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ー15ー

 憧れの温泉旅行。彼と一緒に行きたいかは別として、ゆっくりと温泉に浸かってのんびりするなんて、想像しただけでもワクワクする。


 温泉旅行は、今、忙殺されてる私にとって遠い先の夢だ。


 プロジェクトもいよいよ山場を迎え、二人ともに忙しさが増してきた。彼はほとんど自分の席を温める暇もなく、あちらこちらと打ち合わせに飛び回っている。私も毎日のようにここ常駐先のオフィスと自分の会社を行ったり来たり。その上、自分の作業も進めなければならず、当然、残業時間も増えている。


 平日、彼と顔を合わせるのは、会議の時間だけ。時々メールでお互いの様子を連絡し合い、夜、ベッドに入ってから電話で話をするだけだ。かろうじて、土曜日の夜と日曜日の午後数時間だけが、二人の時間だった。



 ベッドの中で意識を失いかけている時、電話が鳴った。携帯を手に取り、機械的に通話ボタンを押して耳に押し当てるが、自分が今、寝ているのか起きているのかすら、疲れ過ぎていてもうわからない。


「俺。寝てた?」

「うん? 起きてた」

「本当は、寝てたんでしょう?」


 寝ていましたと、少し鼻にかかった声が白状している。電話の向こうからクスクスと笑う声が聞こえた。


「……うん、今起きた」

「起こしてごめん、切るよ」

「ううん、大丈夫。どうしたの? 何かあった?」


 ベッドサイドの目覚まし時計は、もう十二時を回っていた。


「いや、ただ声が聞きたかっただけ。眠いでしょう? 寝ていいよ」

「話ししてても大丈夫。目は覚めたから」


 そう言いながらも実はまだ夢うつつだった。少しの沈黙の後、彼が口を開いた。


「俺って、バカだ」

「なに?」

「うん、徒歩三分歩けば会えるのに、何で電話してるんだろう」

「ほんとだ」

「ちょっと待ってて」


 そのまま通話が途切れた。


 彼は来る気だ。それまでの眠気が嘘のようにぱっちりと目を開け、大慌てでベッドから這い出した。


 部屋の明かりを点け、何か用意しなければと焦ってウロウロ歩き回っているうちに、もうインターフォンが鳴る。慌てて返事をしてオートロックを開け、結局、着替えすらしないまま玄関へ向かい、ドアのロックを外し彼を待った。


 ドアを開け玄関に入ると同時に、後ろ手でもどかしそうにドアを閉め、すぐさま私を抱きしめ頸に顔を埋めた。こうして触れられるのは何日ぶりだろう。抱擁には慣れたはずなのに、なぜか心臓がドキドキしている。


 彼の頬が私の頬に触れた時、少し違和感を感じた。


「どうしたの? 何だか顔が熱い」


 手のひらをおでこに当て、次は両手で頬に触れてみた。間違いない。この人、熱がある。


「熱い?」

「絶対に、熱がある。上がってソファーに座って待ってて。今、体温計持って来るから」


 手を引きソファーに座らせ、キッチンへ急いだ。救急箱を持って戻って来ると、少しダルそうにソファーの背にもたれていた彼は、慌てている私を見て笑った。


 隣へ座り、体温計を咥えさせ、暖房のスイッチを入れた。


「そんな大げさな。心配ない。ちょっと風邪気味なだけだよ」

「黙って。大人しくしてるの」


 ベッドルームへ急ぎ、クローゼットから予備の毛布を持ち出し、彼を包んだ。ピッピッと体温計が鳴り、目盛りを見ると三十八度二分あった。


「三十八度二分! ほら、やっぱり熱があるじゃない。自分で気がつかなかったの?」

「そうか、道理で……」

「いつからこんななの?」

「さあ? ここ二日くらいかな? よくわからない」

「熱だけ? 咳は出る? 頭痛とか、喉が痛いとか、色々」

「咳が少し、他はない」

「病院へは行った?」

「行ってない」

「具合が悪いんだったら、悪いって言わなきゃダメじゃない」

「わざわざ言うほどのことじゃ……」

「ちゃんと寝てなきゃダメじゃない」

「さっき、帰ってきたばかりだから」

「こんな薄着で!」

「これ普通だし」

「何でこんな時間に外を出歩いたりするの!」

「顔が見たかったから」

「……まったくもう」


 減らず口。


 急ぎキッチンへとって返し、グラスに水を注いだ。リビングへ戻ると、ソファーに座っているはずの彼は玄関で靴を履こうとしていた。慌ててグラスを置いて追いかけ、腕を力一杯掴み、強引にリビングへ連れ戻し、ソファーに座らせた。


「帰るよ。これくらい寝てればすぐ治る」


 このまま一人で家に帰ってどうするというのだろう。一晩寝て朝には治っていればそれでいいけれど、もし、もっと具合が悪くなったら、世話をする人もいないのに。自分を蔑ろにしているその態度に無性に腹が立ち、ついに不満を爆発させてしまった。


「まったく! いつも私にはあれダメこれダメ、ちゃんと飯食え、睡眠時間は必ず確保しろ、運動しろ、健康管理がどーのって偉そうにお説教してるくせに、あなたはどうなのよ? 自分のことはほったらかしじゃないの! 熱があるのに無理してこんな時間まで仕事して! 何が健康管理よ、笑っちゃうわ! わかってるの? 本当に病気になったら、会社なんて面倒みてくれないのよ!」


 言葉にすればするほど腹が立ってきて、その声はさらに大きさを増した。


「それにさ、あなたは私に何にもさせてくれないわけ? 自分の方がちょっと年上だからって偉そうに! 私は役立たずの子供だとでも思ってるの? それともそんなに私が信用できない? まったく、冗談じゃないわ! 一方的に私の世話を焼くのが、あなたの思う付き合うってことなの? 私と付き合ってるんだったら、せめて病気の時くらい、人の言うこと聞きなさいよね!」


 興奮し過ぎて、もう何を言っているのかよく分からない。ただ、無性に腹が立ち、悲しくて涙が出そうだった。


 顔を真っ赤にして肩で息をする私の手を、そっと伸ばした彼の両手が包んだ。


「わかったから。もう怒らないで」


 少し熱でトロンとした目で見つめられた。まだ少し怒りが収まらない私は、隣に座り、テーブルのグラスを無理やり彼に持たせ、救急箱から薬を取り出して渡した。


「これ飲んだら、ベッド行こう」

「ここで? いいよ、帰って寝るから」

「もっと言わせたい?」


 眉間に皺を寄せて睨みつけると、彼はクスッと笑った。ついに観念したらしい。


 薬を飲ませてベッドに寝かせ、ふわふわの布団で首まですっぽりと彼を包む。大人しくされるがままになっているその姿に大満足だ。


「あ、そうだ、生姜と蜂蜜平気? 食べられる?」

「うん?」

「じゃ、ちょっと待ってて」


 キッチンへ走り、慣れない手つきで生姜をすり下ろしてカップに入れ、蜂蜜を少しとぬるめのお湯を注ぎ生姜湯を作った。寝室へ戻ると、彼はヘッドボードに寄り掛かって座っていた。


「何だか楽しそうだね」

「仕返ししてるんだもん。楽しくて当然でしょ? はい、これ飲んで」

「何これ?」

「生姜湯知らない?」


 彼はカップに鼻を近づけ、ちょっと不安そうに匂いを嗅いでいる。そして、おそるおそる唇を近づけ、一口啜ると顔をしかめた。


「辛い」

「そりゃそうよ、生姜だもん」

「飲まなきゃダメ?」

「風邪に良いんだけど、苦手だったら無理に飲まなくてもいいよ」


 ちょっと迷った後、またカップに口をつけている。顔をしかめながら二、三口啜り、申しわけなさそうに目を少し伏せながら、無言でそれを返してよこした。その仕草は、まるで小さな子供。こんな可愛い一面もあるのだと、ちょっと嬉しかった。


 カップを受け取り、横に寝かせもう一度布団でしっかりくるみ終わると、ベッドの端に腰をかけ、子供にするようにポンポンと布団の上から胸の辺りを軽く叩いた。首まですっぽりと埋まっているその顔が面白くて、つい笑顔になってしまう。人の世話を焼くのがこんなに楽しいとは知らなかった。


「俺がベッド占領しちゃったら、君はどうするの?」

「私はどこででも寝れるから心配しないで」

「俺の風邪、移ったらどうしよう?」

「そんなこと今更心配しても遅いって。それに、万が一、風邪もらったとしても、あなたほど忙しいわけじゃないから、一日くらい仕事は休めるし、休めなくてもとりあえず電話とマシンさえあれば何とでもなるから」

「電話とマシンって、病気の時、いつもそうやってベッドで仕事してるんだろう?」

「ま、誰でもそんなもんでしょ! さあ、病人は余計な心配しないでちゃんと寝なさい」


 仰向けになり目を閉じた彼は、きっと薬が効いたのだろう、五分も経たないうちに静かに寝息を立てだした。


 この人の寝顔を見るのはこれで二度目。熱のせいか少し頬を上気させ眠っている顔は、あの偉そうにお説教をするいつもの彼とは別人のようだ。


「まるで天使だわ……」


 寝顔を眺め、指先でそっと髪を撫でながら、出会ってからこれまでのことを思い出していた。


 いつの間に寝てしまったのだろう。目覚めた時、座っていたはずの私は、ベッドに潜っていた。彼の姿はない、出社したのだろうか。


「熱、下がったのかな?」


 何気なく見た目覚まし時計が、すでに八時を回っているのに気づき、慌てて飛び起きた。リビングへ行くと、ダイニングテーブルの上にメモを見つけた。やはり出社したのだ。熱は下がったと書いてあったので一安心。無理さえしなければ、きっともう大丈夫だろう。


 今日は会社で打ち合わせを済ませてからオフィスへ行くのでまだ余裕はあるが、だからといってのんびりしている暇はない。小夜に少し遅れると電話を入れ、急いで身支度をして部屋を後にした。




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