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ー10ー

 部屋に入ると、小夜はさっそくキッチンでお茶の支度を始めた。ホテルのスイートルームのような自分の部屋と比べているのか、それとも女性の一人暮らしの部屋が珍しいのか、彼は興味深そうに部屋の中を眺めている。


 整然と飾り気のないホコリひとつない部屋は、女性らしい生活感がないのが嫌だと小夜にいつも文句を言われるが、掃除だけはマメにしていて良かったと、この時ばかりは思った。


「どうぞ。お茶が入ったから座ってください」


 小夜はティーカップを並べたお盆をテーブルに置くと、ソファーを彼に勧め、あんたはそっちよとばかりに、私を強引にその隣へ座らせ、自分は向かい合ったスツールに腰を下ろし、にこにことこちらの様子を伺っている。何も知らない小夜には、聞き出したいことがたくさんあるのだろうが、私としてはこの場をうまく切り抜けることが先、それはまたあとでの話にしたい。


「私たちこんなに近所に住んでるなんて、すごい偶然ですね。びっくりです」


 あんたの家は、ここではなくて駅二つ先だろうがと心の中で毒づく。


「うん、そうだね。俺も、こんなに近くに住んでいるとは知らなかった」


 きっと言いたいことがたくさんあるのだろう。彼が少し目を細め、微笑みながら私の顔をチラリと見た。


「松本さんのお宅は、どの辺なんですか?」

「ここからすぐ近く、さっき家の前を通ったよ」

「えー? そうなんですか?」


 にこやかに笑う小夜の目は私を凝視したまま、笑っていない。


「松本さんは、お仕事、何なさってるんですか?」


 にこにこと笑い一般的な世間話みたいな顔をして、次々に質問していくその内容は、まさに身上調査だ。


「俺? 俺は開発系のサラリーマン」

「そうなんだ? 同じ業界の人?」

「青木さんも開発系? じゃあ、俺たちと一緒だ。俺と瑞稀は今、一緒に仕事をしてるんだよ」


 小夜の目が驚きで丸くなった次の瞬間、私を睨んだ。


「瑞稀ってば、それ、私聞いてない!」

「うっ……ごめん……」


 今この場で詳しい話はできないけれど、あとで全部話すから許してくださいと、済まなそうな顔を作り手を合わせた。


「瑞稀と青木さんって、同じ会社だったの? ということは……」

「ご紹介が遅れて申し訳ありません。うちのチーフデザイナーの青木です。小夜、こちらはディレクターの松本さん」


 どうにもいたたまれず、俯いたまま小さな声を出した。


「ああ、そうなんだ。じゃあ、あのデザイン、青木さんのなんだね? あれ、すごく良いってクライアントが褒めてたよ」

「えー? そーですかあ? ありがとうございます……って……瑞稀!」


 小夜に怒鳴られ、ひっと肩を窄めた。なぜこんな目に合わなければならないのか。穴を掘って自分を埋めてやりたい。


「ごめん、小夜。悪気はなかったの」

「あんたがこんなに冷たい女だったとはね! 松本さんもひどいと思いません? 一緒に仕事してるのに、瑞稀ったら何も話してくれないんだもの。それにしてもすっごーい! こんな偶然ってあるんですね」

「うん。俺もあの日、会議室にいる瑞稀を見た時は、正直、すごく驚いた」


 静かなバーで出会い、衝動的に一夜を過ごし、その後連絡を取れずにいた恋人同士が職場で偶然の出会いを果たし、さらにごく近所に住んでいる。これを縁と言わずして何と言うのか。一見、小夜好みのロマンチックなラブストーリーだが、本当のところ、これは恋愛ではなくて賭けなのだ。


「一つ聞いてもいいですか?」


 小夜は突然背筋を伸ばし、真面目な顔をして彼に向き直った。


「いいよ。何?」

「松本さんと瑞稀って、結局のところ、どういう関係なんですか?」

「ちょっと! 小夜!」


 突然何を言い出すのかと、緊張が走る。


 とっさに身を乗り出して、話を遮ろうとする私を阻止するように、彼が私の手をぎゅっと握りしめた。


 心臓がドクッと大きな音を立てた。


 彼の顔から笑顔が消えた。私の顔を見て、それから小夜に向き直って、ゆっくりと口を開いた。


「瑞稀の気持ちはまだ聞いていないから、本当のところ、どう思っているのか俺にはわからないが、少なくとも、俺は本気で付き合いをしている、と、思ってる」


 彼の目を見つめていた小夜は、ゆっくり下を向きフーッと息を吐いてから顔を上げ、私たち二人に笑顔を向けた。


「よかった。それを聞いて安心しました」

「小夜……」


 なぜだろう。胸がキュッと締め付けられて、涙が出そうだ。


「さて、邪魔者は退散するとしますかぁ! 松本さん、ゆっくりしてってくださいね! 瑞稀、シャワー借りるわ」


 言い終わるより早く、ベッドルームへ走る小夜の後ろ姿を、呆然と見送った。


「良い友達だね」


 握られたままのその手から、彼の体温が伝わってくる。


「……うん。口悪いし、ちょっと鬱陶しいところもあるけど、本当に大切な友達」

「でも……青木さんの印象って、いつも走ってる気がする」


 本当だ。小夜は、いつも慌ただしい。顔を見合わせ、思わず吹き出した。


「あの日、どうやって帰ったの?」


 さっきから落ち着かない心臓が、さらに大きく脈打つ。やはり、忘れてはくれなかった。彼の瞳は、意地悪そうに笑っている。


「……地下鉄を乗り継いで……あの、ごめんなさい」


 まるで隠し事がバレて叱られる前の子供だ。きまりが悪くて合わせる顔がない。俯いて私の手を握っている彼の手を見ていた。


「謝らなくてもいい。あの日、君は何も覚えていなかったんだから、警戒するのも無理はない」

「うん」


 優しい声にホッとして、少し間を置いてから、小さく頷いた。


「でも……一緒に仕事をしだしてから、話をする時間はたくさんあったはずなのに、言わなかったのはおかしなことだね」

「うっ……それは、そうだけど……でも」

「でも何? 口答えするの?」


 やはり、容赦はされなかった。声色が少し厳しくなる。きっと、怒っているのだろう。この人の言う通りだ。別に隠すほどのことでもないし、話す機会はいくらでもあったのに、隠し続けていたのだから。


「ごめんなさい」


 罪悪感で、胸の奥がチクッと痛んだ。


「ああ、そうだ。君の服、ブラウスとスカートはクリーニングに出しておいたからね」

「あ……」


 すっかり忘れていた。あの日、寝室に服や下着が散らばっている光景を思い出して、恥ずかしさがこみ上げてきた。


「下着は、俺が洗ったから」


 意味ありげに笑う顔を見て、からかわれているのだと気づいた。この男はまったく、どこまでが真面目でどこからがふざけているのかわからない。損をした、と、罪悪感を感じたことを後悔した。


「あ、そうだ。あのワンピース」

「ワンピース? ああ、あれか。あれは別にいいよ、返さなくても。服の一枚や二枚なくなったって、あの買い物中毒が気づくわけがない」

「買い物中毒?」

「俺の姉貴。本人は趣味だと言い張っているけど、あれは間違いなく中毒だね」


 お姉さんの様子を思い出したのか、少し呆れた顔をしてあははと声を出して笑った。


「お姉さん?」

「そう。結婚して、今は義兄と東南アジアに住んでるんだけど、しょっちゅう戻ってきては、デパートだなんだと買い物に出歩いてるの。でも、持って帰るにも限度があるでしょう。だから、ほとんどを家に置いて帰るんだ。あのマンションは姉貴たちのものだから、俺は文句を言う筋合いもないんだけどね」

「お姉さんたちの家?」

「うん。姉貴たち、結婚してすぐあのマンションに住むつもりで買ったんだけど、その途端海外赴任になってね。四、五年は戻れないって言ってたかな。買ったばかりだし、条件の良い物件だから手放すには惜しいし、だからって空き家にもしておけないでしょう? それで、どうしようって話になって、俺が頼まれて管理がてら住んでるの」


 女は……いなかった。


 あの日、あれこれ考えたことはすべて、まったくの誤解だった。自分の行動を棚に上げて、何も悪いことをしていないこの人を一方的に疑って、怒ったり幻滅したりしていただけだったのだ。突然のことに混乱していたなんて、言い訳にもならない。


 この人の態度は、あの日から今まで、何も変わっていないのだ。申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


「ごめんなさい」


 俯いたまま、蚊の鳴くような声で言った。


「ん?」

「正直に言わなかったこともそうだけど、それ以外のことも……」


 頭上から温かい視線を感じる。顔を見なくても彼が微笑んでいるのがわかる。


「俺のこと、悪い奴だと思ってたんだ」

「うん……少し。ごめんなさい」


 彼は俯いている私の肩を抱き寄せ、もう一方の掌で頬を包み私の顔を上げさせた。何かが顔に覆いかぶさり、唇にそっと柔らかく温かなものが触れる。初めての、正確には何度目かわからない彼のキスだった。


 目を細め、優しく笑う彼を見ながら、こうされるのを嫌だと思っていない自分が不思議だった。


「それで、今は、信用してくれた?」

「うん」


 すっぽりと抱かれ、彼の胸に頭を預けて静かに目を閉じた。彼の体温を感じ、規則的に脈打つ心臓の音を聞いていると安心する。その自分の気持ちにまったく違和感を感じなかった。


「そろそろ戻るよ」


 その一言で、突然夢の世界から現実へ引き戻された気がした。どれくらいの時間、こうして肩を寄せ合っていたのだろうか。そうだ、小夜がいるのを忘れていた。今か今かと寝室で私を待ち構えているに違いない。今日は寝かせてもらえるのだろうか。


 玄関まで彼を送りながら、相談しなければならないことがあったのだと思い出した。


「亮」

「なに? どうかした?」

「相談があったのを思い出したの。あの、ランチタイムのことなんだけど」

「ランチタイム?」

「うん……」

「俺と一緒に昼飯行きたくない?」

「えっと、そうじゃなくて、いつも一緒にランチは、他の人たちの手前、ちょっと目立ってまずいような気がして。だから……」

「わかった」


 ちょっと不快そうに苦笑する顔を見て、少し慌てた。


「別に嫌だって言ってるわけじゃないの。ただ、良い方法ないかなって」


 玄関で靴を履いた後、突然彼が振り返り、ポンと私の頭を叩いてワシワシと撫でた。


「わかってるから、心配しなくていい。徒歩三分に免じて、対策を考えるよ」


 訳が分からず、ドアを閉め出て行くその姿を硬直したまま見送った。


 徒歩三分、徒歩三分とは何を意味するのだろうか。ドアを見つめたまま暫くの間、呆然と徒歩三分という彼の言葉を頭の中で繰り返していた。



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