ー16ー
一人で過ごすランチタイムは、はっきり言って暇だ。
食事を終え、行くあてもなくやりたいこともないので、時間はまだ少し早かったが、オフィスへ戻ることにした。ロビーでエレベーターを待っていると、突然後ろから声をかけられた。
「河原さん、お話ししたいことがあるんですけど、帰りに少しお時間いいですか?」
彼女名前は確か、三浦理恵。私と同様、今回のプロジェクトに参加している外部企業の一人だ。私は彼女の担当している仕事と直接の関わりを持つ必要がないため、同じオフィス内にはいるが、会議中以外は存在を意識することはない。その三浦理恵がしたい話とは、いったい何だろうか。疑問に思いながらも、約束した駅前のコーヒーショップへ向かった。
三浦理恵は、ハッとするような美人ではないが、細身で長身、端正な顔立ちをした綺麗という形容詞の似合う人だ。艶やかな黒髪を後ろで束ね、鼈甲柄のセル縁眼鏡をかけ、いかにも頭の良さそうな風情を漂わせている。エンジニアという職種は特に男ばかりで、女でも服装に頓着しなかったり、多くは中性的なスタイルを好む。そんな中、彼女のような隙のないタイプは稀な部類に入るだろう。
コーヒーショップの店内に入るとすぐ、壁際のテーブル席に座る三浦理恵を見つけた。彼女は、私に気づくとニッコリ笑い、こっちよと小さく手を振った。カウンターでコーヒーを受け取り、彼女に会釈をしながらセルフサービスのトレイをテーブルに置いた。
「すみません、お待たせしちゃって」
「こちらこそ、帰り際に突然お時間いただいてすみません」
プライベートでの三浦理恵は、オフィスにいる時とは違い、しっとりとしたきれいな声で話す物腰の柔らかい女だった。
「いいえ、帰ってもどうせご飯食べて寝るだけですから。それはそうと、三浦さんとこうしてお話するのって初めてですね。同じオフィスにいるのに、なかなか直接お話する機会がなくて」
「そうですね。このプロジェクト、結構タイトだから、お互いいっぱいいっぱいですもの。仕方ないです」
彼女は手にしていたコーヒーカップをソーサーに置くと、少し疲れた様子で目を伏せ、ため息をついた。
「お話があるって言ってらしたけど……? 仕事上のことで何か問題でもありましたか?」
「いえ、その……仕事そのものではないんですけど、ちょっと気にかかることがあって。迷ったんですけど、やっぱりお耳に入れておいた方がいいのかなって思いまして」
少し困った顔をしながら、言いにくそうにゆっくりと話している。
「仕事そのものじゃないとすると、個人的なことですか? オフィス内の人間関係とか」
彼女は一つ大きく呼吸をすると、正面から私を見据え、意を決したように口を開いた。
「あの、変な噂が回っているのをご存知ですか?」
「変な噂?」
「そうなんです。何日か前、女性社員が数人で話しているのを偶然聞いたんです。河原さんと松本さんが変な関係になっているという噂です」
そこまで言うと、口を一文字に結んで、気まずそうに目を逸らした。
「ああ、その噂ですか」
わざわざ呼び出して何の話かと思えば、例の噂話とは。私はあははと軽く笑い声を上げた。
「河原さんもご存知でしたか。私、聞いた時、もうびっくりしてしまって。河原さんにお話しするべきか悩んだんですけど、聞いてしまった以上、知らん顔しているのもどうかと思いまして」
三浦理恵が聞いた噂の内容はこうだった。
私が松本亮に一目惚れをして、仕事を口実にランチに誘うこと数回、それ以外にも口実を見つけては近寄り、何かと自分をアピールしている。松本亮は、個人的な問題を仕事に持ち込むような人ではないので、穏便に済ませられればと我慢していた。しかし、事あるごとに誘いをかける私のあまりのしつこく厚かましい行動に対し、さすがにこれ以上は耐えられないと、プロデューサーの本田さんに、私を外すことはできないかと相談までしたが、現在進行中のプロジェクトと取引の関係もあるので、表立って問題にするのは都合が悪いと諌められたらしい。
「実は私、それとなく探ってみたんですが、皆さんこの噂をご存知らしくて。私は皆さんと個人的なお付き合いはありませんし、仕事以外のお話をする機会もないので、知らなかっただけのようです」
聞かされた噂の内容は、予想をはるかに上回る。ここまで具体的で尾ひれまでついて、あたかも目の前で展開された事実のようになっているとは。あまりに飛躍したその内容に、真剣に聞いている振りを装いつつ、心の中で苦笑した。
「もしかして、三浦さんもその噂、信じてる?」
「え? いえ、私は。河原さんはそんな方ではないと思いますし、もし、信じていたら、直接お話したりはしません」
「ははは、それはそうよね」
「ただ、こういう噂は……。 私も河原さんも外部の人間ですし、仕事上差し障りがあっては困ると思いましたので、それで、やはりお話しておいた方が良いかと」
「そうですね。噂話ばかりは止める手立てはありませんけど、行動には注意した方がいいですね」
人の噂は七十五日というが、すでに社内全体に蔓延しているとなると少々面倒だ。だが、ことが噂話では、自然に収束するのを待つ以外、手の施しようがない。
「すみません。何だか私、余計なことを言ってしまったようです」
「いいえ、そんなことは。お話してくれてよかった。ありがとうございます」
その言葉に少しはにかむように笑う彼女の顔は、可愛らしかった。




