ー18ー
部屋へ戻るとすぐに、彼は再び大浴場へと出かけて行った。私は、ベッドサイドの小さな灯りを一つだけ点けてソファーに座り、冷え切った体のまま、ぼーっと灯りに照らされた露天風呂と風に揺れる木々を眺めていた。
どうせ誰に見られているわけでもないしと急に思い立って、その場で裸になり、バスタオルだけを持って外へ出た。冷たい空気に体が少し震える。デッキチェアにタオルを置いて、湯船の中に体を沈めた。じっと湯に浸かって熱くて我慢できなくなったら、上がって休む。体は芯まで温まっているので、寒さを感じるどころか夜風が心地良い。
少し強くなった風の音を聞きながら、物思いに耽っていった。
瑞稀にはしたいことはないのかと問われたあの言葉に、私はハッとした。彼の言う通りだ。これをやろうと思いつくことはすべて、しなければならないことであって、したいことではない。今はもう昔の柵から解放され、自分の意思で自由に生きているつもりだったのに、違っていた。ただ、逃げてただけだ。人に言われるまま流されているだけで、私自身は何も変わっていない。
幼い頃の私は、周囲の大人たちにとって便利で役に立つ綺麗な玩具だった。しかし、大人たちの期待通りに行動したところで、して当たり前、できて当たり前。褒められることなどなく、一度でも拒否すれば、わがままのレッテルを貼られた。
学校では、いつも一人。クラスメイトには、先生に取り入る嫌な奴と罵られた。成長と共に人形のような容姿も目立ち始め、その顔立ちのためか、何を考えているかわからない、冷たい、生意気と、ほとんど接点のない先生たちにまで誹りを受けた。同年代の男子の中には私に興味を持つ人もいて、付き纏われ嫌がらせを受けた。女子からは美人を鼻にかけている、顔だけで頭の中は空っぽと中傷され、無視された。
そして、目立つ容姿は劣等感の源となり、周囲の期待に応えられないわがままな自分に悩み続けた。
いつ何がきっかけだったのかは記憶にない。ただ、ある時を境に、わがままなのは私ではなくて私に物事を強要する周囲なのかもしれないとの疑問を持つようになった。それからは、逃れることだけを考えて人との距離を置き、できる限り接触を避けた。
そんな時、兄がアメリカへ呼んでくれた。向こうには肌の色も顔立ちも違う様々な人々がいて、誰も私の容姿を気にかける人はいなかった。友人もでき、もう人に振り回されるのではなく、自分の好きなように生きられるのだと、安堵したことを覚えている。
そして、林啓司と安藤智史あんどうさとしに出会い、智史に告白され付き合いを始めた。智史は優しく柔らかな真綿で包むように私を彼の色に染めていった。甘く心地よい真綿はいつしか檻に変わり、苦しいと気づいた時には、抗う術すらなくなっていた。今にして思えば、彼が消えたのは幸運だったと言える。私はまた一人になって、この忌まわしい顔を封印した。
「おばあちゃんと同じこと言ってる」
湯船の中で、星ひとつない真っ暗な空を眺めながら、ため息をつき苦笑した。
私を慈しんでくれた祖母がいつも私に言っていた『瑞稀は、好きなことをしていいんだよ』と言う言葉の意味を、彼に指摘されて初めて理解できた気がした。
彼は、私に何かを強要したりしない。ただ、私のために指図し小言を言うだけだ。健康に気を使い、こうやって温泉にも連れて来てくれるその言動は祖母と同じ。なるほど祖母を思い出すはずだ。
ベッドルームが突然明るくなり驚いて振り返ると、彼が開け放たれていた窓辺に立っていた。
「瑞稀?」
「あ、おかえり、早かったのね」
「早くはないよ? まだ風呂に入ってるとは思わなかった」
「そんなに時間経った? 全然気がつかなかった」
「のぼせるよ。もう出た方がいい」
「うん。そうする」
こちらを見ている彼と、ごく自然に言葉を交わした。なぜかもう、体を見られていることが気にならなくなっていた。
「早く上がっておいで」
彼が窓辺から離れるのを待って湯から上がり、バスタオルで体を拭いて放り出してあった浴衣を着た。ソファーに座っていると、予想した通り、ビールとグラスを手にした彼が戻って来た。
「ありがとう」
「さっき約束したからね」
嬉しい。この人はどんな小さなことでもちゃんと覚えていてくれる。カチンと小さな音を立てて乾杯し、二人でビールを飲み干していることに幸せを感じている自分がなんだか可笑しかった。
「また一杯だけなんて言わないよね?」
さっきの恨みとばかりに、不機嫌を装い睨みつける私を彼は笑う。
「うん。多分、これ一本を二人で半分ずつすれば、一人二杯は飲めるだろう」
「ええ? たったそれだけ?」
「もう今夜は寝ないと。朝食は七時半だから寝坊できないよ。それに、温泉まで来て、酔っ払いの介抱はしたくない」
酔って記憶をなくしたあの夜を思い出せとばかりに意地悪そうに笑われ、俯いて怒った振りをしながら、あの朝の自分を思い出して心の中で笑った。
ベッドの両側にあるテーブルランプ二つだけを残して灯りを消し、キングサイズのベッドの両端にそれぞれ横になった。ひんやりしたシーツが体の温度を奪っていく。
「大丈夫? 寒くない?」
どうしよう。一瞬躊躇ったが、意を決して口に出した。
「少し。そっちに行ってもいい?」
返事を待たず、布団の中でもぞもぞと体を動かし近づいて行った。彼が手を伸ばし私を抱き寄せる。彼の腰に腕を回し、胸に顔を埋めた。温かい彼の足が絡まる。冷えた背中を撫でられながら、じっと体が温まってくるのを感じていた。
「温まった?」
「うん、あったかい」
体を離して顔を上げると、彼の瞳にテーブルランプの黄色い光が映っていた。目を閉じて唇にそっとキスをした。目を開け、驚いた顔をして私を見つめている彼に微笑んだ。
「瑞稀……」
「何?」
突然、ぎゅっと力一杯抱きしめられた。
「寝なさい。無理強いはしたくない」
この人はいつでもそうだ。こうやって抱きしめたりキスをしたりするだけで、それ以上は何もしない。私を大切にしてくれるその気持ちが嬉しい。
「どうして? 自分のしたいことをしろって言ったのは、あなたでしょ?」
目の前の綺麗な瞳を真っ直ぐ見つめて静かに言った。彼は無言で私の瞳をじっと見つめている。少しの緊張と羞恥の気持ちだけで、迷いはもうなかった。この人は、ありのままの私を受け止めてくれる、そう信じていた。
「もう二度と忘れるな」
その言葉が聞こえたのと同時に唇が温かいものに塞がれた。はじめはそっと温かく、そして少しずつ力強さを増していく。息が止まるほど濃厚なキス。頭の奥が痺れ身体がとろけてしまいそうだ。
ほんの数分かもしれない長い時間が過ぎ唇が離れると、大きな熱い掌で私の頬を包み、十センチにも満たない距離で私の瞳を見つめ微笑んでいる彼がいる。
「うん……忘れたら?」
ほうっと溜息交じりの掠れ声を出した。
「二度と忘れられないようにしてやる」
その手が離れたかと思うと、突然、わき腹を掴まれた。
「や! やーっ! やめてー ああっ! そこはだめぇー! やー苦しいっ!」
身を捩りもがき彼の下から何とか這い出てベッドから逃げ出そうとする私は、足を掴まれずるずると引き戻される。
「暴力反対! 私が悪かったってばー! ごめんなさい。もう言わないから許してください」
彼の大きな体が覆いかぶさり、うつ伏せのまま潰された。手足をジタバタさせ抵抗を試みるが、身動きが取れない。
「忘れない?」
「忘れない! 忘れません! ごめんなさーい、重いー、助けてー」
背中の重みがふと軽くなった。肩を掴まれゴロンと向きを変えさせられる。浴衣の合わせは乱れ、見る影もない。
顔にかかった髪を撫で付け頬を撫でている彼を、荒い呼吸のまま涙目で見上げた。
「綺麗だ」
熱い息が顔にかかり、少し乱暴に唇が落ちてきた。
こいつの変わり身の早さは何なのだ。




