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ー17ー

「駅に着いたら軽く食事をして、それから車を借りよう」

「うん」


 灰色のビル群が遠ざかると、生活の匂いのする街並みが広がり、緑の木々も少しずつ増えていく。そのうち、線路の両側がところどころ紅あかや黄色の混ざる濃い緑色に覆われたかと思うと、突然視界が開け、小さな水飛沫を上げて流れる浅い川や濃緑色の山々が顔を覗かせる。時折発せられる彼の言葉にほぼ上の空で頷きながら、移り変わっていく車窓からの景色をずっと眺めていた。


 日本に戻ってきてから、旅行をするのは初めてだ。ましてや温泉なんて何年ぶりだろう。小夜には何度か誘われたことがあるが、遠出をするのが億劫で、いずれそのうち暇ができたらと先延ばしにしていた。しかし、まさか、この人と一緒に温泉旅行をするとは思わなかった。こんなことなら、誘われた時にちゃんと来れば良かったと、小夜にちょっと悪い気がした。


「もうすぐ着くよ」


 彼は網棚からリュックサックを下ろして読みかけの本と二人のドリンクボトルをしまい、小さなテーブルを元に戻し立ち上がった。私もデッキへ行こうと立ち上がると、彼が先にバッグとコートを取り、コートを広げて、袖を通すように促した。


「降りたら少し寒いから、ちゃんとコートを着なさい」


 また子供扱いされた。この人が私のためを思って気を配ってくれているのはわかっているが、少し気分が悪い。


 終着駅で特急電車を降りると、さすがに連休初日とあって、ホームは行楽客でかなり混み合っていた。


 駅前の商店街には、土地の名産品など、観光客向けの土産物店が軒を連ねる。どの店も歩道にまで商品を広げ、売り子は大きな声で店々を物色しながら歩く観光客に声をかけ、店頭の大きな蒸篭では名物の饅頭を蒸していた。


 土産物に目を惹かれながら暫く歩き、少し落ち着いた風情の蕎麦屋で遅めの昼食を軽くとった後、車を借りて宿へと向かった。


 周囲を木々に囲まれた静かな佇まいのその宿は、湖畔の高台にあった。門を入るとまず美しく整えられた和風庭園が広がっている。正面玄関を入り、ロビーの広さに驚きながら案内されたラウンジで、お抹茶と茶菓子を出され一休み。そこは全面ガラス張りになっていて、雅な風情の中庭を一望できる。中央の池では色とりどりの鯉が優雅に泳いでいた。


 海外生活の長かった私には、そのすべてが珍しくて、キョロキョロと落ち着かない。本当は気の向くまま見学に歩きたくてうずうずしていたが、彼のそばを離れるわけにもいかず、大人しく景色を眺めながら渋いお抹茶を少しずつ舐めた。そして、仲居さんに案内され、中庭に面した外回廊を歩いて、予約していた部屋へ入った。


「うわあ! 畳だ!」


 仲居さんが部屋の説明をしているのも忘れ、つい大声を上げた。


「畳が珍しい?」

「うん。畳なんて久しぶりだもん。ねえ、寝転んでもいい?」

「ご自由に」


 その場でゴロンと横になり、手足を伸ばした。畳の青臭い匂いが鼻をくすぐる。


「天井高ーい。床に寝るってなんか変な感じ」


 座卓にお茶を置きながら微笑んでいる仲居さんと目があって、きまりが悪く照れ笑いを浮かべた。


 仲居さんがお茶を出し終わり夕食の時間を告げ出て行き二人きりになると、部屋が急に静まり返った。妙な緊張を覚え、ムクッと体を起こし座椅子に座った。いつもの部屋で二人でいるのとはどこか違う気がする。


「足、崩したら?」


 暫くの沈黙の後、静かにお茶をすすりながら言う彼の言葉で、無意識に正座をしていることに気づいた。慌てて体を動かし座り直そうとしたが、すでに足が痺れて感覚がない。


「今日はこれからどうするの?」

「そうだな、移動で疲れただろう? まずは温泉に入って、それから少し散歩でもして夕食までゆっくりしよう」

「温泉……」


 彼の肩越しに見える窓の外の露天風呂に視線を向け、すぐに俯いてお茶を啜った。


「一緒に入る?」


 上目遣いに見ると、ニヤッと笑われた。私が一瞬想像したことなど、完全にお見通しだ。


「誰が……」


 白い目で一瞥し、プイッと横を向くと、彼はククッと声を出して笑い、立ち上がった。


「瑞稀はどうする? もし他人と一緒に入るのに慣れてないなら、ここで一人でゆっくり入るのもいいよ。俺は大浴場へ行くから」

「うん」


 大きなお風呂は魅力的ではあったが、他人と一緒はやはり気がひける。まだ明日もあるからとの彼の言葉に甘え、一人部屋に残り露天風呂を満喫することに決めた。


 私たちが泊まるその部屋は、二間続きになっていて、手前の和室には重厚感のある座卓と座り心地の良さそうな厚い座布団が敷かれた座椅子があり、奥の部屋は洋式のベッドルーム。寝心地の良さそうな大きなベッドの向こう側には、大きな窓に面してソファーが置かれ、その外はこの部屋専用の露天風呂になっている。


 露天風呂へ続く掃き出し窓を開けると、ひんやりとした空気が体を包んだ。浴衣を脱ぎ足先を漬けると、少し熱めのお湯がピリッと肌を刺激する。ゆっくりと体を沈め、風呂の縁に手をかけて景色を眺めた。木々の向こうには遠く山が見える。時折、鳥のさえずりと風がそよぎ葉っぱがサラサラと擦れ合う音以外は、何も聞こえない。


「来てよかった」


 目の前の木々に話しかけ、そっと呟き息を吐いて微笑んだ。ゆったりと柔らかいお湯に浸かっていると、頭の中まで空っぽになる。喧騒の中でのいつもの暮らしが、夢のように思えた。





 露天風呂から上がり、室内に入ってソファーに座りぼーっと窓の外を眺めていると、いつの間に帰って来たのだろう、彼が手にビールを一本と小さなグラスを二つ持って立っていた。


「さすがおじさん、気が利くー」

「おまえ!」

「あはは、おまえ呼ばわりする?」


 彼は気に障ったのかムッとした顔をしながら、小さなテーブルにグラスを置き、ビールを注いだ。その様子が可笑しくて、あははと大声で笑いながらグラスを手にし、カチンと合わせ二人で一気に飲み干した。


「風呂上がりはやっぱりこれだな」

「うん、幸せ!」


 お代わりをせっつくようにグラスを差し出すと、あっさり取り上げられた。


「ダメ、今は一杯だけ。夕飯食べられなくなるからまた後であげる」

「ケチ!」


 ふんっと気分を害した振りをして顔を背けクスッと笑い、夕日に照らされて輝いている木々を眺めた。


「来てよかったな」


 私には飲ませないくせに、自分だけまだビールを飲んでいる。


「温泉なんて、子供の頃おばあちゃんと来て以来よ。でも、温泉がこんなに気持ちいいなんて初めて知った。あはは! わからなくて当たり前よねー。子供にとっては普通のお風呂と一緒だもん」

「おばあちゃん?」

「うん。母のお母さん。おばあちゃんは温泉が好きでさ、元気だった頃は毎年二人できてたの。私は人がいっぱいの大浴場が嫌いで、いつもわがままを言って家族風呂に入ってた。でも、おばあちゃんはきっと大きなお風呂に入りたかったんだろうな」

「家族全員では来なかったの?」

「うん。母には兄がいたから。兄と私は一回りも歳が離れてるの。父は仕事でいつも家にいなかったし、母はいつも兄のことばっかりだったから。それで私は小さい頃はおばあちゃん子だったの」

「そうか」

「考えてみると、あの頃が一番楽しかったのかもね。先のことなんて何にも考えないで、今日は何して遊ぼうか、どうやってお稽古と勉強サボって逃げ出そう、今日の夕飯は何だろうって、それだけ」

「子供の頃なんて、誰でもそんなもんだろ」

「亮は? どんな子だった?」

「俺? 俺は……今と大して変わらないんじゃないかな?」

「えー? 子供の頃からそんなに意地悪で偉そうで口煩かったの?」

「こら!」


 彼は身を乗り出して、私の額をペチッと叩いた。叩かれた額をさすりながらむくれる私を見て、楽しそうに笑っている。


「今はどう? したいことはないの?」

「今?」

「例えば、明日どこへ行って何をしたいか、旅行から帰ったら何がしたいかでもいい。将来やりたいことや、どうなりたいって希望でもいい。そういうのって当然あるだろう?」

「私が、したいこと?」


 頭が真っ白になり言葉に詰まった。こんな簡単な質問に、なぜすぐに答えられないのだろう。何か言葉を返さなくてはと思いながらも、口にすべき言葉が見つからずに考え込んでしまった。


 ちょっと気まずい雰囲気の中、彼が真面目な顔をして口を開いた。


「瑞稀の頭の中には、して良いことと悪いこと、しなくてはいけないことだけなの? 本当にしたいことはないの?」


 言葉が胸に刺さる。返す言葉もなく痛みで全身が痺れた。


「ごめんなさい……私……」


 彼は手を伸ばして、親指で私の頬を拭った。


「泣かなくていいから」


 その言葉に驚いて顔に触れると、本当に頬が濡れている。涙を流していることにも気づかないほど、その言葉に動揺してしまったのだろうか。無理やり笑顔を作り、顔を強く擦って涙を拭った。


「あはは、変なの。私、どうしちゃったんだろう? 大丈夫、気にしないで」

「ごめん。泣かすつもりはなかった」


 大きな手がポンポンと慰めるように、私の頭を軽く叩いた。


「ん。じゃあ、ビールのお代わりくれたら許してあげる」

「ビール? もうないよ。また後でね」


 テーブルの上のビール瓶はいつのまにか空。私の風呂上がりのビールは、たった一杯で終わってしまった。





 夕食は、甘い食前酒から始まった。箸付、前菜、椀盛、お造りと料理が次々運ばれてくる。趣向を凝らした料理は、どれも小さな器に美しく盛り付けられていて、箸をつけるのがもったいないほどだ。


「気に入ったものにだけ箸をつけなさい。量が多いから、端から全部食べていては最後まで食べきれないよ」

「そんなことは言われなくてもわかってます」


 せめてこのいちいち指図する癖だけでもなくなってくれれば、この人と一緒の時間をもっと楽しめるのに。


 ふと、あの会社の女の子たちがしている彼の話を思い出して、顔が緩んでしまった。


「何笑ってるの?」

「別に、なんでもない」


 彼の顔を見れば見るほど思い出して、可笑しくて緩んだ顔が元に戻らない。


「俺に隠し事するわけ?」

「隠し事も何も、もともとなんでも話ししてるわけでもないし」

「言いなさい」


 以前は眉をしかめ偉そうな口で命令されると、無性に腹が立ったのに、近頃ではこの憎たらしい口が可愛く思える時もあるから不思議だ。


「わかったってば。言えばいいんでしょ? 言うけど、怒らないでよ? あのね、会社の女の子たちのことを思い出してただけ。亮って格好良くて寛容で仕事もできて憧れるってあの子たちいつも噂してるのね。でも、本当は、すっごく偉そうで箸の上げ下げまで細かく口煩いって知ったら、あの子たちどう思うのかなって思ったら、可笑しくなっちゃって」

「俺、そんなに偉そうで口煩いか?」


 何度も言われて、さすがに少しは気にしだしたのだろうか。


「うん。すっごく偉そうで口煩い。自覚ないの?」


 せっかくだから、はっきりと言わせてもらった。


「自覚なぁー、ある、と言えば、ある。君は、嫌?」

「私? 正直言うと、あまり嬉しくはないけど、大丈夫。もう慣れたから」


 この人に慣れたのか慣らされたのか。毎日、大小何かにつけて注意されるのは、気分の良くない時もあるが、その指摘が正しいのも本当だ。今だって、気の向くまま次々運ばれてくる料理に箸をつけていたら、間違いなくメインが出てくる前に、ギブアップしていただろう。


 制限するばかりかと思えば、私の小鉢が空になったのを見て、気に入ったのならこれも食べていいよと、自分の小鉢を差し出してくれる。そんな小さな言葉や動作の一つ一つから、大切にされているのだという自覚と幸福感を得ているのも事実だ。


「もうだめ、お腹いっぱいで食べられない」


 締めのご飯とデザートの前に、ギブアップ宣言をした。


「ご飯とデザートは断って、ここまでにしよう。一休みしたら、少し庭を散歩してみるか」





 三十分ほど休憩した後、散策に出かけた。


 浴衣と羽織りの上にさらにコートを着ていたが、澄んだ山間の夜の空気は、かなり冷んやりして寒い。


 庭園はライトアップされていて、紅葉の最盛期は少し過ぎていたが、色とりどりの葉と幹がところどころ灯りに照らされて輝き、明暗のコントラストが美しい。池にもライトが当てられ、真っ黒な池の水の中で、時折水面近くを泳ぐ赤や黄色をした魚の鱗が、キラキラと反射する。宿の周囲は真っ暗な闇に包まれ、建物の灯りと庭園を照らす灯りとが、幻想的な雰囲気を作り出していた。


「やっぱり寒いから部屋に戻ろうか」

「ううん、もう少しだけ」


 彼の大きな掌に手を滑り込ませぎゅっと握り、玉砂利の敷かれた小道をゆっくり歩いた。足元は、仄暗いガーデンライトに照らされている。


 玉砂利の上にひとひら、真紅に紅葉した楓の葉が落ちていた。彼の手を離し、屈んでそれを拾い上げ少しの間眺めた後、コートのポケットにしまった。



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