ー12ー
「ねえねえ、河原さんって知ってる?」
「河原さん? ああ、知ってる。あの顔に痣がある陰気そうな人」
「じゃあ、あの噂知ってる? 河原さんが松本さんに付きまとってるっていう」
「知ってるー! すごいわよねーあの人。色仕掛けってさ、鏡見たことあるのかしら?」
「あははっ! それ、言っちゃダメよー!」
「あんな人、松本さんが相手にするわけないのに。そんなこともわかんないのかしら?」
「ほんと、迷惑よねー」
「松本さん、かわいそう」
空になったポットにお湯を入れようと向かった給湯室の前の廊下で立ち止まったまま、私がいるとも知らず、噂話に興じる女の子たちの声を聞いていた。
それにしても、私が松本亮に色仕掛けで迫っているとは、すごい話になったものだ。
女という生き物は、まるで息をするかのように噂話をする。噂話の元は何だろう。思いつくのはせいぜい、彼と仕事の相談と称してランチに出かけていたことくらいだ。たったそれだけのことが、いつのまにか色仕掛けで迫っている話になっているとは、女の子の想像力はまったくもって恐ろしい。
「よっ! 瑞稀ちゃん」
突然後ろからポンっと肩を叩かれ、声をかけられた。驚いて振り向くと、そこには知らない男がいた。誰だろうこの人、どこかで会ったような気がしないでもないが、思い出せない。
「あの……失礼ですが……」
「ええ? わかんないの? 俺だよー」
その男は、私の顔を覗き込むように顔を近づけながら眼鏡を外し、頭に手を伸ばした。
髪がするっと滑って、スキンヘッドがあらわになった。
「わっ!!!」
目を見開き、大声で叫びそうになった私の口を、彼の大きな手が塞いだ。私が叫ばないのを見定め、周囲をキョロキョロと見回し、少し不満そうな顔をしながら、カツラを元に戻し、手櫛で形を整えた。
「酷いなー! そこまで驚かなくてもいいでしょ?」
「関根さん!」
心臓が止まるかと思った。胸に手を当て、ゼイゼイと荒くなった呼吸を整える。
「俺と瑞稀ちゃんの仲なのに、俺の顔忘れちゃうなんて、悲しいな」
「だって、その頭!?」
「これ? これはね、仕事用」
「仕事用って? それに、何でここにいるんですか?」
「バイト! って言うか、こっちの方が本業かも。俺、前はここの社員だったの。今はフリーで店と掛け持ち」
「へぇ……」
関根さんは、店で会った時とはまるで別人。明るい茶色のふわっとした少し長めの髪に細いメタルフレームの眼鏡をかけた顔は、上品だけどどこか垢抜けた感じ。チャコールグレーのスーツに渋いブルーのネクタイも、背の高い彼によく似合っている。馬子にも衣装とはよく言ったものだと、上から下まで舐めるようにその姿を眺めながら、ハッと気づいた。
「あの、関根さん、もしかしてあの日、あのバーで……」
「あはは! やっと思い出してくれた?」
そうだ、どこかで見た覚えがあるはずだ。あのバーで彼と一緒にいたのは、この人だ。とすると、この人の店へ呼び出され紹介された時にはすでに、初対面ではなかった。もしかしたら、この人は私のメイクを見破ったのではなく、最初から私の素顔を知っていたのかもしれない。そうであれば、私は彼とこの人に、完全にハメられたということだ。
「酷い、私のこと騙したんだ……」
少し腹が立ち、むくれた顔をして睨みつけた。
「ごめん。怒んないでよ。悪気はなかったんだからさー」
「もしかして……二人で示し合わせて、私を騙して笑ってたんでしょ?」
「そんなことしてないってば! あの日、亮があんたを店に連れてきた時、はじめはホントに気がつかなかったんだから」
「ホントに?」
「ホントだって! 絶対嘘じゃないってば! 信じてよー」
「でも、途中で気づいたのなら、どうして言わなかったんですか?」
「それは……」
「ほら、やっぱり面白がってたんだ」
「違うって……もう許してよ」
今にも泣きそうな顔をして背中を丸め小さくなって、上目遣いに私を見ている。
「んー、もういいわ。許してあげる」
にっこりと笑ってみせると、彼はすぐさま背筋を伸ばし、顔をくしゃくしゃにして嬉しそうに笑った。
「瑞稀ちゃんは、やっぱり優しくて良い子だよ」
「やっぱり?」
横目で彼の顔を見上げると、すかさず目を逸らされた。この態度は何だろう。絶対、何か隠している。
その時、楽しげに話しながら給湯室から出てきた女の子三人が、私たちの姿に気づき、驚いて足を止めた。まさか、私が廊下にいるとは思わなかったのだろう。私を見て一瞬気まずそうな顔をした後、コソコソと何かを言い合い、何度かこちらを振り返りながら、逃げるようにオフィスへ戻って行った。
「気にするなよ」
関根さんは、慰めるように私の肩に手をかけた。彼にも彼女たちの噂話が聞こえていたのだ。
「うん。別に気にしてないから大丈夫」
「そう? ならいいわ。でもさー、あいつも大変だよな。いっつもあんな調子じゃ……」
「あいつ?」
「亮だよ。あいつの周りは昔っからああいう連中が多くてさ。彼女なんてできた日には、いったい何をされるかわかりゃしないわ。本人は気にしてるのかしてないのか知らないけど。あ、そっか、だから、あいつずっと独り者だったのか」
「ずっと?」
「うん。俺が知ってる限りはね」
「へえ……そーなんだ」
「瑞稀ちゃんは、頑張れよ」
「へ?」
「あいつのことに決まってるだろ? 瑞稀ちゃんは、あいつにとって特別だからさ」
「……特別?」
「そう、と・く・べ・つ! しかしなぁー、何であいつばっかり女にモテるんだ? 俺だってこんなにイイ男なのに! あ、そうだ! 小夜ちゃん元気?」
「小夜?」
「うん。小夜ちゃん。会いたいなぁ。あ、そうだ! 今度、ダブルデートしようよ!」
約束だよと言い残し、関根さんは颯爽と風のように去って行った。きっと小夜と同じで、関根さんは私が彼となぜ付き合っているのか知らないのだろう。でも、小夜が私を心配するように、関根さんは彼のことを考えているのだ。そう思うと、心が温かくなった。
それはそうと、ダブルデート。関根さんは、横柄な男ではなさそうだけれど、そもそも小夜の好みのタイプではない。それに、小夜は啓一筋だから、誘っても絶対に嫌だと言うのは目に見えている。
「どうしよう? いくら友達でも、こればっかりは、他人が口を挟めることじゃないしなぁ……」
グループでの共同作業は助けたり助けられたり。上からの要求がきつければきついほど、共通の敵に立ち向かってでもいるかのような気分になって、チームワークが良くなっていく。はじめのうち、少し難しいかもしれないと危惧していた二人の女の子たちとの関係も、思いのほか良い感じになってきた。
「ううっ、また追加なの?」
「仕方ないでしょ、上の判断だから。クライアントの要望でもあるし」
「そうだけど……これ、また揉めそうよね」
白石さんがうんざりした表情でそう言うと、木村さんが顔をしかめた。
「あのハゲ親父、余計なこと言わなきゃいいんだけど」
「ハゲ親父?」
「あはは! 河原さん、気がつかない? 酒井さんのあの頭!」
「まだそこまでじゃないんじゃない?」
「あはは! そうよねー知らないわよね。あれね、あれで、増えてるの」
「え?」
「だからー、絶賛増毛中!ってヤツ。まだ独身だし、気にしてるんじゃない? 意味ないのに!」
「そうそう、あの人が嫌われてるの、髪の毛以前の問題なんだよね」
「まぁ、見た目も大事だけど」
二人でキャッキャと言いたい放題。それはそうだ。このご時世、男性至上主義の男は女の敵でしかない。
「お喋りは後にして、急いで資料まとめちゃいましょう。会議まであと三十分しかないわよ?」
「やばい! 佐藤くん、これ、コピーお願い」
この二人は切り替えが早い。すぐさま仕事モードに戻り、白石さんは資料を整理し、修正箇所を確認。木村さんはカチャカチャとキーボードを叩き、佐藤くんはコピー機へ走った。
仕様変更や機能の追加が多くなってくると、会議は当然のことながら、揉める。特に、酒井さんと木村さんの攻防戦は激しい。
「この追加、そっちでちゃっちゃとやっちゃってよ」
予想通り、酒井さんが口を開いた。
「ここは、そちらで処理すべき部分だと思いますけど、違いますか?」
「なんでよ? わざわざこっちがやることじゃないよ」
「でも、クライアントの要望でもありますから」
「できないの? 簡単でしょ?」
「すみません、ちょっとよろしいですか? 私が思うに、ここはクライアントの要望はもちろんですが、ユーザーの利便性と効果の問題を優先して考えるべきかと。そうなると、データの集積も必要になりますし、やはりそちらの方で作業していただくのが順当ではないかと思うのですが、いかがでしょうか」
「おまえが客を説得すればいいだけだろ? とにかく、いらないもんはいらない」
「酒井さん!」
木村さんが鋭い目つきで酒井さんを睨んだ。隣に座っている私は、気持ちを落ち着けるようにとテーブルの下で彼女の膝を軽く叩いた。
「では、こうしましょう。酒井さん、ここはやはりクライアントの要望を優先して、そちらで作業お願いします。コスト的には問題はないですが、そちらの手間も考えて、変更が最小限になるようにクライアントと相談ということで、納得してください。では、今はここまでということで、お昼にしましょう」
酒井さんはまだ不満げに何か言いたそうにしていたが、ディレクターにまとめられてしまったらもう決定事項、これ以上何を言うこともできない。
松本亮が立ち上がり、会議室のドアを開け、外へ出た。
一人二人と席を立ち、会議室から出て行く。最後に残った私たちの前を歩く酒井さんが、こちらをチラッと振り向きながら小さく舌打ちし言葉を漏らした。
「チッ! 女のくせに生意気なんだよ」
「何よっ!」
食ってかかろうとする木村さんの腕を、私と白石さんが掴んで止めた。
「生意気を生意気と言って何が悪い! おまえらはよけいなこと言わないで、俺らの言う通り仕事してりゃいいんだよ!」
木村さんは怒りで真っ赤な顔をしてプルプルと震えている。白石さんも泣きそうな顔をして酒井さんを睨みつけた。
この酒井という男は、いつもこうだ。こういう男には何を言っても意味はないことはわかっているのだが、理不尽な言葉をぶつけられ、悔しそうな彼女たちを見ていると、何も言わないわけにもいかない。
「お言葉ですが、仕事に性別は関係ないと思います」
「そういうところが、生意気だっていうの! ああ、そっか、その顔じゃあ……おまえは女以前だもんな」
陰険な顔をして私を嘲笑っている。
「ちょっとあんた!」
怒りに任せて前へ一歩出ようとする木村さんの腕を掴む手に力を入れ、彼女を制止した。
「酒井さんって親の躾が悪いんですね。小さい頃、自分が嫌なことは他人にしてはいけませんって教えられませんでした?」
身体的な欠点を攻撃するのは不本意だが仕方がない。そう言いながらにっこり笑って彼の頭を見た。自分が気にしていることに関しては、誰でも敏感なものだ。彼はすぐに私の視線に気づき、怒りで顔が真っ赤になった。そして、私を憎々しげに睨みつけた後、無言でオフィスに戻って行った。




