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ー1ー

 こんなに気持ち良く目覚めたのはいつの日以来だろう。肌の温もりが心地良い。彼と二人、抱き合って柔らかな布団にくるまり微睡む朝のこの時間が、私は一番好きだ。

 フーッと深く息を吐いて少し体を動かすと、彼は私が目覚めたのに気づいたのだろう。体の向きを変え、私をぐっと抱き寄せて額にそっと唇を押し当てた。


「もう少しこのまま寝てよう」


 少し気だるそうな、吐息のようなかすれた声を耳にし、とっさに目が覚めた。


「えっ……?」


 ちょっと待て、私に彼氏はいない。


 これは夢だ、絶対に夢であるべきだと自分に言い聞かせる。夢にしてはあまりにリアルな感触に戸惑いながら、恐る恐る目を開け見上げると、そこには、私を抱きしめて眠る見ず知らずの男の顔があった。


 驚き過ぎて呼吸ができない。背筋に悪寒が走り、手足がみるみる温度を失っていくのが分かる。


 男はゆっくりとゆっくりと瞼を上げ目を開いた。少しずつ光を増し覚醒していく明るい茶色の美しい瞳。呆然と見ている私の表情は、きっと滑稽に違いない。男は眉間に少し皺を寄せて何かを考えるような表情をした後、片一方の口角を僅かに上げて笑い、私の瞳をじっと見つめた。


「起きる?」


 その声でハッと我に返り、男の腕の中からもがき出てベッドの端に座り込んだ。


「うわぁ!」


 全裸だった。


 慌てて布団を鷲掴みにして身体を覆う一連の動作を無表情で見ていた男は、突然、顔をほころばせクッと笑って起き上がった。


「今更、何を慌ててるの? 見てないところなんてないのに」


 男は手を伸ばして私を抱き寄せ、後ろから私を抱きしめ頸に顔を埋めた。その力強さに身動きひとつできない。熱く湿った息が耳にかかり、男の素肌の感触と体温が直に伝わってくる。頬から顎、首筋にかけて熱い掌でゆっくりと撫でられ、耳たぶに甘噛みされると、身体が勝手にビクッと反応し、全身に鳥肌がたった。


「あ、あの……」


 やっとの思いで、小さな声を出すことができた。


「待ってて」


 男はそう言うと、私の腰に絡み付けていた手をほどき、自分が全裸であることを気にもとめていない自然な素振りでベッドから降りた。椅子の背にかかっていたガウンを手にとって袖を通しながらドアを開け、部屋を出て行くその様子を、放心状態でベッドに座り込んだまま、無意識に目で追った。


 何気なく周囲を見渡すと、そこはシンプルで落ち着いた色調の寝室だった。クィーンサイズの柔らかなベッドに、こげ茶と抹茶色で統一されたベッドリネン。窓には同系色の遮光カーテンの隙間から白いレースのカーテンが覗いている。窓辺には、座り心地の良さそうなリクライニングチェアと小さな丸テーブル。ベッドの足元に位置する白いドアの脇には、やはり焦げ茶色で柔らかな木質のクローゼットと、その向こうには本棚があった。


 ここは、ホテルではない、あの男の部屋だ。そう直感した。フローリングの床に点々と散らばっている二人の衣服が目に止まった瞬間、昨夜起きたであろうことを想像し、手で顔を覆った。


 見てないところはないという男の言葉は、私の身体を余すところなく見たという意味。つまり、私たちは一糸纏わぬあられもない姿で、一夜を過ごしたということだ。


 ふと気配を感じ顔を上げると、いつの間にか目の前に立っている男と目があった。その瞳は愛玩動物でも眺めているような笑いを含んでいる。馬鹿にされてる。屈辱を感じ慌てて目を逸らした。


「とりあえずこれを羽織って」


 薄紫色のガウンを手渡し、男はまた部屋を出て行った。ドアの向こうに男の姿がないことを確かめ、そそくさとそれを羽織り部屋を出ると、遠くから声が聞こえた。


「シャワー浴びてきなさい。廊下の突き当たりがバスルーム。タオルと歯ブラシは新しいのを用意してある。化粧品は鏡の右側の戸棚の中にあるから適当に使うといい」


 その声に促されるまま、バスルームへ飛び込んだ。ドアを閉め、ほっと息を吐いた途端、膝がガクガクと震えた。


 この状況はいったいどういうことなのか。もしかして、酔わされて襲われたのだろうか。それにしては、あの男の様子が自然過ぎるし、そこまで悪い人とも思えない。酔ったはずみで見知らぬ男と……というのは、さすがに初めてだが、この程度のことで狼狽するなんてみっともない。起きてしまったことは今更どうしようも無いのだ。私はもう二十七歳、何も知らない乙女ではない。ここは冷静になって対策を練らなければと、自分に言い聞かせた。


 なんとか心を落ち着かせて鏡の前に立ち、ガウンを脱いで鏡に映る自分の身体を眺めた。首筋、鎖骨、胸に、薄っすらと赤い痕が残っている。全身の気だるさと下腹部に残る感触も、昨夜のできごとを明確に物語っていた。


「……本当にやることはやったんだ」


 ため息が出た。


 洗面台には、きちんと畳まれた真っ白で柔らかそうなバスタオルとフェイスタオル、その上には新しい歯ブラシと歯磨き粉が置かれていた。


 そうだ、化粧品がどうとか言ってたっけ。


 男の言葉を思い出し、指示された戸棚の扉を開けると、女性用高級ブランド化粧品が並べられていた。メイクアップリムーバーから化粧水、乳液、クリームまで、基礎化粧品が一式すべて揃っている。


「シャネルだ……。そういえば、このガウンも……」


 女がいる。


 明らかに使用感のあるノーマルサイズの化粧品一式に、女物のガウン。男の一人暮らしでは、到底ありえないことだ。同居している女がいるのだろうか、もしかしたら、すでに結婚しているのかもしれない。ただ、部屋の雰囲気はいかにも男の一人暮らし。ということは、同居とまではいかなくても、日常的にこの部屋に泊まりに来る女が、生活用品を常備しているのだろう。


 特定の相手がいるにもかかわらず、酒場で出会った女を自宅へ連れ込んでいる。私が初めて……そんなわけはないだろう。男の平然とした様子を思い出し、急に腹が立ってきた。


 冷たいシャワーを浴びて、すっかり血が上った頭を冷やそうと、シャワールームへ入った。


 まだ九月に入ったばかりで夏の暑さが残っているとはいえ、水道水をそのまま浴びるのはさすがに冷たい。あんな奴のために風邪を引くのはくだらないと思い直し、やはり普通にシャワーを浴びることにした。


 しまった、先に化粧を落とせばよかった。


 熱いシャワーを頭から浴びながら、少しずつ冷静な自分を取り戻し、昨夜の記憶をたどる。


 私には、ストレスが極限に達すると、突然掃除をして物を捨てたくなる癖がある。昨日はまさにその状態で、朝から一日中、部屋を掃除していた。夜になって客先に発生した突発事項を処理するために、仕方なく午後から休日出勤した同僚で親友の青木小夜あおきさよと、会社近くの駅前で待ち合わせ、軽めの食事をした後、自宅近くにある行きつけのバーでお酒を飲んだ。


 そこは雑誌に紹介されるほどの人気店でいつも混んでいるが、昨日は時間が遅かったためかお客さんが少なかった。私たちはこれ幸いといつものカウンター席ではなく、テーブル席のソファーで寛ぎながら、お気に入りのカクテルを数種類飲んだ。


 何を話していたのだろう。そう、仕事だ。クライアントが原因のトラブル対応で、ヘロヘロになっていた小夜の愚痴を聞いていたのだった。それから……。


 思い出した。カウンター席に座っていた二人組。そのうちの一人があの男だ。もう一人は眼鏡をかけていたこと以外、覚えていない。どちらが誘ったのかは知らないが、彼らと一緒に飲み始め、いつのまにかあの男と二人きりになっていたところまでは朧げに記憶がある。その後どうしたのか、なぜこの状況に発展したのかまでは、どうしても思い出すことができないが、小夜が私を捨てて先に帰ったことだけは確かだ。


「小夜……帰ったら絶対シメてやる」


 キュッとシャワーを止め、低い、これ以上はないほどの低い声で呟いた。


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