どうして? 友達でしょ? 亮が買わないなら、いいよ、私が買う」
「あいつから土産なんて一度ももらったことないから、買わなくていい」
不機嫌そうな命令口調が可笑しくて、プッと吹き出し、笑いながら強引に手を引いて土産を買いに出かけた。
会社には、定番のバラマキ土産、温泉饅頭。彼は言わなければどうせ誰も知らないのだから必要ないと抵抗したが、そういうものではないと押し切って無理やり買わせた。小夜には小さくて可愛い木箱のオルゴール、関根さんにはちょっと風変わりな木工細工、きっと喜んでくれるだろう。
楽しい時間が過ぎるのはあっという間。忙しい日々にあれだけ待ち望んだ温泉での休暇ももう終わり、明日からはまた都会の喧騒の中で、忙しい日々を過ごさなければならないのだ。
「嫌だなぁー、明日はもう帰るのかぁ」
ベッドの中で彼の胸に顔を埋め、朦朧とした頭で呟きため息をついた。
「また来ればいい。来年、同じ頃でもいいし、春の暖かい時期も良いね」
「うん、来年……」
来年というその言葉を口の中で繰り返す。そう、来年。私たちに来年はあるのだろうか。この人が私を大切にしてくれる気持ちを知ってはいるが、賭けのことを思い出すとやはり不安もある。複雑な気持ちを胸にしまい込み、自嘲するように心の中で笑い、大きな息を一つして強気を装った。
「賭けは? 私が勝って、もうお付き合いしませんって言ったら、来年なんてないわよ?」
「どうして?」
「どうしてってどうして?」
「来年はあるでしょう? 再来年もその先もずっとある」
「意味わかんない! 私が勝ってもう終わりって宣言したら、来年もその先もないでしょ?」
この人は私の言っていることが理解できないのか、それともふざけているのか。体を起こして座り直し、横になったままの彼を睨んだ。
「おまえが勝つなんて、ありえないから」
「何それ?」
彼は人の悪そうな顔をしてニッと笑いながら起き上がり、ヘッドボードに寄り掛かって私の手を取った。
「あのね、賭けのルール、覚えてる?」
「ルール?」
「そう、ルール。瑞稀が俺を好きになったら、俺の勝ち。瑞稀が俺を好きにならなかったら、俺の負け。ちゃんと覚えてる?」
「うん」
「俺が勝ったら、俺たちの関係と瑞稀の素顔を公表する。瑞稀が勝ったら希望を一つ叶える。これは?」
「覚えてる。だから、私が勝って、別れるのを希望したら、それを叶えるってことじゃないの? 間違ってる?」
「間違ってはいない。でも、おまえは勝てないの」
「だから、どうしてよ?」
「瑞稀が勝つということは、俺が負けるってことでしょう? 俺は負けないもの。だから、おまえは勝てない。わかる?」
「ありえない! 自信過剰!」
同じ言葉を繰り返された挙句、自分が勝てないと言われイライラしてきた。
「いい? ちゃんと聞いて。もう一度説明するから」
「うん」
「まず、俺が勝った場合、俺たちはずっと一緒にいるよね? でもそれは、瑞稀が負けを認めることだから、瑞稀が負けなければ賭けはそのまま、賭けの決着がつくまで、俺たちはずっと一緒だ。俺が負けを認めない限り、瑞稀の勝ちはないし、賭けの決着はやはりつかないから、俺たちはずっと一緒だ。どう? 今度は理解できた?」
「ええっと、あなたが負けを認めなければ、私の勝ちにはならないっていうのはわかった」
なんだか煙に巻かれているようで、頭がクラクラしてきた。
「そう、簡単に言うと、俺たちが一緒にいる以外の選択肢は、未来永劫ないってことだよ」
「はぁ?!」
賭けの決着なんてはじめから決まっていたこと。そもそも、賭けにすらなっていなかったというのが正解だろう。私は騙されただけ。負けなければいいのだと考えたあの時点で既に、私は負けていたのだ。
彼はやっと気付いたのかとでも言いたげな顔をして笑い、手を伸ばし目を丸くして自分を凝視している私の腰を引き寄せた。
「あの時、どうして賭けをしようなんて言ったの?」
「逃げられたら困るからね。言ったろう? 俺は本気だって」
そう言うとにっこりと得意げな笑みを浮かべた。




