ー14ー
徒歩三分の謎はすぐに解けた。
二人のランチタイムがなくなって久しい。その代わり、忙しい合間を縫い時間をみつけては、彼の部屋で夜を過ごしている。
一人暮らしが長いから適当に覚えただけと謙遜するが、彼の料理の腕はなかなかのものだ。もちろん、私にもちゃんと手伝いをさせてくれるし、料理の仕方も忍耐強く丁寧に教えてくれる。二人でキッチンに立つのはとても楽しい。
一つ問題があるとすれば、それは彼の生活態度が真面目なことだろう。
私の気ままな生活の仕方は、決して褒められたものではないことくらい自分でもわかっているから、少しのことなら受け入れるのはやぶさかではない。しかし、私に言わせれば、彼のあれは健康オタクと呼べる領域だ。
私は、たまにはジャンクフードも食べていいし、好きな時間に好きなおやつを食べるのも、ストレスの発散になるので良いと思う。だから、二人の時に彼に合わせるのはいいが、一人の時には、やはり少し自由にしたい。
以前に一度、食べると時々お腹が痛くなると話しただけで、アイスクリームは禁止されてしまった。朝食と昼食は必須、毎日何を食べたか細かく聞かれ、ファストフードを食べたり食事を抜いたり、また、食事量が少なくても叱られる。もちろん、深夜のおやつも禁止。時々、冷蔵庫までチェックされるので、アイスクリームを隠し持っていることすら不可能だ。
睡眠時間が足りなくてもダメ、寝過ぎもダメ、週末は散歩程度ではあるが、運動と称して外に連れ出される。強制的に体重計に乗せられ、痩せればまた叱られる。
確かに、小夜だっていつもうるさい。ちゃんと食事をしていないと怒るし、休日に丸一日寝て過ごしても怒る。しかし、彼のうるささは小夜の百倍どころではない。恥を忍んで何かいい対策はないかと小夜に相談もしてみたが、そのくらい厳しいのがちょうど良いと、一笑に付されてしまった。
一緒にいる時間が長くなり、彼の素顔も見えてきた。
みんなの言うクールで人を寄せ付けない雰囲気の外見からは想像もつかないほど、身体的接触が好きだ。二人きりの時はいつでも隙さえあれば私の手を握り、肩を抱き、髪を撫でてキスをし、抱きしめる。
こちらが恥ずかしくなるほど細かく世話を焼き、口うるさく叱るのも、実は、楽しんでしていることだとわかった。意地悪を言い、からかって怒らせ、それを宥めるのも彼の趣味だ。
ただ、引っかかるのは、唐突に『俺のこと好きになったか?』と尋ねること。
「そうだ、会社で関根さんに会ったの」
「関根? ああ、あいつ、うちの仕事してるからね。フリーだから定時に出社してないだけで、しょっちゅう会社にいるよ」
「へぇ、そうなんだ? 知らなかった。最初見た時、誰だかわからなかったわ。だって、スーツだし、髪の毛まであるんだもん」
カツラを外すあの関根さんの様子を思い出して、思わず声を上げて笑った。彼もつられて笑っている。
「あいつは何でも形を整えるのが好きだから。それに、あの頭だろう? 会社では目立つから少しは気にしてるんだよ」
「確かに、あのスキンヘッドはちょっと怖いし、悪目立ちするかも。あ、でも、会社の女の子たちの間で噂になってるよ。関根さん、ハゲてるって」
「あはは! ハゲはよかったな。その噂、今度あいつに教えてやろう。傷つくぞ」
「ひどーい! それでも友達?」
「男同士なんてそんなもんだよ」
「そうなの? ま、女同士でも一緒か。小夜だって、遠慮ないもん」
「で、君は? どうして仕事の時はあの顔なの?」
「え……私?」
笑顔が凍りついた。
「言いたくなかったら、別に言わなくていい」
「ん、そういうわけじゃないよ。私は、あの顔なのは、やっぱり目立ちたくないからかな?」
「美人は目立って仕事し難い?」
「えっと、あのね、別に美人がどうとかそういうのじゃなくて……どう言えばいいのかな? あの顔の方が、何かと気が楽っていうか。私ね、子供の頃から顔のせいで誤解されたり嫌な思いばかりしてきたから、それで。アメリカにいた時に、たまたま特殊メイクを趣味にしてる子と友達になって、教えてもらったのね。こっちに帰ってきてから、やっぱり素顔が嫌で、あの顔になったの。ただ、小夜が嫌がるから、二人の時は元の顔のままだけど」
「君は、自分の顔が嫌いなの?」
「え?」
真顔で真っ直ぐに見つめられ、答えに窮した。
「こんなに綺麗なのに」
「やっぱり……亮も女は綺麗な方がいいと思う?」
だいぶ慣れたとはいえ、こうやって至近距離で見つめられると、やはりまだ少し緊張してしまう。心臓の鼓動がドキドキと激しくなって、声が上ずっているのがわかる。
「俺は、どっちでもいい」
「どっちでもいいの?」
「うん。どうせ中身は一緒だから」
「それはそうだけど……」
胸に何かがチクリと刺さる。この人は、素顔を知っているから、そんなことが言えるのだ、と、思った。
「でも、会社ではいつもの顔の方がいいかもしれないな」
「どうして?」
「それは……その顔でウロウロされたら、落ち着かなくて仕事にならないからさ」
そう笑いながら囁き、私の背に手を回して抱き寄せて唇を重ねた。温かく優しいけれど、少し力強いキス。なすがままに私はそっと瞼を閉じた。
キスをして、抱きしめられ、肩を寄せ合う。こうしていると本当の恋人同士のようだ。頭を肩にもたれかけてぼーっとしていると、耳元で彼の声がした。
「俺のこと、好きになったんでしょう?」
「あ?」
その言葉に驚いて顔を上げると、彼は面白そうに笑っている。またからかわれたのだ。そう思った瞬間、心の隙を突かれた悔しさと恥ずかしさで、みるみる赤くなった。肩を抱く彼の手を勢いよく振り払い、体を起こして睨みつけた。
「あはは。悪かった」
謝るのは口先だけ、まだ笑っている。腹立たしくて涙が出そうだ。
「陰険!」
彼も体を起こして座り直し、両手で私の頬を包み、泣きそうな顔をして睨みつけている私を見つめ、そっと言った。
「悪かった。ごめん」
その言葉に反応するかのように、涙が溢れて頬を伝わった。彼は親指で頬の涙をぬぐい、そっとキスをして私を抱き、静かに背中をさすっている。
「ごめん、俺が悪かった。ちょっと聞いてみたかっただけだよ。もう言わない。だから、泣かなくていいから」
耳元で囁かれる言葉に、さらに涙が溢れて止まらない。これは恋愛ではなく賭けなのだとわかっているはずなのに、なぜこんなに胸が痛くなるのだろう。感情の起伏の激しさに、自分が自分でなくなっていくような不安を感じた。
「ごめんなさい」
顔を見られたくなかったので、俯いたまま彼から少し体を離した。彼は私の肩を抱きながら体を屈めて顔を覗き込むと、もう一方の手で頬を撫で、額にキスをした。
「もう大丈夫?」
「うん」
「顔洗いに行く?」
「うん」
先に立ち上がった彼に、抱きかかえられるようにしてソファーから立たされ、肩を抱かれたままバスルームへ連れて行かれた。
私を鏡の前に立たせ、新しいタオルを取り出し洗顔の準備をしている。すっかり使い慣れた彼のバスルーム。一人でも十分なのにと思っていると、支度を終えた彼が後ろに立ち、腰に手を回して顎を私の肩に乗せ、鏡に映る私を見た。
「瞼、少し腫れたね。どうすればいい? 温めるとか? それとも冷やす?」
鏡ごしの彼は心配そうな顔をしている。相変わらずの世話焼きが可笑しくて、鏡の中の彼に向かって笑った。
「温めるといいのかな?」
「わかった。向こうで準備してるから、顔洗いなさい」
一人になって、鏡に映る泣き腫らした顔を見た。少しどころではない、酷い顔だ。目は腫れて鼻も赤い、髪も乱れている。このみっともない顔を見られたのかと思うと、ちょっと恥ずかしい。
そそくさと顔を洗いリビングへ戻ると、静かな音楽が流れている。指示された通りソファーに座って背にもたれかかると、閉じた瞼の上に温めたタオルが乗せられた。
「どう?」
「うん。気持ちいい」
「じゃ、このまま暫くじっとしてて」
「うん」
隣に座っている彼の手はそっと私の髪を撫でている。ぼーっと音楽を聴いていると眠ってしまいそうだ。
「今度の連休、旅行に行こう」
突然の言葉に驚き、タオルを掴み、ついと体を起こして彼を見た。
「旅行? どこへ?」
「温泉」
「温泉? なんで、温泉?」
「温泉嫌い?」
「……好き」
「じゃ、決まりだ」
まだ行くとも行かないとも言っていないのに、決定されてしまった。
「でも、今度の連休って、混んでない? 予約とか大丈夫?」
「大丈夫。もう全部手配済みだから」
手回しのいいこと。呆気にとられ、にっこりと満足げに笑う顔を見ながら、もう言葉すら出てこない。
この人はいつもそう、事前の相談はまったくないのだ。




